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滴水古書堂の名状しがたき事件簿  作者: 黒崎江治
Last Episode 遥かなる祝祭
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-22- 灯台へ

 ひどい立ち眩みに襲われて膝をついた私は、今いるのが固いコンクリートの上であることに気がついた。少なくとも、先程までいた海底ではない。随分と慌ただしい転移だったが、シロカネさんの試みはひとまず成功したらしい。 


 道の一方から流れてくる人々に押しのけられたり突き飛ばされたりしながら、私はふらふらと身を起こす。あたりを見れば、ここはどうやら橋の上であるようだ。となれば、本土と江ノ島を繋ぐ弁天橋か。


 私は思いやりのない群衆を避けるようにして道の端へ移動し、橋の欄干に寄りかかった。身の安全を確保しながら、不快感を吐き出すように深呼吸したとき、すぐ傍で鮮やかな青のブラウスが翻る。


「お待ちしていました」


 涼やかな声が聞こえた。饅頭を手にしたシロカネさんだ。


「少し乱暴になりましたけど、うまく行ったようですね。ほかの二人もおそらくは大丈夫でしょう」


「ありがとうございます。でも……」


 立ち眩みの収まってきた私は、頭を上げて江ノ島を見遣った。そしてさらに奥の稚児ヶ淵を。


「はい。ここからが重要です。先程も言いましたが、次はありませんから、そのつもりでお願いします」


 私は頷いた。ゆっくり話している余裕はない。欄干を離れ、先にいるはずの古戸さんたちを追う。


「またお会いしましょう。いつかね」


 彼女の声を背に受け、私はヒレのついていない手足を確かめながら橋を渡る。揺れ動く人々の頭も、たなびく層雲も二時間前と同じ。しかし大きな分岐点がもうすぐやってくる。


 混雑の中、古戸さんを見つけて名前を呼んだ。彼はこちらを振り返ると、訳知り顔でにやりと笑う。


 江ノ島に上陸した直後、古戸さんは片倉君とヴェラを引き寄せてこう言った。


「作戦を変更しよう。理解できない部分は聞き流してもらっていいけど、ひとまずは従って欲しい」


 二人が困惑の表情を浮かべた。ついさっき役割分担したばかりなのにどうした? という顔だ。当然の反応ではあるが、変更に至った経緯を丁寧に説明している暇はない。仮に暇があったところで、納得させる自信もない。


「アザトース招来の儀式を妨害し、破壊する目的に変更はない。けれどこの混雑を鑑みるに、直接セラスに接触するのは難しいだろう。だから僕は展望灯台に上って、対抗手段としての儀式をおこなう予定だ。君たちは万が一の邪魔が入らないよう、僕についてきてほしい。全員で」


「その儀式とやらは、どの程度確実なのですか?」


 ヴェラが尋ねる。


「うーん……順当にいけば六割、いや六割五分ぐらいかな」


 セラス排除が困難なことを私は知っているので、成功率が何割であろうとも賛成せざるを得ないのだが、古戸さんが妙に正直な申告をするせいで、どうにも不安な気持ちになる。


「古戸さんにはちゃんと考えがあるんですよね? 力になれるかどうかは分からないですけど、僕は手伝います」


 片倉君が言った。いいぞ。私もすかさず援護する。


「トゥチョ・トゥチョが何人もいることを考えると、やっぱり別れるのは得策じゃないかもしれないですね。古戸さんなんてあっさり殺されそうですし」


「んん……」


 ヴェラはまだ少し腑に落ちないようだったが、ここは三対一でなんとか押し切ることにする。トゥチョ・トゥチョの襲撃が確実ならば、彼女の銃が是非とも必要だ。


「分かりました。では、全員で展望灯台へ?」


「そうだね。じゃあ、頼んだよ」


 こうして片倉君とヴェラを丸め込み、私たちは古戸さんの儀式一本に絞った行動を取ることになった。


 とりあえず、全員で植物園近くまで行くのは以前と同じだ。道中、ささいな行動が未来に影響するのではないかという気がして、私は妙に緊張してしまった。


 転んだり人にぶつかったりしてトゥチョ・トゥチョの注意を引けば、展開の予測がつかなくなってしまうかもしれない。かといって、過度に慎重でも到着時間がズレる。はぐれてしまうのも当然まずい。


 仲見世通りを過ぎ、大鳥居をくぐる。空も人々の様子も変わりないはずだが、違って見えるのは私の精神状態ゆえか。


 雲の向こうからアザトースが見つめているのではないか、それが少し気まぐれを起こして、こちらの懸命な行動を一瞬で無に帰してしまうのではないかと思うと、全身が締めつけられるような感覚に襲われる。


 私は歌の影響に耐えている片倉君とも、トゥチョ・トゥチョを警戒しているヴェラとも、また違った意味でひどく神経質な状態だった。


 それでも一応はつつがなく植物園近くまでやってくる。ここでは無名都市さんに気をつけなければならない。目立たないよう、顔をうつむけながら歩く。万が一話しかけられたら無視するか、それとも殴ってでも逃げるか。


 こっそりしたのが功を奏したのか、微妙なタイミングのズレがあったせいか、私たちは無事、無名都市さんに捉まることなく、チケットを買って植物園へ入場することができた。ここまでは順調。


 サムエル・コッキング苑と名づけられたこの場所は、同じ名の貿易商が明治時代に造り、当時では珍しい温室を備えた植物園だった。今も色とりどりの花々と、それらが放つ甘い香りで満たされているが、残念ながら私の心を和ませるには至らない。


 目当てとする展望灯台は植物園の敷地内にある。古戸さんはその最上部で、ヨグ=ソトース招来の儀式をおこなうつもりのようだ。そしておそらく同じ場所で、トゥチョ・トゥチョの襲撃がある。


「そうだ楠田さん。一応、これを渡しておこう」


 エレベーターを待つ間、古戸さんから折りたたまれた紙片を手渡された。開いてみれば、そこには細かいローマ字が羅列されている。一見して意味不明だが、ヨグ=ソトースと読めそうな単語がいくつか出てきている。


「呪文……ですか」


「喚び出すときのと、送り還すときのだね。僕が行動不能になったときは頼んだよ」


「私、仕組みもなにも理解してないですけど、大丈夫ですかね」


「一番重要なことは敵さんがやってくれるからね。僕らはその横取りをすればいいだけなんだよ。そんなに複雑じゃない。こっちおいで~、って呼ぶぐらいのノリでいい」


 そんなに気安く喚ばれてしまう邪神は嫌だ。


「なにやら不穏な話をしていますが……」


 ヴェラにじっとりと睨まれて、私は苦笑いを返す。そのうち彼女の銃口が、サタン認定された古戸さんに向くかもしれない。


「……終わったらちゃんと説明するからね」


 やがて到着したエレベーターに乗って展望室へ。そこからさらに階段を使い、鈍色の眺望が広がる展望デッキへ。地上五十メートルの高さに立った私たちに、これからの波乱を暗示するような強風が吹きつける。


「あとはタイミングを窺う。アザトースが招来される直前じゃないと、こっちの儀式も意味がないからね」


 古戸さんは手すりに寄りかかりながら、薄曇りの空を見上げた。


 私は時折呪文のメモに目を落としながら、いつトゥチョ・トゥチョがやってきてもいいよう、腹の底に気合を溜めていた。


 シープスの歌が景色の中に漂い、島全体を覆っているのが分かる。今や江ノ島は魔術的に孤立し、外宇宙からの神を迎え入れるための準備を完了しつつあった。


 しばらくすると片倉君の顔が青ざめ、うわごとを言いながらその場に座り込んだ。儀式の気配が高まるのを感じているのだろう。少し可哀そうだが、介抱しているの余裕はない。せめて闘争に巻き込まれないよう、古戸さんの近くで休ませる。


 前回の今頃は、私と片倉君で人垣を乗り越えながら稚児ヶ淵に向かっていた。そのときの時間感覚からすると、アザトースが降りてくるまであと十五分ほどだろうか。半ば焦れながら、半ば恐れながらさらに待機する。


「……来た!」


 はじめに反応したのはヴェラだった。彼女は鋭く叫び、階下から姿を現わした数名のトゥチョ・トゥチョに対し、警告もなく発砲した。


 耳をつんざく銃声が曇天下に響き、ガラスの砕ける音、正気の人々が上げる悲鳴、トゥチョ・トゥチョの怒声が混然となって、暴力と狂騒の渦を現出させた。


「古戸さん!」


「まだあと少し」


 彼は泰然とした様子で稚児ヶ淵の方を見遣り、時折空を確認している。私としては早く済ませてしまいたいが、タイミングを誤っては意味がないのだ。それまでなんとかトゥチョ・トゥチョの攻撃を凌がねばならない。


「ヴェラ、それって何発入ってるの?」


「あと八発です」


 たった今上ってきたのはおそらく四人。彼らは一旦引き下がったが、すぐに応援が寄越されるだろう。決して余裕のある弾数とは言えない。銃が使えなくなれば、私たちにあるのは拳だけだ。多分、ものすごく血生臭いことになるだろう。


 トゥチョ・トゥチョの反攻は私たちが思っているよりも早かった。恐怖よりも狂信を優先する彼らは自らの命も顧みず、サバイバルナイフを手に次々と突っ込んできたのだ。


 それを迎え撃つ銃声が、私の鼓膜を震わせる。


 至近距離で銃弾を受けても、トゥチョ・トゥチョたちの動きは止まらなかった。その突撃は文字通り死に物狂いで、狭い屋上デッキに立つ私たちは、一気に手の届く距離まで迫られてしまった。


 銃撃によって噴き出し飛び散った血と肉片が屋上デッキを汚す中、私とヴェラは地獄の格闘戦に巻き込まれてしまう。


 現れたトゥチョ・トゥチョ四人のうち、三人まではヴェラが重傷に追い込んだが、銃はその時点で弾切れになってしまった。私は彼女を守るよう前に出て、近づいてくる一人の鼻面を正拳で突き、一人の膝を砕いて転倒させ、もう一人の腕を取って派手に折り曲げた。


 のたうち回る男たちが、自らの血をデッキに塗りたくる。


 ヴェラの銃撃を躱した相手と対峙したときが、最も危うかった。堂に入ったナイフ捌きから素早いタックルに移行した男は、私の両膝を抱くようにして身体を持ち上げ、そのままデッキに勢いよく叩きつけた。


 背中を強く打った私は一瞬意識が混濁し、男がナイフを振り上げるのをただ見ていることしかできなかった。


 鈍く煌めく刃が止まったのは、黒いなにかが持ち手に巻きついたからだった。ようやく呼吸を再開した私が見ているうちに、古戸さんのショゴスがトゥチョ・トゥチョの腕を砕き、首に絡み、それをゴリゴリとへし曲げていった。


「楠田さんたちばかりに悪いことさせるのは、申し訳ないからね」


 私は死体の下から這い出すようにして立ち上がった。怯えた何人かの観光客が階段に殺到するのを見送りながら、大きく息を吐く。


「大丈夫ですか? ユウコ」


 ヴェラが寄ってきた。彼女は決死の一人にナイフで腕を切り裂かれていたが、幸い傷は深くないようだ。その顔は闘争の興奮でのぼせたようになっている。


「私は大丈夫、大丈夫だけど……」


 私はデッキ上の惨状を見遣った。まだ死んでいないトゥチョ・トゥチョもいそうだが、どう見ても助かりそうにない。


「彼らはサタンの手先でした。なにも後ろめたく思うことなどありません」


 隠蔽や言い訳の方法はあとで考えよう。私たちにはまだやることが残っているのだ。


「降りて……降りてくる……。アザトース……」


 気づけば片倉君も相当なトリップ状態に陥っていた。デッキ上に少数残った人々の喉からは、蕃神に捧げる歌が高らかに流れ出る。雲の向こうで、外宇宙への門が口を開いたような気がした。


「さて、そろそろはじめようか」


 まだわずかに右半身を蠢かせている古戸さんが、どこか楽しげに宣言した。

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