-終- 呼び声
黒い怪物は明らかに本を恐れていて、私がそれをちらつかせさえすれば、牙や鉤爪での攻撃を躊躇った。その代わり先回りして道に立ち塞がったり、重いものを落としてきたりして、間接的に私たちを脅かした。
その乗り手たち――複数いたが、誰も彼もが黄衣を纏い、たるんだ皮を持つ太った女――はもっと直接的かつ執拗にプレッシャーを与えてきて、こちらの体力と精神力が尽きるのを待っているようだった。
霧に紛れ、建物の影に隠れ、何度も危険なほど接近されながら、それでも私たちは辛うじて捕捉されずにいた。しかし進捗は遅々たるものだ。
「そもそもどこに向かってるんですか?」
私とヴェラはともかく、古戸さんの耐久力が限界に近かった。元々の不摂生に加え、低体温状態が長く続いたせいだ。
「僕の上陸地点だ。そこに本を持っていく約束になってる」
私たちは互いに囁きを交わしながら、遊園地の横を足早に通過した。静かに佇む無人のアトラクション群。その向こうにある巨大な観覧車は、ぼんやりとしたシルエットとして映るのみだ。前方には、櫛切りオレンジのような形をした高級ホテルが見える。
「桟橋だ。この先の桟橋」
本から離れれば怪物の餌食となるので、落伍者を出すわけにはいかない。いっそ私かヴェラが古戸さんを背負った方が速いのではと思わなくもなかったが、そうなるといざというとき動くのが難しい。
結果として、私たちは徐々に追い詰められ、追い立てられていった。しかしどのみち海に向かっているので、逃げる場所がなくなるのは時間の問題なのだ。古戸さんが言う通りに進んでいったとして、そこで事態が打開できなければ進退は極まる。
冷たい水の中に飛び込んで、大黒ふ頭あたりまで泳ぐしかない。多分、百メートルもいかないうちに溺死するだろう。
やがて私たちは小さな桟橋に辿り着いた。ここは横浜港から出るシーバスの発着場にもなっている。もちろん今は霧で衝突の危険があるため、運転は取りやめられているはずだ。
黒い怪物たちは今や空を覆わんばかりで、たるんだ身体を波打たせながら進む太った女たちは桟橋の幅一杯にひしめき、追跡の終着を確信したのか、その弛緩した顔に笑みを浮かべているように思えた。
それぞれ十体以上はいるだろうか。私は絶望的な気持ちになりながら、桟橋の突端で事態を見守るほかなかった。
声が響いたのはそのときだ。
陸地ではなく海から聞こえたので、はじめは潮騒だと思った。しかしほどなくして、陰鬱な、抑揚のない、病んだように掠れた祈り声だということが分かった。なぜならそれは、私がルルイエ異本を通して幻視した都市で聞いた、海神に捧げる文句と同一だったからだ。
ふんぐるい むぐるうなふ くとぅるう るるいえ うがなぐる ふたぐん
ふんぐるい むぐるうなふ くとぅるう るるいえ うがなぐる ふたぐん
ふんぐるい むぐるうなふ くとぅるう るるいえ うがなぐる ふたぐん
祈りは次第に数を増し、複雑な反響を伴い。やがて空間全体に、そして私の脳内に満ち満ちた。声がなにかを呼び、そのなにかが私を呼んでいた。冷たい水底への強烈な憧憬と、極大の恐怖が私の精神を圧倒した。あたりに立ち込める霧がわずかに青みがかり、祈りに呼応して不穏に渦巻いた。
怪物たちも太った女たちも明らかに異変を感じ取り、動揺で身体を震わせていた。彼女らは私たちの背後に、海底、あるいは異界より現出した強大な存在を見ているようだった。
もし振り返れば私もそれを目にしただろう。しかし対面したが最後、なけなしの正気が砕け散り、二度と元に戻らないのは明白だった。
だから私は振り返らなかった。しかし結局のところ、おぞましい出来事を見ずに済ますことなどできはしなかった。
霧が収束し、触手のようにうねり、黒い怪物たちを絡み取りはじめる。その強靭な身体は逃れようもなく締めつけられ、へし折られ、羽虫のように海面や地上へと落ちた。
一方、桟橋を取り囲む海からは水かきのある魚人――海神の従者たちが何十匹も姿を現した。体表はぬらぬらと光る青灰色の鱗に覆われ、丸めた背中と前に垂らされた腕は類人猿を彷彿とさせる。
しかし関節や手指の造りは、未発達な両生類のそれだった。今、彼らは小振りの槍に似た武器を持ち、私たちに迫る太った女たちを、逆に包囲していった。
上陸した魚人のうち、特に大きな一体がこちらに近づいてきた。背を丸めた状態でも軽く二メートル以上。短い首と太い二の腕には、白っぽい金色の装身具を身につけていた。その個体はぎょろりと飛び出した巨大な眼で、私の持っているルルイエ異本を見つめている。
今のところ攻撃を加えてきそうな気配はなかったものの、その不気味なプレッシャーに私はあとずさり、桟橋から足を踏み外しかけた。ヴェラが腕を掴んで引き戻してくれたが、彼女の手からも強烈な緊張が伝わってきた。
巨大な魚人が包囲網に向き直り、大きな声で何事か叫ぶ。
すぐに殺戮がはじまった。魚人たちは槍を振りかぶり、太った女たちに襲いかかった。突き出され、投擲された切先がぶよぶよした皮膚を貫き、汚らしい脂肪や体液を撒き散らさせた。女たちは耳を塞ぎたくなるような呪詛の声とともに突き刺さった槍を引き抜き、それを力任せに振り回した。
頭を砕かれた魚人がふらふらと桟橋から落ち、水飛沫を上げた。空から黒い怪物の死体が落ちてきて、桟橋や海に激しくぶつかった。光景の凄惨さは言うまでもないが、この地獄絵図が都市の只中で展開されているという事実が、私の正気を激しく揺さぶった。
立っていられるのが自分でも不思議なほどだった。ルルイエ異本を守らなければならないという、強い目的意識のなせる業だろうか。それとも眼前で吹き荒れる暴力が生存本能を刺激し、崩れそうになる理性を支えたからだろうか。
とにかく私はヴェラの手を握り、空いた手でルルイエ異本を抱え、ときおり聞こえる古戸さんの不謹慎な呟きを無視しながら、戦いの趨勢を見守った。
太った女たちは必死に抵抗したが、最終的には残らず仕留められた。その死体は引き裂かれた肉片ごと海に引きずり込まれ、二度と浮かんではこなかった。仕事を終えた魚人たちはほとんど全員、私たちに目もくれず桟橋から姿を消したが、ただ唯一巨大な魚人が私たちに歩み寄ってきた。
「本を」
声は太く掠れているが、意味は明瞭だ。差し出された手は、人間の頭などミカンのように握り潰せそうだった。私が恐る恐る本を渡すと、魚人はしげしげとそれを眺めてから、目蓋のない眼をぎょろぎょろと動かした。
「お前は、約束を守った」
それから魚人は身につけていた金の腕輪を外し、古戸さんに手渡した。ルルイエ異本の対価ということか。
すべての用事が済むと、巨大な魚人も海に還っていった。私はまだほとんど動けずにいたが、霧の色が薄まり、背後に感じ続けていた巨大ななにかの気配が弱まるにつれ、肉体と精神のコントロールを取り戻していった。
勇気を振り絞って海を振り返ってみると、そこにもはや正気を脅かすものはなく、遥か向こうには、沖に浮かぶ大型船舶のシルエットがぼんやりと見えるだけだった。本当になにかがいたのだろうか? 今となっては疑わしい。
しかし魚人たちと太った女たちの壮絶な殺し合いは、どうあがいても否定しようのない事実だった。それまでなんとか踏みとどまっていたヴェラは、今や力なくその場にへたり込み、祈りの文句をひたすらに繰り返している。
私は彼女の傍らにしゃがみこみ、小刻みに震える背をゆっくりとさすった。
「真鍮じゃなさそうだ。本当に金が混ざってるかもしれない」
古戸さんは平静そのものといった態度で、魚人から貰った腕輪を検分している。先程起こった出来事も、酔っ払い同士の喧嘩ぐらいに思っているのかもしれない。
「呪われた品だったらどうするんですか」
「そしたらまた海に返すよ。できれば次は夏あたりがいいけどね」
強い海風が吹き、霧が急速に散っていく。ルルイエ異本が去ったことで、異常気象も終息するだろう。この二つにどんな関係があったのか、最後まで明らかにはならなかったが。
いい加減古戸さんの唇が紫色になってきたので、私たちは桟橋を離れることにした。足取りの覚束ない二人を引っ張るようにして、地下鉄の駅を目指す。
不気味ながらも慈悲深い霧のおかげで、ほとんどの人々はおぞましい異形たちの姿を見ることはなく、魍魎が相争う修羅の巷に居合わせず済んだ。非常識のさらに外側を跳ねまわる混沌の存在を知らないままでいられたのだ。
少し前までの私なら、その無知をただただ羨ましく思っただろう。もちろん今も同じ気持ちがないではない。しかし今や私は、無知の危うさを理解しつつあった。いつひっくり返るか分からない、あまりに不確かな浮島に安住することは、果たして幸福なのだろうか。
だからといって、混沌の海に平和があるはずもない。結局は不安定と危険を甘受するしか、真実を生きる術はないということなのだろう。
地下鉄に乗り、古書堂に戻ってからヴェラを休ませ、古戸さんを熱い風呂にぶちこむまでの間、私は延々とそんなことを考え続けた。
やがて霧は完全に消え去り、雲のない空に夕日が輝いた。しかし私の気分はかなり長い間、すっきりと晴れることはなかった。




