-15- 遺された手記
届くはずのない血の臭いが、鼻先まで漂ってくるようだった。私はよろよろとその場を離れ、先程まで昼食を摂っていた部屋に戻った。カレーを全部吐いてしまわなかったのは、これまでの経験で多少は耐性が付いたからか。
「姉ちゃん、大丈夫か……」
私を心配するあとり君の顔も、さすがに青ざめている。二人で気分の悪さに耐えていると、ようやく古戸さんが戻ってきた。
「アレなら、村人が怖がるのも頷けるね。村と無関係な人間でもああなるのかな?」
「……そんなにさっぱり言わないでください」
「見た目がグロいから怖くなるのは分かるよ。でも冷静に考えてごらん。人を殺すなら拳銃の方が簡単だ」
冷静にそれを考えられる時点で大分おかしいのだ。私はその指摘を吐き気とともに飲み下した。今は掛け合いをするような気分ではない。
「滝村先生の家に行きませんか。早くここから離れたいです」
「俺も……」
私たちが休憩を早々に切り上げようとした矢先、樋口さんと高坂さんが帰ってきた。外で先程の絶叫を聞いたらしく、二人とも不安そうな表情をしている。
「なにがあったんです? あのでっかい男の人もいましたけど」
樋口さんが尋ねる。私たちは玄関近くで囁き合うようにして情報を共有した。
「うまく説明できないけど……、村の人が一人、殺された」
私が答えると、当然のことながら彼らは絶句した。口をぱくぱくさせながらも、樋口さんがようやく言葉を吐き出す。
「警察は……?」
「これで捕まるようなら、白昼堂々やらかしたりしないでしょ」
古戸さんが言った。樋口さんと高坂さんは強く眉をしかめた。
「部屋で休んでいくのは自由だけど、気づかなかったふりした方が楽だよ」
「古戸さんたちはどうするんですか」
高坂さんが尋ねた。
「ちょっと亡き恩師の遺品整理をね。人手はあっても困らないから、付いてきたいなら歓迎するよ」
その提案に二人は顔を見合わせた。私たちの言葉を完全に信じたかどうかはともかく、屋敷に留まることへの抵抗は強いようだ。最終的には、全員で滝村教授の家へと向かう流れになった。
◇
「なんでこんなことになったのかな」
出発してからすぐの道中、樋口さんが呟いた。彼らは元々、望んで村に来たわけではないのだ。しかし自分勝手なことを言うならば、常識的な価値観を持つ人間が複数いるというのは心強い。
「まあまあ。ヒグマに襲われるよりはマシと考えようよ」
「本州にヒグマはいませんよ……」
応える樋口さんの声には呆れが混じっている。もういい加減、この男は頭がおかしいと確信していることだろう。
もはや隠す意味もなかろうと考えて、私は先程、村井さんが葛藤とともに語ったことを二人にも共有した。それを聞いた彼らは芽生えていた村への不信を強くし、犠牲になっている神奈子母娘に深い同情を示した。
「僕もできる範囲で手伝いますよ。大学生だから、フットワークは軽いんです」
「瑠璃さまが年を取らないっていうの、気味が悪いですよね。それに私たち、さっきまた神奈子ちゃんと話したんですけど。やっぱりどう考えても、進んでやってる感じじゃないと思うんです。実の父親と離されて、儀式の生贄みたいにするなんて……」
改めて見れば、高坂さんの膝は土で汚れている。
村長の屋敷から十分ほど歩くと、東の辺縁、やや寂れた雰囲気のある一帯が近づいてきた。ほかの場所に比べてどことなく貧相な建物が多く、長く手入れをしていないような、廃墟同然の家も散見された。随分前からこうだったのか、最近こうなったのかは分からない。
あとり君の記憶に基づき、分かれ道や細道を十五分ほど行っては戻りする。そのうち、黒いトタン屋根の小さな家屋が見つかった。壁ばかりでなく屋根までも植物に侵食され、十年以上放置されているのは明らかだった。
「鎌かナタでも借りてくればよかったね」
古戸さんはそう言って汚れた軍手を装着し、敷地に分け入っていく。私たちも下草を踏みしだきながら、滝村教授が住んでいたという家に近づいた。
脇を見遣ればかつて庭だったらしい場所があり、錆びてボロボロになったスコップや支柱の残骸が、かつて家主が営んでいたらしい菜園の面影を残していた。
私が前方に目を戻すと、古戸さんが玄関ドアをゴンゴンと蹴っている。
「開かないね。楠田さん、蹴り壊せない?」
「玄関なんだから、引かないと駄目じゃないですかね」
「それもそうだ」
ドアノブを回した状態で左右から掴み、私と古戸さんで一気に引っ張る。木材か金属が破断するような音を響かせながら、ドアは半ば壊れるようにして開いた。屋内から、鼻を突くような異臭が漏れ出る。
「くっせ」
そう言いつつも、あとり君が先陣を切る。
静かな室内。当然ながら電気はなし。しかし昼間の明るさがあれば、物を探すのに困るということはなさそうだ。
足元の板や畳は湿気で腐りきっている。そこには放置されている間にどこからか入り込んだらしい、乾いた小動物の死骸や糞尿が転がっていて、この家が二度と人間の住処にはなり得ないことを強く主張していた。
「荒れてますね。古戸さんはどういうものを探すつもりなんですか?」
私は尋ねた。
「故人の指輪とか見つけてもしょうがないから、やっぱり資料とか記録の類かな」
「パソコンがあったとして、壊れちゃってるでしょうね」
「十六年前だとまだノーパソも重いよ。紙で残ってる可能性も高い」
家はそれほど広くない。私たちは手分けして全体を物色することにした。あとり君は宝探し気分だが、大抵のものがカビたり腐ったりしている。自室の掃除と同じようにはいかない。
「あの、楠田さん、ちょっと」
私が小さな和室を調べていると、台所の方から高坂さんに呼ばれた。
彼女に促されて見ることになったのは、床一面に広がる黒ずんだ染みだった。仮にたっぷり二リットルの醤油をぶちまけたら、おそらくこんな感じになるだろう。とはいえ、料理中の粗相だと断ずるのは現実逃避に過ぎる。
「これ、血、ですよね」
否定できればよかったのだが、それ以外の可能性を考えるのは難しかった。
十六年経った血痕がどういう状態になるのかは分からない。しかし私には背後から襲われ、滅多刺しにされた男性の姿がありありとイメージできてしまった。あるいは滝村教授も、先程の犠牲者と同じようになったのだろうか?
「多分……血だね……」
ショッキングではあるものの、これ自体は新しい手掛かりにならない。私は嫌でも視界に移り込む血痕から目を背けつつ、高坂さんと一緒に台所を漁った。
私はいつか読んだ探偵小説のことを思い出し、塩の瓶をひっくり返して鍵でもないかと調べてみたりしたが、収穫らしい収穫は得られなかった。結局、虫が大量に湧いた米びつを発見するに至って、私たちは台所の探索を断念した。
一旦、二人で古戸さんのところに戻る。居間を探索していた彼は、縁側で腐った座布団に腰を下ろし、なにやら手帳のようなものを覗き込んでいた。
「汚い字だなあ」
内容を読みながらぶつぶつ言っている。
「なにかあったんですか」
「ああ、文机の中にノートがあったんだよ」
「見つけたなら言ってくださいよ」
私が抗議しても、古戸さんは生返事を返すだけだ。その態度はすなわち、発見した資料に、集中して読み解くだけの価値があることを示している。
少しして、あとり君と樋口さんも戻ってきた。
「こっちにはなにもなかったですね」
樋口さんは言った。作業中に腐った床でも踏み抜いたのか、彼のズボンには小さな木片がいくつも刺さっていた。
「お疲れ。大体読んだら、かいつまんで話すから」
古戸さんは手帳に目を落としたまま言った。全員で読むのも確かに非効率だと納得した私たちは解読を待つことにして、可能な限り新鮮な空気が入ってくる場所に座り、滝村教授が平和な暮らしをしていたころに想いを馳せた。




