-1- カルナマゴスの遺言
私の新しい職場となった滴水古書堂は、自宅から徒歩十分。朝九時半に出勤して店を開け、昼休みを挟み、夕方四時半までが勤務時間だ。一日の実働六時間。月・火・木・金の週四日で、社会保険はつかないが時給は一三〇〇円と、バイトにしては破格の高給である。
私がすることになったのは、要するに一般事務だった。滴水古書堂は貧相な店構えの割に商いは大きいらしく、常連からの、あるいはインターネット経由での問い合わせや注文が多かった。
伝票の整理、商品の発送、メールや電話の対応、在庫の管理、ごくたまに店を訪れる客のあしらいと、私が想像している以上に業務は多かった。
しかしそれでも、忙しいというには程遠い。空いた時間、私は古戸さんの個人的な蔵書を借り、それを読むことを許されていた。ときおり、英語書籍の翻訳を手伝うこともあった。
複雑な手順の作業はほとんどなかったので、私はすぐにそれらを覚えた。そのうち古物商の仕事も教えよう、と古戸さんは言った。
そして私が滴水古書堂で働くようになってひと月。近くの川沿いに植わるたくさんの桜が、つぼみを膨らませ始めるころ。私がカウンターで作業をしていると、店内の固定電話が鳴った。ソファで居眠りしていた古戸さんが、驚いて膝に置いていた本を落としかけた。
「はい。滴水古書堂です」
受話器を取って応答すると、相手が少し戸惑ったような気配がした。
「……ん?」
「先月からこちらで勤務しております。楠田と申します」
よく滴水古書堂を利用する客は、当然古戸さんが電話に出るものと思っているので、若い女性の声を聞くと戸惑うのだ。
「へー、店員ねえ。景気がいいのか、怠け者なのか」
電話の相手は年配の女性であるようだった。
「で、古戸は出られるかい?」
「はい。お名前をお伺いしてもよろしいでしょうか」
私の言葉を聞くと、女性は笑った。
「丁寧だねえ。あいつにもマナーを教えてやってくれよ。藤、って言えば分かるよ」
「ありがとうございます。少々お待ちください」
私は電話を保留にし、古戸さんに声をかけた。
「藤さんって人からです」
「ああ、みことのバアさんか」
古戸さんは大儀そうに立ち上がり、私から子機を受け取った。話しぶりからすると、二人は親しいという訳ではなさそうだが、かなり馴染みの間柄であるように聞こえた。
どうやら藤さんは、古戸さんになにやら頼みごとをしているようだ。彼の表情からすると、それは中々面倒な案件らしい。しかし結局、古戸さんは嫌々ながらも頼み事を請けることになった。
「さて、出張だ」
子機を置いた古戸さんは言った。
「え?」
「今日はお店を閉めて、鎌倉に行くよ。さっきの人は僕の、まあ師匠っていうかなんというか」
「はあ」
ずいぶん唐突な話だが、別に急いでやらないといけない仕事もない。私は言われるままに戸締りをして、少し離れた駐車場にある車を取りに行った。鎌倉までは少し遠いが、県道をまっすぐ行けばいいだけなので、運転は難しくない。
時刻は昼前、ゆっくり走っても一時間はかからないだろう。シートを倒し、すっかりリラックスモードになった古戸さんを乗せて、私は小さなライトバンを運転して鎌倉へと向かった。
◇
県道沿いのマクドナルドで昼食を済ませた私たちは、昼過ぎに目的地へと到着した。鎌倉の市街から少し離れたところにある古本屋が、指定された場所だった。
「はい。運転お疲れ」
私は近くに車を停め、通り過ぎた店に戻った。
滴水古書堂とは違い、その店はちゃんと古書堂然とした佇まいをしていた。軒下にある大きな木製の看板には、〝薄命堂〟と書かれていて、歴史と風情を感じさせる。
しかし今は、店の間口に休業中の札が掛けられていた。
古戸さんは慣れた様子で私を先導し、店の裏手にある住居部分の玄関に向かった。このあたりは、滴水古書堂も薄命堂も似たような造りだ。インターホンを押すと、中で誰かが動く気配がする。
「ああ、来たね」
ドアを開いて顔を出したのは、七十歳手前ぐらいの女性だった。白の混じった灰色の髪は無造作に後ろで束ねられ、メイクもしていないが、引き締まった、凛々しい顔をしていた。
セーターに包まれた身体は、細身だが痩せすぎているというほどではない。背筋はピンと伸びていて、シルエットだけ見ればずいぶん若い。筋量も年齢に比べ、かなり維持されているようだ。
「そっちがバイトの子だね」
「そうそう。楠田由宇子さん」
女性はまっすぐ私を見つめた。その瞳には、どこか真実を見透かしてしまうかのような、不思議な光があった。
「楠田です」
私は軽く頭を下げた。
「どうも。藤みことです。今日は来てもらって悪いね」
藤さんは表情を崩して、私たちを中へと招いた。
「猫被っちゃってまあ」
「うるさいね。叩き出すよ」
古戸さんは藤さんのことを、師匠らしきものと言っていたから、古本屋としての仕事を教えてもらった、みたいな間柄なのだろう。二人の間には、長らく一緒に仕事をしてきた気安さがあるように思えた。
私たちはリビングに腰を落ち着け、コタツを囲んで向かい合った。仕事の話というよりも、親戚の家を訪れているような絵面だ。
ポットで全員分のお茶を淹れようとした私を制して、藤さんが切り出した。
「お客なんだから気にしなくていいよ。で、アンタはこの子にどこまで説明したの」
「全然」
「しょうがないね」
私と古戸さんは出された緑茶とチョコパイを食べながら、藤さんの話を聞いた。
「簡単に言うと、盗まれた本を探してほしいんだよ」
「盗まれた?」
私は思わず聞き返した。窃盗なら警察の仕事ではないのか。その思考を見透かしたように、藤さんは言葉を継ぐ。
「ただの本じゃない。とびきりの稀覯本で、魔導書だ」
「魔導書……」
古書の世界には詳しくないが、奇書とか、グリモアとかいう言葉は聞いたことがある。そういった珍しい本ならば、盗むほどの価値もあるのだろうか。
「名を〝カルナマゴスの遺言〟、と言う」
「だから僕に売ればよかったのに」
「うるさいよ貧乏人」
カルナマゴスの遺言、と私は声に出して反芻する。不吉なタイトルだ。
「オカルト本の類ですか」
「いいや、違う」
どう違うのだろう。
「オカルトじゃない。本物だよ。『読むと死ぬ』のさ」
死という言葉に、私の心臓は一瞬跳ねた。冗談で言っている風ではない。呪いのダイヤとか、そういう類のものだろうか。
「そういういわくがあるんですか」
「事実、『読むと死ぬ』のさ」
藤さんはその言葉を押し付けるように、しつこく繰り返す。
「『そんなものがあるはずはない』という大衆の認識により、本物は表に出てこない。幸か、不幸か」
古戸さんが面白がるように口を挟んできた。
「常識によって抑え込まれた真実が、この世界には確実に存在するんだよ楠田さん。『読むと死ぬ』本は存在する。カルナマゴスの遺言がそれだ」
「そんな……」
私の常識は強固に抵抗を続ける。
「それに、興味がないはずはないね? 君も少し仕事に慣れてきたころだ。もうちょっと深いところまで行ってもいいだろう」
「まあ、信じる信じないは、この際あんまり重要じゃない」
調子に乗って私をいじめ始めた古戸さんを遮るように、藤さんは言った。
「本題に移ろうじゃないか」