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滴水古書堂の名状しがたき事件簿  作者: 黒崎江治
Episode10 霧にうつろうもの
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-1- 濃霧

 季節は冬のはじまり。日本全国で穏やかな晴天が広がる中、横浜は異常気象に見舞われていた。猛暑や寒波、豪雨や雹、乾燥や竜巻。異常といっても様々だが、今回のようなことは私もはじめて体験したし、どのように対処したらよいのかまったく分からなかった。


 なんの前触れもなく現れたのは、霧だった。空気中に白い絵具を溶かしたような、数十メートル先さえ見通せない濃密な霧。


 ニュースで気象予報士が語るところによれば、この霧には二つの特異な点があるという。


 一つ目は、通常予想されるよりも遥かに長時間生じているということ。朝にあった霧が夜なお消えず、翌日にも変わらず漂っているのを見れば、専門家でなくとも困惑しようというものだ。


 二つ目は、霧が横浜市東部の比較的狭い範囲に、風で流されることもなく留まっているということだ。霧に包まれた地域を外側から見てみれば、かなりはっきりとした境界が確認できるという。


 気流、地形、大気中の化学物質。個々の要素はもちろん、どれを組み合わせたとしても、このような気象の発生を説明できるものはなかった。


 人類の気象学をあざ笑うようなこの霧は、普段は迷信など持ちようもない現代人の心にさえ、不吉で不穏な感情を湧き立たせた。


 霧が現れてからの数日間、SNSをはじめとした各種メディアでは、時事と結びつけた噂やオカルティックな推測が垂れ流され、無責任で放埓ほうらつな好奇の対象となっていた。


 なにより深刻だったのは、著しい視界不良による交通の麻痺だ。


 霧の出はじめに数件の事故が起こって以降、バスは営業を取りやめ、電車も区間内の徐行運転を余儀なくされた。仕事や学校がある人の多くは、徒歩で霧の圏外まで脱出するか、辛うじてまともに動いている地下鉄を利用して、事態が元通りになるのを待っていた。


 道路にはタクシーや乗用車の姿もなく、霧の範囲外から来た車も、事故を恐れて大きく迂回するようになっていた。


 私もまた、霧に心騒がされる地元住民の一人だったが、仕事場である滴水古書堂は自宅から歩いて行ける場所にあるため、多少の注意は必要なものの、通勤に関してはほとんど支障がないと言ってよかった。


 店を訪れる客は皆無だが、そもそも普段から電話やメールでの注文が主なので、商いが著しく停滞しているということもない。


 白い闇が横浜を包み、天候が回復することなく五日が経った。私は朝十時の開店に間に合うよう、いつも通りの時間、いつも通りの道で滴水古書堂へと向かっていた。地表を温めてくれるはずの太陽はぼやけて弱々しく、長らく続く湿っぽさと寒さが私の気分を落ち込ませていた。


 商店街にさえ立ち込める霧はともすれば屋内まで忍び込み、扉を閉めても中々消えてくれなかった。近くの川も水面を望むことさえ難しく、おびただしい量の牛乳が、ごくゆっくりと海へと流れているようにも見えた。


 家から古書堂までの道のりを半分ほど歩いたとき、私は背後から息を切らせた誰かがやってくるのに気がついた。以前このあたりで暴漢に襲われた記憶が蘇り、咄嗟に身構える。今度はなるべく重傷を負わせないようにしなくては。


 次の瞬間に霧の中から現れたのは、ブラウンのジャケットを身につけ、紙袋をしっかり抱きかかえた初老の男性だった。覚えのある人相を見て、固めた拳を緩める。


「清水さん、おはようございます」


 私は若干の安堵とともに呼びかけたが、すぐ彼の様子がおかしいことに気がついた。顔の筋肉は緊張し、目線があちこちを彷徨っている。


 抱きかかえたものを守るように背中を丸め、足取りは強い焦燥によってもつれていた。その仕草には怯えた子供、あるいは幻覚の内にある麻薬中毒者を思わせる不穏な雰囲気があった。


 数年前まで高校教師をしていたという清水さんは、白髪交じりの髪がよく似合う紳士だった。滴水古書堂にとっては数少ない常連といえる存在で、私が働きはじめてからもちょくちょく店を訪れていた。


 趣味で研究しているポリネシアの原始宗教に関する本を探すこともあれば、単に古戸さんと世間話するだけのこともあった。


 しかし今の彼は普段の姿と似ても似つかない。知的で老成した清水さんに、一体なにがあったというのだろう。


「ああ! ああ、楠田さんか……」


 ただ挨拶をしただけなのに、過剰とも思える反応が返ってくる。思いがけず知り合いに会って驚いた、という風ではない。


「どうかしました? あんまり顔色がよくないですけど」


「いや、私のことはいい。楠田さん、悪いけどこれを、古戸君に預かってもらって欲しいんだ」


 そう言うと、清水さんは抱きかかえていた紙袋を押しつけてきた。私がその不作法に困惑を示したところで、まったく気にする様子もない。


 紙袋の口からちらりと見えたのは、大きな革装丁の本。


「これは?」


「もし持っているのが危険だということになったら、処分してしまってもいい。だが、太った女には渡しちゃいけない。太った女に気をつけるんだ」


「太った女?」


「私はもうそれを持っていることができない。覗きたくなる気持ちを抑えられない。日に日に声が強くなっている。いつか私の手に水かきができて、海の中で祈りを……ああ、ダメだ」


 清水さんの言動はまったく支離滅裂で、明らかに尋常な精神状態ではなかった。単に疲労やアルコールで引き起こされるものとは別の、妄想めいたなにかに取り憑かれているように思えた。


 私が落ちつくよう求め、詳しい事情を聞こうとする前に、彼は焦ってもつれる足取りで踵を返し、霧の向こうへと消えてしまった。その視線は絶えず空と道沿いの川面とを往復し、自らが口走った存在を警戒しているようだった。


 私は清水さんの奇行に動揺し、途方に暮れかけ、なにかの援助を提供するべきかと少しの間考え込んだが、ひとまずは仕事に向かい、古戸さんと今の一件を共有するのがいいだろうと判断した。


 霧の流れる川沿いの道を歩き、古書堂に到着すると、古戸さんが珍しく店先に出ていて、ぼんやりと空を見上げていた。


「おはようございます」


「おはよう。相変わらず湿気がひどいね」


 彼は霧がもたらす不気味さよりも、在庫の劣化が気になるようだった。


「右近と左近は来ませんか」


 最近ある事件をきっかけとして、古書堂には黒猫のきょうだいが顔を出すようになった。しかし霧が出はじめたときに一度来て、居心地悪そうにそそくさと帰ったあと、まだ姿を見ていない。


「来ないね。毛がごわつくから嫌なんじゃないか。……その紙袋は?」


「さっき清水さん会って渡されたんです。なんか変な感じだったんで、あとで詳しく説明します」


 私は店に入って紙袋をカウンターに置き、いつも通り開店の準備をはじめた。在庫の本はまだカビていないが、あと一週間霧が続けば怪しいかもしれない。作業を終えてから本を取り出し、古戸さんと二人でしげしげと眺める。


 それはB5判に近い大きさで、革の表紙はかなり古びていた。題を示すようなものは書かれていない。本全体が妙な水気を帯びており、指で押すとぶよぶよした不快な感触がする。


 最近水に濡れるようなことがあったのかもしれないが、私にはなんとなく、この本が元々持つ特性であるような気がした。


 表紙を開いてみると、そこには見慣れぬ文字があった。日本語でも英語でもラテン語でも、アラビア語でもキリル文字でもない。先日偶然読む機会のあった、蛇人間たちのアクロ語に少し似ているが、それよりも分厚く、多分に象形しょうけい的だった。


「清水さんがいきなり押しつけてきたんですよ。古戸さんにって」


 私はこの本を手に入れた経緯を説明した。


「慌ててたような、怖がってたような。とにかくいつもと様子が違って。なにか心当たりはありますか」


 古戸さんは、文字に目を留めたまま答えない。


「聞いてます?」


「ん? ああ。そうだね。水かきがうんぬんっていうのは、清水さんの研究対象に関係してるのかもね。南太平洋、いわゆるポリネシアと呼ばれる地域の原始宗教だ。そこにはほかの海洋民族の例にもれず、海神かいじんとその眷属に対する信仰がある」


「じゃあ、太った女は?」


「どうかな。特定の個人なのか、崇拝対象なのか、太った人なんて沢山いるから、それだけじゃ分からないね」


 太った女が存在するのはいいとして、この本を渡してはいけない、とはどういうことだろう? 狂暴な稀覯本マニアなのだろうか。


「清水さんも心配だけど、とりあえずこの本のことを調べてみよう。阿見館長にでも問い合わせてみるかな」


 古戸さんは本を紙袋に入れ直し、奥へと持っていった。その後の営業時間中、店番を私に任せて延々と資料を漁っていたが、その日はどうやら明確な端緒を掴むことはできなかったようだ。


 そして翌日、彼は店から姿を消した。

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[一言] イア! イア! クトゥルー フタグン! うん?なんだかおかしな声が……
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