-6- 食らうもの
黒い漆が塗られた一メートルほどの彫像。どこかバランスの崩れた造形だが、今にも動き出しそうな迫力を持っている。
燃えるような瞳も、血肉のこびりついた牙も、腕の毛も、脚の筋肉、関節、硬そうな蹄も、そして半ば食らわれ、無残な姿になった人間の身体も、一瞬本物と錯覚するほどだ。
私に芸術鑑賞の素養はない。しかしこれは技巧によってではなく、狂おしい情熱によって造りだされたものだということは理解できた。
「……我が子を食らうサトゥルヌス」
片倉君が有名な美術作品の名前を呟いた。確かギリシャ神話がモチーフだったか。
「それよりもグールに似てるかな。屍を食べる鬼と書いて屍食鬼とも言う。アラブの伝承によく出てくるやつ」
古戸さんは顎をさすりながら、像を興味深げに眺めている。
「なんでそんなのがここにあるんですかぁ……」
寒さ、暗闇、地下室、死体、そして不気味な像。神経を揺さぶられ続けた真奈加の声は細く弱い。私は励ますように彼女の腕を取り、自分の方に引き寄せた。
「もちろん、本当の本尊としてここにあるのさ。死と再生。あるいは死者の知識や力を取り入れるため。いくらでも解釈のしようはあるし、古今東西でそういう信仰の実例もある。今どきは流行らないだろうし、現にここも滅びかけてるわけだけど」
私は古戸さんの発言を聞き流して異形の彫像から目線を外し、部屋の奥に凝る闇を見つめた。そこからは生臭くわずかに温かい空気が漂ってきている。死体を避けつつ確かめてみれば、壁には人ひとりが通れるほどの穴が空き、地中に長く延びる洞窟の入口となっていた。
音がする。近く、遠く、響き合うように、獣の鳴き声に似た音が。全身が総毛立ち、本能が警鐘を鳴らすような音が。
「逃げましょう……これは」
私は男性の死体を指さした。
「これは捧げものです」
洞窟の奥からなにかがやってくる。こちらの存在はもう気づかれているだろうか? どちらにせよ、このまま部屋に留まればそれと相対する羽目になる。異形の像のモチーフとなったもの。宇良木集落の地下に潜む屍食鬼。
私は古戸さんたち三人を押し出すようにして、地下空間を脱出した。上げ蓋を急いで戻し、追ってくる存在の気配に耳を澄ませる。いざとなれば蓋を押さえるなり階段から蹴落とすなりして、時間を稼ぐつもりだった。
「由宇子、早く!」
正面の戸に手をかけた真奈加がこちらを振り返る。
「大丈夫。先に」
しかし私はすぐこの判断を後悔することになった。肉体の危機によってではなく、聞こえてきた音によって。
洞窟の奥からやってきたものは、すぐさま私たちを追おうとはしなかった。目前にある死体にまず関心が向いたのだろう。尖った知覚の捉える情報が、脳裏に生々しい映像を構成する。
ごり、ばき、ごり。強靭な牙と顎で砕かれる頭蓋骨、ねじ切られる頸椎。咀嚼され、飲み下される。およそ人間が収まるべきでない場所へ。異形の臓腑へ。
私は上げ蓋からそっと足を外し、忍び歩きで本堂の出口へ向かった。階下でおこなわれているおぞましい所業のイメージと、漏れ出た生臭さを振り払うように、冷たくも清浄な屋外へと逃避した。
宇良木集落の地下には屍食鬼がいる。そして村人たちは、おそらく定期的に死体を捧げている。それどころかあんな彫像まで作り、信仰の対象としているのだ。
横浜を出発する前に片倉君が言っていたことを思い出す。ヤサカさんは、宇良木に嫌な思い出があるようだ、と。これがそうなのだろうか? 人を食らわせる風習を忌避して。あるいは自らが死後に食われることを恐れて。ならば、なぜ今になって戻ってきたのか。
古戸さんに肩を叩かれて、私は外界への注意力を取り戻した。
「アレ、見てごらん」
集落の中で、懐中電灯の光が瞬いている。三つ四つのグループが分散して、なにかを捜しているようだ。
なにか? 私たちに決まっている。こっそり宿を出てきたのがバレたのだ。あるいは道中どこかから見られていたのか。日中寺にいたところを目撃されているから、住民たちがこちらに向かってくるのは時間の問題だろう。
「宿と車は抑えられてるかなあ。行くだけ行ってみる?」
古戸さんが呑気に呟く。
「……素直に事情を話すべきでしょうか」
「謝ったら許してくれるかな……」
片倉君と真奈加が不安げに身を寄せ合う。
集落の住民は秘密が露見するのを快く思わないだろう。しかしそれは即ち、私たちに危害を加えるはずだということにはならない。それに、私と古戸さんだけならともかく、こちらには真奈加と片倉君もいる。二人にはあまり無茶をさせたくなかった。
どうするべきか?
「――こちらに来なさい」
本堂の方から掠れた声がして、私は弾かれたように振り返る。懐中電灯の強い光を浴びせられた相手は、黒い体毛に覆われた腕で鼻面の長い顔を庇った。
「あああ……」
怯えた声を出す真奈加を気遣うように、屍食鬼は二、三歩距離を置いた。雪を踏む下半身は偶蹄目、背を丸めたような上半身は類人猿に似て、食肉動物を彷彿とさせる口元からは、黄ばんだ大きな犬歯が覗く。わずかな光を反射して赤く煌く両眼は、闇夜を見通す視力を持っているように思えた。
「村の人間には見つからない方がいい」
屍食鬼は言った。
「あなたは誰ですか」
私はゆっくりとライトを下げつつも、ほかの三人を守るような位置に立ち、恐怖を気取られないよう声に力を込めた。目の前の屍食鬼は今のところ穏当な態度を取っているが、彼も先ほどの死体を口にしたかもしれないのだ。
「私はこの村の人間だ。……いや、人間だった」
「人間……?」
彼が示唆したことの意味を理解するのには、少々の時間を要した。屍食鬼は元々人間だった。しかし一体どんな過程を経れば、人間がこんな怪物に変化するというのだろう? 重ねて質問しようとした私を、古戸さんが制した。
「まあ、今は彼の案内に従おう。色々と事情も知ってるだろうし。真奈加君も、片倉君もそれでいいね?」
二人はほとんど茫然自失のまま、がくがくと首を縦に振った。
「互いに手を繋いで、私のあとについてきなさい」
住民たちが徐々にこちらへと近づいてくる。迷っている暇はない。私は片方の手で真奈加の腕を握り、もう片方で屍食鬼が差し出した手を取った。固い皮膚と太い骨の感触が、手袋越しに伝わってくる。
そうして私たちは一列になり、夜目の利く屍食鬼に連れられて寺の敷地を離れた。
雪や木の根に足を取られ、転びかけては引っ張り起こされながら、私たちは集落の辺縁をなぞるようにして一軒の家屋までやってきた。
それは宇良木に多くある廃墟と同様、放棄されてからかなり長い時間が経っているようだった。とはいえ屋根と壁はまだかなり形を保っており、屋外よりは快適に過ごせそうに見えた。
私たちは腐りかけた雨戸を無理やり開き、家屋へと侵入した。そこまで荒れていない一室を見つけ、畳に腰を下ろす。屍食鬼はどこからか三、四枚の毛布を持ってきて、こちらに投げて寄越した。放棄された家屋であるため電気もガスも通っておらず、ひとまずはこれで寒さを凌ぐしかない。
「酒居と話をしてくる」
屍食鬼は言い、私たちに背を向けた。
「待ってください!」
それを呼び止めたのは片倉君だ。
「ヤサカさんですよね?」
屍食鬼はぴたりと動きを止めた。
「……ヤサカという人間はここにはいない」
「嘘だ。あなたはヤサカさんだ」
「夜が明けたらこの集落を離れなさい」
怪物じみたこの存在が、単なる親切心から私たちを助けたとは思えない。かつて人間だったという発言、片倉君の呼びかけに対する反応からしても、この屍食鬼がヤサカさんだと考えるのはごくごく自然な推理だ。
「その態度はちょっと無責任だなあ」
二人のやりとりに、古戸さんが口を挟んだ。
「ここにいる片倉君はあなたを友達だと思ってるんだ。いきなり挨拶もなしに消えたもんだから、心配して僕に捜す手伝いを頼んだんだよ。横浜から時間をかけてやってきて危険を侵したのは好奇心からじゃない。あなたを捜すためだ。
なにか複雑な事情があるのは分かるし、縁を切るのは自由だけど、それでもなお、って追っかけてきた人間に対して、最低限の義理ぐらいは果たすべきじゃないかと僕は思うね」
古戸さんがなんだかとても真っ当なことを言っているので、私は驚いてしまった。ただよくよく考えると、人を挑発するのが好きないつもの一面が発揮されただけかもしれない。
屍食鬼はわずかに逡巡する様子を見せたあと、私たちの方に向き直り、どっかりと腰を下ろした。
「まいったな」
「やっぱり、あなたがヤサカさんなんですか」
私は尋ねた。状況からそうだろうとは考えていても、本人から確かな言葉を聞くまで、完全に信じ切ることはできなかった。
「そうだよ。私がヤサカだ。……まさか片倉君が、こんなところまで来るとは思わなかった」
懐中電灯を毛布でくるみ、ささやかな照明とする。その光にぼんやりと浮かぶヤサカさんの顔は、決して薄くはない人間の面影を残していた。




