-19- 立ちはだかる男
私たちは村の西側を経由して、何度か折り返す坂道をゆっくりと登っていった。広場から真っ直ぐ里宮へと向かわなかったのは、目立つことを警戒したからだ。
そんな中、私はふと村井さんの存在が気にかかった。広場にその姿はなかったが、彼は今どこでなにをしているのだろう。自らの娘が生贄同然の目に遭おうとしていることを、どのように考えながら過ごしているのだろう。
私は一度立ち止まり、遠く彼の家あたりを見遣った。灯りらしきものはない。あとり君に促され、再び歩きはじめる。
里宮まではさしたる障害もなかった。眼下の喧騒から数百メートル離れた神社の境内。社殿の両側に配された二つのかがり火が、周囲の木々と地面の砂利に揺らめく光を投げかけている。
砂利を踏む音が、いやに大きく響いた。以前は境内の端にある茂みから未整備の斜面を登り、人目に付かず奥宮に行くことができた。しかし夜間にそれをするのは自殺行為だ。境内の奥にある小さな階段を使うほかない。
それを探そうとしたとき、目線の先、闇の中でぞろりとなにかが動いた。
私の心臓は凍り付いた。逸る気持ちが迂闊を招いたのだ。かがり火があれば見張りもいるに決まっている。置物のように気配なく潜んでいたのは、肥大した左腕を持つ巨躯の男だった。
「げっ」
あとり君が声を上げた。こちらを視界に収めた下男が、かがり火の灯りに姿を晒した。ボロボロのつなぎ、毛髪のない顔面。下男は奇妙に崩れた重心で、一歩一歩近づいてくる。
「どっ、どっ、どうします」
高坂さんが言った。狭窄した喉から出る声は、もはや悲鳴に近かった。
「あ、あなたは!」
樋口さんが口を開いた。
「あなたは、自分が正しいことをしてると思ってるんですか。女の子を監禁して、儀式に使うなんて。瑠璃って女の人は、村人を殺したんでしょう? なんでそんな人に従ってるんですか」
彼の声に力はなく、身体は震えていた。下男の存在はそれほどに圧力を持ち、不気味だった。改めて見積もれば、体重は百キロを優に超えるだろう。
物言わぬ下男は樋口さんの説得を歯牙にもかけず、一片の躊躇いなく距離を詰めてくる。硬直したような無表情。ただ白目のない眼だけが害意を湛えていた。
話し合いは不可能だ。私は先手必勝と判断し、砂利を踏み込んで距離を詰めた。無防備な下男の脇腹目がけ、加減なしの蹴りを放つ。
肝臓への一撃は、肉を叩く音とともに、躱されも受け流されもせずに命中した。しかし私の脚に伝わったのは、コンクリートの柱を蹴ったときのような感触だった。分厚い筋肉どころの話ではない。肉体の組成からして人間離れしている。
私は慌てて飛び退ろうとしたが、足元の砂利でわずかに体勢を崩してしまった。その隙に、下男の左手が素早く伸びてくる。腕を掴まれた。肉が潰れ、骨が軋む。
このまま振り回されれば、腕は二度と使い物にならなくなるだろう。私は襲い来る激痛を予期し、身体を強張らせた。
しかし、私の腕が破壊されることはなかった。次の瞬間、下男が唸り声を発し、左手の力を抜いた。
私は痛む腕を引き抜き、庇いながら距離を取った。いつの間にか、下男の背後には古戸さんが忍び寄っている。彼はなにか太くて黒いものを下男の首に巻き付け、締め上げているようだった。
リリ、リリリリリリリ――
鈴のような、あるいは笛のような音が、下男の苦悶に混じる。それに合わせて、首に巻き付いた黒いものがぞわぞわ、ぼこぼこと不穏に蠢いていた。
リリリ、リリリリ
しかし涼やかとも思える響きには、肉も骨もまとめて破砕するような力が伴っていた。下男の肉体もまた人間離れして強靭だったが、黒いものはそれを変形させ、圧搾し、へし折っていく。
私は加勢することも忘れ、その様子に釘付けとなっていた。私だけではなく、古戸さんを除く全員が同じような状態だった。獣のような叫び声を上げながら、下男が首から黒いものを力任せにむしり取ろうとする。しかし巻き付いたものはあまりに強固で、試みはまったくの無駄に終わった。
そのすぐあと、頭蓋骨だか頸椎だかの砕ける音がして、下男の肥大した腕が、地面に向かってだらんと伸びた。それは一度だけ強く痙攣し、完全に動かなくなる。
古戸さんが下男から手を放した。そう、それは手だった。地面に崩れ落ちた下男の向こう、ぎゅるぎゅると奇怪に蠕動する黒いなにかは沈黙し、古戸さんの右腕としてその身体に収まった。
「か、かっけぇ……。今のどうやったんだ?」
あとり君が無邪気に言った。一方の私は、背中にびっしょりと冷たい汗をかいていた。腕を折られそうになったときのものが半分、今目撃した古戸さんの姿で半分。
「これは僕がかつて、チベットで十年修行して身に着けたものだ……」
古戸さんが嘘だか本当だか分からないようなことを言う。
「もう古戸さん一人でいいんじゃないですか」
私は投げやりに言いながら、痛む自分の腕を確認した。所々内出血しているが、骨は折れていないようだ。
「そんなことないよ。僕の運動神経が悪いから、不意打ちされると対応できないし。じゃあ、行こうか」
下男を排除した私たちは、社殿の脇にある階段を使って奥宮へと向かうことにした。このときの私に、人が死んだのだという感覚はまったくなかった。あれはそんな現実的な思考を引き起こすような出来事ではなかった。
「あの人、なんなんですか」
階段を昇る私の傍らで、高坂さんが呟く。彼女は先程の出来事に対して、強い顰蹙を示していた。もちろん、樋口さんの反応も同様だ。
「ごめん、私にも分からない」
怖がらせたことに対して申し訳ない気持ちになったのは事実だが、今更それが問題なのかという考えもないではない。状況からして異常なのは明らかなのだから、味方に一人ぐらいおかしな奴がいるのはむしろ自然なくらいだ。多分。
奥宮までさほど距離はない。階段を一歩進むごとに、空気が粘度を増し、風が赤錆のような臭いを濃くする。剣呑さを全身に感じ、このまま着かなければいいという気持ちを抑えつけながら、意志の力で脚を動かす。
やがて階段が途切れ、暗い奥宮の境内が見えてきた。里宮に置かれていたようなかがり火はなく、ただ星明りだけが社殿や蔵を照らしていた。それでも闇の中で目を凝らしてみれば、社殿の入口からわずかな灯りが漏れ出している。
念のため、蔵とプレハブを確かめてみる。こちらには灯りも人の気配もない。既に儀式がはじまっているのだろうか?
私たちは息をひそめ、ゆっくりと社殿に忍び寄った。声はしないが、確かに誰かがいるようだ。あとは対峙するだけ。嫌が応にも緊張が高まる。
「姉ちゃん! 助けに来たぞ!」
私たちタイミングを推し量っている間に、あとり君が勢いよく扉を開け放った。




