-5- 閉架書庫
「ユウコ、さっきの男の眼を見ましたか? アレは悪意のある人間です」
私たちは甲府の市街に戻り、昼食の熱いほうとうを啜っていた。夏休みシーズンだけあって、店内には観光客の姿が多い。
私は薄切りのかぼちゃを頬張りながら、麦島と名乗った男の顔を思い浮かべる。
「不気味といえば不気味だったけど、私たちにもやましいところがあったし、そう見えただけかも」
「発掘現場の確認にスーツで来ますか? それも一人で? 彼がサタンの手先だったとしてもおかしくないですよ」
「うーん……」
簡単に調べてみたところ、埋蔵文化財団という組織自体は存在していた。名簿にも理事として麦島征四郎という人物が名を連ねていた。あの男性が本人だという証拠はないが、少なくとも社会的には財団の方が正当な立場にある。
「学部とか大学とかと繋がりが深かったら、圧力をかけて調査を中止させるのも不可能じゃないのかな」
私は言った。史学系学生の主要な就職先になっていたとすると、その意向に反対するのは難しいのかもしれない。
「それはそうと、史料はどうやって調べます? フルドさん、なにか分かりそうですか?」
「ちょっと待ってくれ、今乾に確認してるから」
古戸さんの知識――超常現象に関するものも含めて――は豊富だが、未知の文字をすぐに解読できるほど人外じみてはいないし、足掛かりになる資料や分析の手段が多いに越したことはない。
どうやら乾さんも連絡を心待ちにしていたようで、ほどなく返信があった。
それによると、有機物の年代測定や無機物の組成については、乾さんが所属する学科の機材が利用できるらしい。金属板については、同じ大学の館長が言語学に明るく、既にある程度の話は通してあるとのこと。
「どのみち、神奈川に戻らないといけないね」
「今日中に行きますか?」
私は尋ねた。
「早い方がいいだろう。大学の中ならクーラーも効いてそうだし」
「オーケー。善は急げというヤツですね」
ヴェラは器の汁を飲み干し、意気揚々と立ち上がる。私たちは会計を済ませてから、昼どきの店をあとにした。
◇
午後二時の大学構内。ここは駅や市街から近いが、敷地はゆったりと広く、部外者がいてもそれほど不自然でない。並木に挟まれた石畳の通りには、運動部や文化系サークルに所属しているらしい学生が行き来している。
「史料の分析は僕の方で行ってこようかな。楠田さんたちは、先に図書館で話してくれば?」
慣れない場所で若干の心細さはあるが、時間は有効活用するべきだろう。私は役割分担を了承した。回収した史料を古戸さんに渡し、撮影したデータを受け取る。
それから案内図を見つつ、大学図書館へと向かった。
キャンパスの入口から五分。歴史ある大学にあって、図書館は比較的新しく建てられたもののようだった。ガラス張りの壁面からは、明るい閲覧室が見通せる。
こういった施設は大抵一般人も利用可能なはずだが、果たして館長と話すことはできるだろうか。私たちはエントランスをくぐり、すぐのところにある受付に立ち寄った。
「すみません、楠田という者ですが、阿見館長はお手すきでしょうか」
阿見逸史、というのが館長の名だった。本名で検索すれば、比較言語学に関する論文や著作がいくつも出てくる。
「お約束はありますでしょうか?」
受付の女性は、事務的ではあるが丁寧な口調で尋ねた。
「いえ。以前講師の乾からご相談させていただいた件について、と言っていただければ分かると思います」
「かしこまりました。少々お待ちください」
女性は内線でどこかに連絡を取っている。しばらく受付の脇で待っていると、どうやら面会の許可が下りたらしい。無断持ち出し防止のゲートを通過し、適当な席に座ってさらに待つ。
軽いお喋りも憚られる静かな図書館内。十分ほどすると、奥の方からジャケットに身を包んだ初老の男性が姿を現した。灰色の豊かな髭と恰幅の良さは、どこかサンタクロースを彷彿とさせる。
しかし近くで見てみれば、金縁眼鏡の奥にある瞳は鋭い知性の光を湛えていた。私とヴェラは立ち上がり、軽く頭を下げる。
「楠田さんですね? そちらの女性は……」
「ヴェロニカ・フランチェスカです」
一瞬、こちらを鑑定するような視線。
「館長の阿見です。こちらへ」
促されるまま歩いていくと、私たちは一階の奥、応接室と思しき場所に通された。黒い革張りのソファに座り、館長と向かい合う。部屋に入ったときから、彼は若干打ち解けた雰囲気になっていた。
「乾先生とは電話口で話したんだけど、なにかトラブルがあったみたいだね」
「ええ、その少し……怪我を」
「怪我? どんな怪我?」
「いえ、大したことはないといいますか、ますます元気といいますか」
「そうか……ならいいんだ。彼とは最近飲んだんだけど、妙な文章を見せられてね。今日はその件かな」
「金属板の」
「そう。金属板の文章」
館長はやや声を潜め、共犯者的な笑みを浮かべた。この人物には、あまり隠し事をしなくてよさそうだ。
「実はもう一つ、別の文章を手に入れたんです」
私はスマホに画像を表示させ、館長に手渡した。
「失礼」
彼は金縁眼鏡を外し、しげしげとそれを眺める。
「僕も乾君に相談されてから、少し調べてみたんだ。もう知っているかもしれないが、これは既知の言語ではない。しかし、まったく資料が見つからなかったというわけでもない」
「分かるんですか?」
「どうかな。いくつかの単語は読めるようになるかもしれない。これは〝アクロ〟と呼ばれる文字だ」
「アクロ……」
私とヴェラは同時に呟いた。
「十九世紀に国内へと持ち込まれた本に、この文字のことが記されていた。英語による大量の注釈と共にね。希望するなら閲覧許可を出そう。言うまでもないが稀覯本だから、傷つけたり、撮影したりはしないように」
「是非、お願いします」
「研究熱心なのはいいことだ」
「すみません、アミ館長」
それまで黙って話を聞いていたヴェラが口を開いた。
「なにかな、ミス・フランチェスカ」
「そのアクロ文字とは、どんな存在が作ったのですか?」
「誰が、と言わないあたり、多少の心当たりがありそうだね」
館長は少し困ったような顔をした。聞かれたくないことだったのかもしれない。
「私にも仮説がないではないが、それをここで開陳するのは遠慮しておくよ」
「なぜです。隠し事があるんですか?」
ヴェラの語気が荒くなった。
「あまりに話が広くなるからだよ。それに真実の端緒と掴んだ者は、根っこを確かめずにはいられないものだからね。君たちが軽はずみに探り過ぎると、迷惑に思う人たちもいるんだ。……なんだか悪役のセリフみたいだが」
「……」
「僕が乾君に協力するのは、情熱溢れる彼に対する個人的な友情からだ。でも僕には図書館館長としての責任もある。二つの立場ゆえにできることもあれば、できないこともある。そこは理解してもらいたい」
穏やかに諭されて、ヴェラも毒気を抜かれたようだ。乗り出しかけていた身を引いて、ソファに尻を埋める。
「……オーケー。失礼な態度を取りました」
「気にしないでくれ。僕も半端な態度を取っていることは自覚してる」
館長は眼鏡を外し、その分厚い手で顔を拭った。
「さて、資料の話だったね。さっき言った資料は地下三階にある。閉架書庫だから、一般利用者は立ち入りできない。よければ、今から案内しよう」
なにがしか奇妙な真実に触れつつも道を踏み外さず、アカデミックな世界で大成すれば、阿見館長のような人物になるのだろうか? 古戸さんや乾さんにはまず無理な芸当だろうが、二人がうらやましがるかといえば、多分そんなことはないだろう。
私たちは引率されるまま、館長のあとについていく。
地下三階の一角には重そうな金属のドアがあり、特別なカードキーで管理されていた。館長がそれを開けると、内部からひんやりとした空気が漏れ出す。
それほど広くない部屋の中では、白い蛍光灯が冷たく弱い光を放っていた。並べられている本は、一見しただけで異色なものだということが分かる。
大きさも装丁も形状もバラバラで、滴水古書堂のラインナップと比べても、特別さという点で優れているように思えた。しかし辺りに漂う匂いは、いつも店で嗅いでいるものとよく似ている。
館長は迷いなく書架の間を進み、大判の本を一つ取り出く。それを捧げ持つようにして、部屋の壁際にある閲覧机に置いた。
「これがアクロ語の資料だ。破らないようにね」
私が枯葉色の革表紙をめくってみると、ページには英語の筆記体がびっしりと記されていた。活字ではなく、インクで書かれたもののようだ。
「なにかあれば、内線で呼びなさい」
「あの、あとでもう一人来るんですが。古戸って名前の、不審な感じの男性が」
「通すように言っておこう」
これで、古戸さんが警備員につまみ出されることはないはずだ。
館長が出ていき、扉が閉まった。静寂が横たわる室内。私とヴェラは机上の本を見つめながら、これからの手順について考えを巡らせた。




