-7- 塵を踏むもの
私自身それほど詳しいわけではないが、そこは一般的にイメージされる独居男性の部屋と大差ないように思えた。都市部から離れたところにある分、スペースが多く取られているくらいか。
ただ注意深く見れば、家主が持っている独特の文化が、そこはかとなく漂っているのが分かった。それは黒い木で作られたライオンの彫像からだったり、中心に目が描かれた星の刺繍が散った、赤黒いカーペットからだったりした。
私はしばらく周囲の様子を窺っていたが、人影もなく、物音もしなかった。家主はどうやら、留守にしているようだ。
「本は確かこっちの部屋に――」
古戸さんが奥にある寝室に進もうとしたとき、その扉の脇にある姿見の鏡面が、ぐにゃりと歪んだ気がした。
私は古戸さんの肩を掴んで引き留め、そちらに視線を向けるよう促す。
「なんだろね」
古戸さんは無警戒に姿見へと近づく。
姿見を注視し続けていた私は、すぐ自分の勘違いに気づいた。鏡が歪んでいるのではない。鏡に映った空間が歪んでいるのだ。
私は背後を振り返る。今さっき通ってきた窓の付近が、小石を投げ込んだ水面のように歪み、震え、たわんでいた。
その向こうで大きな何かが動いた。それははじめ極めてぼんやりしていたが、徐々に輪郭を確かにしていった。
人だ。誰か来る。
やがて歪みから出てきたのは、小柄な男だった。額はやや後退して、その上に乗った髪の毛は縮れている。眼鏡をかけた猜疑心の強そうな瞳は、明らかに私たちを認識していた。
彼は捻れた木の杖を手にしても、ゆったりしたローブも身に着けてもいなかった。長くて白い髭を生やしてもいなかったし、使い魔を伴ってもいなかった。しかしそれでも、彼は間違いなく魔術師だった。たった今異空間を通り抜けて、この部屋に現れたのだから。
「古戸さんッ」
私は警戒の声を上げた。話すか? 逃げるか? それとも、とりあえず殴るべきか?
私が逡巡しているうちに、男はすっかり歪みを通り抜けた。両の足で床に立った彼は、何かを払うような仕草で、半ば無造作に右腕を振った。
視界の端に何かを捉えた私は、反射的に姿勢を低くした。
「おぶっ」
次の瞬間、私の頭上を通り抜けたのは、部屋の中央に鎮座していたはずのダイニングテーブルだった。木製のそれは重さ十キロか、二十キロか。とにかく大きくて重いそれが、古戸さんに思い切りぶつかった。古戸さんは妙な声を上げ、無様に壁へと叩きつけられる。
私がそれに気を取られた隙に、今度は椅子が襲ってきた。私は椅子の角で背中を強打され、その勢いで床に転がる。間を置かず追撃が飛んできたが、脚で蹴り飛ばしてなんとか防いだ。
話し合いどころではない。
身体をしならせてなんとか跳ね起きると、今度はテーブルが、私を押し潰すように前方から迫ってきた。
避ける? 大きすぎて無理だ。私は両腕と片膝で防御したが、運動エネルギーは如何ともしがたかった。私は背後にあったドアに叩きつけられ、そのまま隣の部屋まで、放り出されるようにして転がった。
なんとか受け身を取ったが、それでも背中を打ちつけ、肺から空気が叩き出される。一瞬、意識が朦朧とした。
扉が開いて、衝撃が逃げたのは幸運だった。あのまま潰されたら、骨が折れていたかもしれない。
古戸さんは大丈夫だろうか? 多分死んではいないだろう。それより、今は自分の身が大事だ。私はなんとか上体を起こし、情けない恰好でずるずると後ずさった。
後ずさったところで、部屋の異変に気付いた。
床には指先に引っかかるほど、分厚く埃が積もっていた。壁はひび割れ、カビが生え、茶色く劣化している。部屋の隅には蜘蛛の巣が張り、正体不明の黒ずんだ何かが吹き溜まっている。
ここは何だ? まるで十年も二十年も放置されていたように見える。
ゴン、と大きな音がして、扉を塞いでいたテーブルが床に落ちた。悪意を宿した男の瞳がこちらに向く。
私は慌てて立ち上がり、背後にあった窓に手を掛ける。鍵はかかっていないはずなのに、開かない。錆びついているのだ。クソが。
書き物机が飛んできて、私の右肩にヒットした。そのまま吹き飛ばされ、本棚に突っ込む。衝撃で本が落ちて、バラバラと私の頭上に降り注いだ。
「あっ……ぐ……」
このままでは殺される。何か武器になるようなものはないか。目くらましでもいい。
床に散らばった埃だらけの本。その中で一つ、特に埃が分厚く積もった大きな本が、私の視界に入った。表面の装丁は、ざらざらした何かの皮だ。
大判の本、サメ皮の装丁。そしてそれに向けられた男の視線に、私は気付いた。
カルナマゴスの遺言だ。
何か具体的なプランがあったわけではない。これを破り捨てるぞと脅すとか、実際に破棄してやるとか、そういうことは考えていなかった。ただ反射的に、私はカルナマゴスの遺言へと手を伸ばした。
男も私の行動に気づいたのか、こちらに駆け寄り、私から本を奪い取ろうとする。
ほんの少しだけ早く、私の指先が本に触れた。しかし次の瞬間、不可視の力が私を持ち上げて、空中に放り投げた。
下手なワイヤーアクションよろしく空中に舞った私は、視界の端でカルナマゴスの遺言が開かれるのを見た。
そして一秒後、私は床に叩きつけられた。本日何度目かで受け身を取り、衝撃を逃がす。だが私の耐久力は、もはや限界を迎えつつあった。次は無理だ。モロに喰らうだろう。
気合いでなんとか身を起こした私は、異様な光景を目にした。
開かれた本の前に、跪く男。その上からは灰色に輝く光の柱が降ってきている。
天井に穴が開いているわけではない。光の柱は物理的な障壁を透過して、どこか得体の知れない場所から投射されているのだ。男はまるで時間を止められてしまったかのように動かない。
それは通り路だった。現実世界の二地点を結ぶ、ちゃちなものでないのは明らかだった。それは異次元から、宇宙の辺縁から、時間と空間が停止した世界から、なにか恐るべきものを運んでくる通り路だった。
降りてくる。
はじめ、降りてきたものはミイラ化した小さな子供のように見えた。表皮は枯れた樹皮のように黒ずんでいて、縦横にヒビが入っていた。四肢は根本で結ばれたように固く強張っていて、萎縮した焼死体を思い起こさせた。
それはどことなく六文字さんに似ていた。しかし、彼よりもっと恐ろしい存在なのは間違いなかった。
これが死を望む魔術師の求めたものだ。不死を目論む魔術師の求めたものだ。
それは天井から速やかに降りてきて、跪いたままの男に触れた。
触れた場所から、崩壊が始まった。一瞬で百年分もの時間が経ったようだった。老化し、腐り、乾き、風化する。一秒もしないうちに、崩壊が全身に及ぶ。
男は塵になった。不死を得ることは叶わず、バケツ一杯分の塵になった。
私は顔を背けたかったが、できなかった。目を閉じたかったが、できなかった。もっともそんなことをしたからといって、その存在を知覚の外に追い出すことなど、到底できなかっただろうが。
いつのまにか、それは消えていた。光の柱も消えていた。残ったのは塵の小山と、そこに残った、二つの小さな足跡だけだった。
そのとき私は悲鳴を上げていたのだと思うが、自分の耳には届いていなかった。私は目の前のものを拒否できなかった代わりに、他のどんな刺激をも拒否しようとしていたのだろう。
先程見えていた光の柱は、そこから降りてきた存在は、私の薄い正気の幕をいとも簡単に貫通し、引き裂いたのだった。
視界が徐々にブラックアウトする。私は自分が意識を手放しつつあることに、ほんの少し安堵した。




