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滴水古書堂の名状しがたき事件簿  作者: 黒崎江治
Episode10 霧にうつろうもの
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-2- ルルイエ異本

 霧は一向に晴れる気配を見せない。それ自体有害でないとはいえ、こう陰鬱な気候が続くと、いい加減なんらかの不調をきたすのではないかと心配になる。


 清水さんはあのあとどうしているだろうか。昨日会ったとき、精神の安定を欠いているように見えたが、続くようなら病院に行くことを勧めようか。


 午前十時の少し前、物思いに耽りながら古書堂までやってくると、店の入り口が半ば開いていて、古戸さんのサンダルが片方、道路に転がっていた。それを拾いつつ店舗の中に入ったとき、私はようやく異変に気づいた。


 本棚に物色された痕跡がある。何か書架で商品の配置が変わっていた。無理やり詰め込んだせいで、表紙がよれている本があった。棚から引き抜いたまま戻されず、積み上げられているものもあった。


 一通り散らかしたあと、とりあえず取り繕ったような感じだ。これを古戸さんがやったはずはない。こんな風にするぐらいなら、彼はいっそ片づけない。


 出所の分からない、汗臭いような獣臭いような空気も、私の違和感を増幅させた。


「古戸さん?」


 私は奥に呼びかけたが、答えはなかった。再度同じことをしても反応はなかった。どこかに出かけているのだろうか。


 金銭や勤務のことに関して、古戸さんはかなりしっかりしている。給料の遅滞や未払いはないし、出張したときの時給や経費もちゃんと計算される。数時間以上外出する場合には用件を伝えてから行くし、私が不在のときにはメッセージを残していく。


 出勤したら古戸さんがおらず、メッセージもなかったという事態は、私が勤務はじめてから一度もなかった。


 私は靴を脱いで店の奥に入り、家の中で古戸さんを探した。彼は台所で倒れても、風呂で溺れてもいなかった。トイレで気絶してもいなかったし、布団で熱に浮かされているわけでもなかった。


 古戸さんはどこにもいなかった。そして居間や書庫も店舗同様に物色されていた。


 しかし一見して貴重なものが盗まれている様子はなかった。レジの小銭さえなくなっていなかった。


 このあたりで私は一旦心を落ちつけ、論理的に考えを巡らせようという気になった。店先に休業中の札を吊るし、店の片隅にある一人用ソファに腰かける。


 あたりは静かだ。人の声も、車の音もしない。


 まず、外部から誰かが侵入したのは間違いない。金銭目的ではなさそうで、手あたり次第というわけでもなく、特定のなにかを探していたようだ。


 それとは別に、古戸さんも拉致された。あるいはメッセージを残す間もなく、姿を隠さざるを得なくなった。


 警察に届けた方がいいだろうか。しかし古書堂の中には色々とまずい物品がある。


 例えば〝カルナマゴスの遺言〟は、迂闊に読んだ者を死に至らしめる。〝御門鏡ごもんきょう〟はそれよりも危険でないが、とある村から非合法に入手した。私は把握していないが、そのほかにも店の中には、出所の怪しいものがゴロゴロあるに違いない。


 そういえばあの本はどうなっただろう。清水さんから手渡された、あの革装丁の本は。彼は太った女に本を渡してはいけないと言っていた。彼女が直接本を奪いに来るということがあり得るだろうか? もしかすると、本はもう奪われてしまったのだろうか?


 私は例の本を探してみることにして、ソファから腰を上げた。店舗、書庫、居間と一通り確認しても見つけられず、やはり盗まれてしまったのかと諦めかけてから、いつも在庫管理に使っているノートパソコンをチェックしてみようと思い立った。


 型落ちのそれをカウンターの上に出し、電源を入れる。在庫管理といっても大したことをやっているわけではない。本が店に出されているのかいないのか、どの棚に置いてあるのか、売約済なのかそうでないのかが、一覧になっているファイルがあるだけだ。


 それと収支の帳簿が一つ、顧客のリストが一つ。滴水古書堂が管理しているデータは、大体この三つに集約されている。


 私はファイルを開いて在庫を仕入れ日順にソートし、最新のものにカーソルを合わせた。


 そこには見慣れぬ書名、〝ルルイエ異本〟というタイトルがあった。末尾についたクエスチョンマークは、古戸さんでさえこの本の正体に確信がないことを示している。昨日確認したときにこんなものはなかったから、清水さんから渡された本を、古戸さんが追記したということになる。


 保管場所を示す欄――通常はA2やQ4といった標記がなされる――には、なぜか〝米〟と書かれていた。


 こめ。


 まさかアメリカ合衆国ということもないだろう。文字通りに受け取れば、米びつの中にでも隠されているということだ。


 私はノートパソコンを開いたままにして、再び住居部分へと立ち入った。家屋と同様に古びた台所には、油汚れのひどいガスコンロと、ステンレス製のシンクが備えつけられている。シンクの中には、赤いソースのこびりついた平皿が放置されていた。


 これはきっと昨晩の夕食だろう。親切な私はそれを洗い、水気を拭いて適当な場所に置いた。


 それから収納を一つ一つ開けていく。派手な彩色の陶器、気まぐれに買って使わなかったらしいタコ焼き機、ラップやアルミホイルのストック。そしてシンクの真下にあるスペースを覗いたとき、一見ゴミ箱のような白い米びつを見つけた。蓋を開け、中を確認する。


 果たして本はそこにあった。備蓄の米に半ば埋もれ、わずかに湿りけを帯びた装丁を晒していた。私は本を取り、くっついた米粒を払い、店まで戻ってカウンターの上に置いた。


 古戸さんが無意味にこんなことをするはずがない、やはりなにか迫りくるものを予感して、本を隠したのだ。


 ルルイエ異本。一体これはどのようなものなのか。


 古書堂を包む霧。まだ目的を果たしていない襲撃者。未知の文字で書かれた奇妙な書籍。そして清水さんが示した強い怯え。


 私は急激に心細くなった。古戸さんでさえ対処しきれなかったものを、どうして私だけで対処できるだろう?


 手伝いが必要だ。この奇妙な出来事に、ともに立ち向かってくれる誰かが。私は頭の中で協力者候補をリストアップしはじめた。


 オカルトな事象への抵抗が少なく、フットワークが軽く、古戸さんや私に肩入れしてくれそうで、最低限自分の身を守れそうな人物……。


 色々と思いを巡らせたあと、私が連絡を取ったのは、サタン討滅に使命を燃やす大学生、ヴェロニカ・フランチェスカだった。


 ヴェラとはこの夏、山梨県の山中にあった古代遺跡で、数千年の眠りから覚めた恐るべき蛇人間たちを巡る事件で知り合った。


 彼女はブロンドの髪を持つ、日本育ちのアメリカ人で、謎の結社に所属し、バイクを乗り回し、クロスボウを得物とする。こう列挙してみると不穏な属性も多いが、人柄自体は親切至極で、一部の局面を除けば常識もある。


 私はヴェラに簡単な事情を説明し、不安に思っている旨のメッセージを送った。彼女も奇妙な霧のことは気にかかっていたらしく、すぐこちらに向かうことを約束してくれた。


 多分、二時間程度でやってきてくれるだろう。ヴェラを待ちながら、私はしっかりと戸締りをし、商品の配置を直した。古戸さんにもメッセージを送ってみたが、やはり答えはなかった。


 コーヒーを淹れてカウンターにつき、置いたままの本を見つめていると、表紙に手を伸ばしたいという、抗いがたい欲求が芽生えてきた。私の手がほとんど無意識的にページを繰ると、不可思議な文字が紙面一杯に展開された。


 文字は肉厚で、あえて形容するならばサンゴか海綿にも似ている。あるいはイカやタコなどの頭足類。エジプトの象形文字と同じように、身近な存在を用いて意味を表しているのだろう。だとすればこの本は、やはりポリネシアにルーツを持っているのか。


 多用されている文字列でも探してみようか。私が理解する意図をもってそれを眺めたとき、ふと鼻の奥につんとした感覚があった。湿ったりカビたりした紙や革の臭いではなく、深海の底を連想させるような、光のない、それでいて不気味な生命を感じさせる臭いだった。


 いや、臭いなのかどうなのか、確かに判別することはできない。それは人間が持つ五感で捉えきることのできない、名状しがたい刺激だった。


 私の網膜に黒い影が映り、鼓膜には耳慣れぬ声が届いた。皮膚に泡立つ水が触れ、舌がわずかな苦みを感じた。闇に閉ざされた海の中、冷たい潮が幾億回も巡る永劫の内、死することなく眠り続ける巨大な海神の気配がした。


 無数の眷属にかしずかれ、その祈りが響くねじくれた神殿の中で、やがて目覚めのときを待つ大いなる存在が思念を伸ばし、連なる文字を焦点として、私の精神に絡みついた気がした。


「ユウコ!」


 そのとき、はっきりとしたヴェラの声が、私の意識を深淵から引き戻した。

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