-3- タコ公園にて
「話しぶりからすると、恵那ちゃんがラスティを攻撃したのは、これがはじめてじゃなさそうだね」
ソファ上で手足を放り出したような姿勢のまま、古戸さんが言った。
「はじめてじゃない。上から物を投げるのはしょっちゅう、わざわざリビングに怒鳴り込んできたこともある」
「それも不思議だけど、ラスティも懲りないね。よっぽどおいしいエサでもあげてんの?」
「いや……、ツナ缶とか、パンくずとか。キャットフードもあげてみたけど、なんか嫌そうに食べてた」
「ふぅん……」
「僕が本当に愛情と関心を向けるべきは、恵那の方だし、ラスティを甘やかすのは、お互いのためにならなさそうだ。ちょっと痩せてて可哀そうだから、ついついご飯をあげたくなるけど」
そう言うと梶村さんはまたキッチンに戻り、ツナ缶をもう二つ持ってきてテーブルに置いた。ラスティにあげることを考慮しているのか、恵那ちゃんのもともとの好みなのか、油漬けではなく水煮タイプのものだった。
「もし近くでラスティを見かけたら、これをあげといて欲しい。見つからなかったら、普通に持って帰っていいよ」
「ああ、じゃあ、もらっときます」
机の上に置かれたツナ缶を取り、そのまま手提げカバンに突っ込む。それから私は空いた曜日に梶村邸を訪れる約束をし、今日のところはこれで帰ることにした。
「休みのところ、わざわざありがとう。少し気が楽になったよ」
「ええ。あまり思い詰め過ぎないようにして下さいね」
繊細で真面目、思い悩みやすい。短い間に私が梶村さんから受けた印象は、そのようなものだった。あまり不幸になって欲しくない種類の人間だが、往々にしてそういう人間にこそ不幸が訪れる。
古戸さんと存在を足して二で割れれば、梶村さんも多少は楽になるだろうか。私はちょっと考えて、すぐさまそのおぞましいアイデアを封印した。
私たちは玄関を出て、昼下がりの住宅街をぽくぽくと歩いた。
「どうする? 今日は帰る?」
「そうですね……」
今日のところは、あまりできることもなさそうだ。私は駅に足を向けようとして、道路の先を小さな影を見つけた。
「あ、ラスティ」
思わず声が出る。ラスティは行儀よく道の端を歩き、どこかに向かっていた。その錆色のうしろ姿は、心なしか落ち込んでいるようにも見えた。
「古戸さん、ちょっと追いかけてもいいですか」
「いいよ」
私はラスティを見失わない程度のスピードで、その姿を追っていった。白衣の男と二人して住宅街を移動している様は、不審者情報として広報されてもおかしくないが、警察官が後ろ盾についているのだから、多少の悪評は気にしないことにする。
二、三百メートル小走りで追いかけていくと、やがて広めの公園に行き当たった。
縦横七、八十メートルほどの敷地には、芝生の広場や野球場のような場所、カラフルな遊具が置かれているスペースなどがあった。古くごみごみした住宅街では、あまり見かけない種類の綺麗な公園だ。
特に目を引くのが巨大なタコの滑り台で、なぜか赤ではなく深緑に塗られ、足の一つで小さな船を握りつぶしていた。飛び出した眼のデザインがやたらとリアルで不気味な印象を与える。
『タコ公園』と書かれた入口の金属プレートを横目に、私たちは休日の公園に立ち入り、巨大タコに近づいていった。広場の方ではベビーカーを押した母親たちが談笑していたり、五、六歳の子どもたちが駆けまわったりしている。
「タコ、不人気なんでしょうか」
緑のタコは子供たちから捨て置かれ、いやに大きな存在感だけを発散させていた。閑静な住宅街の公園に、なぜこんな不気味な遊具を作ってしまったのか。
タコの真下をよく見ると、そこには子供が立ち上がれるぐらいの空間があった。公園に入ったラスティはタコ足の間をすり抜けて、薄暗いその場所にうずくまっていた。
「古戸さんはそこで待っててください」
「なんで?」
「絶対に警戒されるんで」
「間違っちゃないけどね……」
私は古戸さんを少し離れた場所に待機させ、低い姿勢でじりじりとラスティににじり寄る。三メートルぐらいのところからゆっくり手を差し出し、指先を揉むように動かす。これで近づいてくる猫は撫でられる猫だ。動かないままじっとしていた場合は、警戒されてしまっている。
「ラスティ、ラスティ」
チチチチ、と舌を鳴らして気を引く。やがてラスティは小さな鳴き声を発して腰を上げ、私の方に歩み寄ってきた。
「よしよし」
私がラスティの鼻先に指を寄せると、ラスティはそれをざりざりと舐めた。その場に座り、にゃあと鳴く。ただ人懐こいだけではない。人間の家族と一緒に過ごす時間が長い、室内飼いの猫がよくするような仕草だった。
「お行儀がよろしい」
おもむろに腰を上げたラスティは私の横をすり抜けて、古戸さんにも挨拶をする。それからまた少し離れた場所で鳴く。少し歩いては振り返って鳴く。
「なんだろね」
「見せたいものがあるんでしょう」
このあたりも飼い猫に近い行動だ。私たちはラスティに連れられるまま、公園の一角に移動した。そこの地面は一部芝生が剥げて、茶色い土が露出している。
ラスティは前足を使って、がりがりと土をかいた。私はしゃがみこみ、その様子を眺める。鳩の死骸でも出てくるのだろうか。
しかし私はすぐに、ラスティがなにかを掘っているのではないことに気がついた。ラスティは地面に跡をつけては姿勢を変え、跡をつけては姿勢を変えている。
「ほう……」
私の背後で古戸さんが声を上げた。
ラスティは掻いていたのではない。書いていたのだ。その跡は拙いながらも、明らかにひらがなの形をしていた。
『え』
一文字目。ラスティは私たちが意味を解しているかどうか、一度こちらにくりくりした視線を向け、二文字目を書き始めた。
『な』
えな。
「恵那……」
「君、恵那ちゃん?」
古戸さんが尋ねた。
にゃああ、とラスティが答えた。
「え……、マジで言ってます?」
「いや、猫語は分かんないから……」
私はふと思いつき、手近に落ちていた枝で、地面にごりごりと言葉を書く。
『はい』
『わからない』
『いいえ』
「ヴィジャボードみたいだね」
「なんです? それ」
「西洋版こっくりさんみたいなヤツ」
もし事前に試すつもりだったなら、あいうえお表でも持ってきただろう。だが最低限の事実を確認するだけなら、これで十分だ。
「さて……」
私が三択を書き終えても、ラスティは座ったまま、こちらをじっと見つめていた。その尻尾はなにかを期待するように、ゆっくりと振られている。
「私の言葉が理解できていますか?」
問いかける。ラスティは『はい』の上で空中をかくように前足を動かした。
「あなたは、梶村恵那ですか?」
『はい』
「なぜ今みたいになったか分かりますか」
『いいえ』
一度や二度なら偶然だと解釈できなくもないが、ラスティ……もとい恵那ちゃんはこちらの質問を明らかに理解し、回答していた。
それほど不快ではない種類の超常現象とはいえ、先程梶村邸で見た恵那の姿や、萎れた父親の姿を思い出すと、やはり暗い気持ちになる。
「家にいる恵那ちゃんの中に入っているのは、ラスティですか」
『わからない』
「お父さんは恵那ちゃんがどういう風になっているか知っていますか」
少し迷って『いいえ』
「……今、お腹は空いていますか」
『はい』と答えたあと、舌をぺろり。
私はカバンから先程もらったツナ缶を取り出して、蓋を開けた。缶の口で恵那ちゃんが怪我をするといけないので、中身を手の上に出して、彼女に差し出す。
答えた通り、恵那ちゃんは相当に空腹だったらしく、タンパク質たっぷりのツナを貪るように食べ始めた。
意識が人間ならば、ごみを漁ったり虫を食べたりはまずできないはずだ。今までも、なんとか人間から食べ物をもらいつつ、飢えをしのいできたに違いない。私は彼女の浮いた肋骨あたりを優しく撫でた。
「しかし、妙だね」
古戸さんが呟いた。
「なにがです」
「今、恵那ちゃんの中に入っているのは、一体なにか、ということさ」
確かに。梶村邸の恵那は恵那で、態度はともかく一定の知能はあるように思えた。あれは猫ではない。人間か、人間と同等の知能があるなにかだ。
ならば猫の精神はどこに行ったのか? 単純に一対一で入れ替わった、というわけではなさそうだ。
しかし関係図を理解したところで、戻す方法が分からなければ意味はない。ラスティに入った恵那ちゃんを確保して、安全に生活させることはできるかもしれないが、それはあまりにも可哀そうだ。
緑のタコの下で、私は途方に暮れた。
「かわいい猫ちゃんですね」
ふと、背後から声をかけられて、私は振り返った。休日に公園を訪れていた主婦か老人かと思ったが、それは違っていた。私たちの背後にいた人物は若い女性だった。肩まである長い髪は白銀に染められ、鮮やかな青いスプリングコートを羽織っていた。
一見するとちょっとぎょっとするような格好だが、それでもあまり不自然に見えないのは、彼女の容姿が極めて整っているからだった。
SF映画の撮影から抜け出してきた女優だろうか? 私がなんと答えていいか迷っていると、銀髪の女性が再び口を開いた。
「お困りならお手伝いしましょう。ねえ、恵那ちゃん?」
彼女は恵那ちゃんを見下ろし、にこりと笑った。




