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滴水古書堂の名状しがたき事件簿  作者: 黒崎江治
Epsode1 愚者が求めし
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-3- 自殺志願

 その老人は老いていた。しかし通常の老い方ではなかった。いや、どれだけの時間生きたとしても、こんな風に老いたりはしないだろう。


 和装に身を包んだ老人の背骨は奇妙にねじ曲がり、袖の先にある手や、顔は樹皮のように強張り、ひび割れていた。黄色く濁った目玉が僅かに動くことで、不気味なオブジェではなく、人間だと知れるような具合だった。


「この姿に驚くのも無理はない」


 唇も喉も固く動きにくいのか、老人は掠れた声でゆっくりと言った。


「しかしこれには事情があるのだ。ともあれ、まずは自己紹介をしよう。私が六文字だ」


「失礼しました。楠田です」


 私は彼の容姿に驚いた非礼を詫びるように言った。


「どうも、古戸です」


「三津さん。客人に飲み物を」

「はい」


 陰気なメイドは一礼し、部屋から出て行った。


「適当に掛けてくれ。少し身体が不自由だから、座ったまま失礼するよ」


 六文字さんは容姿さえ普通ならば、ごく柔和なおじいさんなのだろう。言葉遣いやイントネーションには、どことなく上品さが感じられる。


「あの、カルナマゴスの遺言のことなんですが」


「ああ、盗難に遭ったと、藤さんから聞いているよ。私も残念だが、君たちも災難だったね」

「いえ……」


 何から切り出したものか。盗まれたときの状況を説明してから、ライターについての意見を求めようか。私が考えていると、それまで静かにしていた古戸さんが口を挟んだ。


「機会を逸しちゃうとアレなんで、最初に聞いておきたいんですけど」

「何かな?」


「あなたはなぜ、カルナマゴスの遺言を手に入れたいんです?」


 私が古戸さんの上司なら、あとにしろと叱るところだが、立場上そうもいかない。聞きたいことがあるならば、最初から話を仕切ってくれればいいのに。


「ふむ」


 六文字さんは、少し考えるような様子を見せ、そのねじ曲がった身体をわずかによじらせた。多分、姿勢を正したのだろう。


 そのとき背後のドアが開いて、三津さんがティーカップを持って入ってきた。雑多なアイテムを避けて置かれたそれぞれのカップからは、紅茶のよい香りがした。三津さんは一礼すると、またすぐに部屋から出て行った。


 六文字さんはそれを待ち、口を開いた。


「君はあの本がどのようなものか知っているようだ」

「無論」


「ならば、それについての詳しい説明は省こう。私は一度、あれを読んだことがある。八十年前か、九十年前か。先の戦争より前だったことは覚えているのだが」


 一体、この老人は何歳なのだろう? 見た目からは年齢が判断できない。彼の言葉が正しければ、当時三十歳だったとして、百十歳か、百二十歳ということになる。


「当時の私は若く、愚かだった。今も賢いとは言えないがね。私の実家には資産があった。いわゆるブルジョワジーというやつだが、私自身に才能があったわけではない。私はただの放蕩息子だった。


 事業をして赤字を出すとか、女遊びにうつつを抜かすとか、そういう種類の人間だったらまだよかったのだろうがね。私が興味を持ったのは魔術だった。はじめはほんのお遊びだった。しかしそれでも、ずいぶんとおぞましいことをした」


 おぞましいこと。私の頭の中には、首を斬られる羊や、かがり火を囲んで乱交をする男女の映像が流れた。


「そしてやがて本物に行き当たった。カルナマゴスの遺言だ。魔術を志す者なら、誰もが一度は考えるであろう不老不死。その秘密が記された、世にも珍しい書物だ。今思えばなんと愚かだったことか。極めて、極めて愚かな行為だった。


 私はそれを読んだ。安全に読むだけの知識があった。少なくとも、そう信じていた。そして私は死と時間を捨てたのだ」


 六文字さんは一度乾いた咳をして、カップからひと口紅茶を飲んだ。多分、こんなに長く話すのは久しぶりなのだろう。彼はゆっくりと、慎重に言葉を選んでいた。


「不死を得た私は有頂天だった。たとえ自らの身体がねじ曲がり、このような醜い姿となり果てていたにも関わらず。しかし私が自らの愚かさに気づくまで、そう長い時間は掛からなかった。


 私に残されたものが、これまで成してきたおぞましい所業に対する罪の意識と、永遠に空虚な精神だけであることに気づくまで、そう時間は掛からなかったのだ。そして自ら捨てた死が、今度は私の最も望むものになった。


 分かるかね。私は自殺志願者なのだ。そしてカルナマゴスに遺言こそが、死を達成するために唯一存在する手段なのだ。太平洋戦争のごたごたで本が逸失して以降、私は長らくそれを探していた」


 六文字さんはそこまで話すと、また紅茶で唇を潤し、反応を待つように、その黄色く濁った目を私たちに向けた。


 私はその話を信じた。目の前にいる老人の姿と、その迫真の語りとで、信じざるを得なかった。

死のうと思って死ねないのは、どんな気持ちなのだろう。


 それはきっと出口のない苦しみで、想像しただけでも気が狂いそうだった。そしてたとえ精神が壊れたとしても、そのまま永遠に肉体へと捕らわれるのだ。私にはこの老人が狂っていないことが不思議でならなかった。


 いや、一般的な意味で言えば十分狂気なのだろうが、少なくとも彼はまだ理性を保っている。もしかすると、もともと狂っていたからこそ、異常な状況下でも辛うじて耐えられているのかもしれない。


「カルナマゴスの遺言じゃないと、ダメなんですか」


 私は話の内容に動揺しつつも、彼が放つプレッシャーに耐えかね、恐る恐る尋ねた。


「今、私がこの場に存在しているという事実が、その証左だよ」


 おそらく彼は何度も試みたのだろう。首を吊り、腹を切り、毒を飲み、銃で頭を撃ち抜く人間が私の中でイメージされ、気分が悪くなった。記憶の奥底から危険なものが流れ出しそうになり、私は慌ててぎゅっと目を瞑り、耐えた。


「なるほどね、事情はよく分かりました」


 そんな私の気も知らないで、古戸さんはポケットから例のライターを取り出した。


「カルナマゴスの遺言が盗まれた現場に落ちていたものです」


 古戸さんはそれを目の前に掲げ、火を点けてみせた。暗い紫色の炎が、薄暗い部屋の中でぼんやりと灯った。それから古戸さんは灯を消して、ライターを六文字さんに手渡した。


 六文字さんはそれを手に取り、ひび割れ、強張った手で火を点けた。


「冷たい火だ」


 彼がその火に触れると、火はまるで柔らかいクリームか何かのように、指へと移った。普通なら熱くてたまらないだろうが、どうやら六文字さんが不死であることと、熱さを感じないことは関係がないようだった。熱を持たない火なのだ。


 六文字さんは火を指で揉みつぶし、ライターの火も消した。


「確かにこれは特殊な品だ。魔術のにおい(、、、)がする」


「誰が使っているのか、分かりますか」


「いいや。しかし追う方法がないではない。少々骨は折れるがね」


 それは警察犬が獲物を追うのに似ている、と六文字さんは言った。


「僕にもできますかね?」


 古戸さんが言った。六文字さんはわずかに目を細めた。


「手順はそれほど複雑ではない。しかし、あまり愉快な作業とは言えないぞ」


「ところが、私はそういうのを愉快に感じる性質たちなんですよ」


 六文字さんは私の方に目を向けた。私は首を振った。古戸さんと同じ人間だとは思われたくない。


「それに、ちょっとお願いしたいこともありますしね」


 古戸さんは嬉しそうに言った。


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