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滴水古書堂の名状しがたき事件簿  作者: 黒崎江治
Last Episode 遥かなる祝祭
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-21- 深淵より愛を込めて

 私はその魚人に見覚えがあった。以前身に着けていたトレンチコートとハットはなかったが、全体のシルエットでそうと判別できた。私や古戸さんやシロカネさんよりも一回り大きく、人間に近い身体。フカブチさんだ。


「驚きましたね。本当にあの二人ですか?」


 彼は立ち上がり、聞き覚えのある掠れ声で言った。


「ええ、上から精神だけ避難させてきました」


 シロカネさんの言葉にも、フカブチさんは疑いを捨てきれない様子だ。しかし私が頷いてみせると、彼は何度かぶくぶくと喉を鳴らし、再びゆっくりと腰を下ろした。私と古戸さんも壁に設けられた適当なくぼみを見つけて、そこに自分たちの扁平な尻を据えた。


「さて、色々と確認しよう。そこまで悠長にしてる余裕はないのかもしれないけど」


 古戸さんが両手をすりあわせながら言う。


「シロカネさん、あなたは僕らがアザトース招来の阻止に失敗したことを、なんらかの方法で確認した。そして世界の崩壊が避けられないと判断し、僕らの肉体から精神を取り出して、この魚人の身体に移し替えた。この身体も精神が空っぽだったわけじゃないだろうから、正確には交換かな」


「おおむね正しい理解です。持ち主はアザトースの崇拝者だったようですから、いち早く近くに行けて本望でしょう」


「なんのために? これで世界が救えるのかな?」


「そうです」


「どうやって?」


 シロカネさんは腰に手を当てて、私たち全員をぐるりと見回した。


「もう一度やり直すのです。私が最後のチャンスとして、あなたたち三人の精神を過去の肉体へと飛ばします。前回の失敗を教訓にして、今度こそ儀式を阻止してください。それが私の願いであり、あなたたちを救けた目的です」


 精神を過去へ飛ばす。とんでもないことを言われているような気もするが、外宇宙の神が世界を滅ぼそうとしている今、それくらいのことで動揺してはいられない。しかし方法の突飛さに目を瞑ったとしても、彼女の作戦には不合理な部分があるように思えた。


「あの、チャンスを貰えるのは嬉しいんですけど、もうちょっと簡単なやり方があるんじゃないですか。マネージャーMの精神をどっかの猫と交換しちゃうとか、ちょっと可哀そうですけど、セラスの精神をそういう風にしちゃうとか」


 真っ当と思われる私の意見は、呆れ混じりのため息に迎えられた。


「これは義務教育レベルの知識だと思うのですが、事象の改変を試みる場合には、直接的な介入を避け、なおかつ範囲を最小限にしないといけません。でなければ、宇宙を崩壊させかねないほどの大きな歪みが生じてしまうからです。


 あなたは自転車に撥ねられそうになっている子犬を助けるために、子犬を川の中に放り投げますか? 自転車の運転手を殺しますか? 例え確実に事象を阻止できるとしても、実際はそうしないでしょう。同じことです」


 少なくとも私は教わった記憶がない。他県の学校では習うのだろうか。あるいは他の星雲では?


「でも、私たちがまた失敗したら、結果は変わらないんですよね? それとも、成功するまでやり直すんですか」


「いいえ。それも歪みが大きくなりすぎます。どうあがいてもチャンスは一度のみ。できるのはあなたたちだけ。失敗すれば、この世界はいよいよお終いです」


「でも――」


「楠田さん。私のやっていることは、本当なら規律違反なのですよ。知識のない、訓練も受けていない一般人を過去に送り、宇宙を崩壊させるリスクを負ってまで、地球の一文明を救うのですから。


 メリットとデメリットを考えれば、明らかに取るべきではない行動です。私がいわゆる宇宙創世の神なら、そうした独断も許されるのでしょうが、悲しいことに私は一介の組織人なのです。


 さらに言えば、文明の崩壊、世界の滅亡、惑星の消滅というような事象は、宇宙全体で見れば今日もどこかで起こっていて、珍しくはあっても決して空前絶後の出来事ではありません。


 地球だけの歴史を考えたところで、過去に色々な生物種や文明が滅びているではないですか。だから別に無視したところで、特別に大きな損害というわけではない。数ある世界のうち一つが滅びるだけなのですから。


 ではなぜ私があなたたちをお助けするのか。いいですか、楠田さん。それは愛です。私があなたを含めた人間と、人間が作り出したささやかでくだらない文化や芸術や、それらをひっくるめた在りようを愛しているからです。お分かりですか」


 声は冷たい身体を持つ魚人のそれだ。話しているのは常に謎めいた態度や言動を取るシロカネさんだ。しかしたった今吐露された想いは、熱のこもった紛れもない真実であると私には感じられた。


「……分かりました。最善を尽くします」


 私は言った。


「シロカネさんが提供できるのはチャンスだけ、と考えておけばいいかな? たとえば具体的な場所の指示や、レーザーガンみたいな便利道具はもらえない、と」


 古戸さんが尋ねる。


「ええ。ただ古戸さん。あなたが採ろうとしていた手段は、おおまかには間違っていないように思います。外なる神の招来を、別の外なる神で妨害する」


「まあ、成功すればね。じゃあ今度はヨグ=ソトース招来に注力すればいいわけだ」


「おそらくは」


「フカブチさんはどうするかな?」


 この大柄な魚人は、先程からじっとしたまま、黙ってやりとりを聴いていた。


「私と仲間はセラスの注意を引きましょう。歌を止めさせることはできなくても、あなたたちのために時間を稼ぐことぐらいはできるはずです。あまり人前に姿を晒すのは望ましくないのですが、そうも言っていられませんね」


 私は不可視の触手を持つ蕃神の従者たち、そしてプロデューサーMという得体の知れない存在がいることをフカブチさんに伝え、注意を促した。


「ご忠告ありがとうございます。とはいえ――」


 不意に、私は足元から突き上げるような衝撃を感じた。少し間を置いて二度目があり、すぐに三度目と四度目があった。次いでなにかの構造が崩れるような音とともに、部屋がほんのわずか傾いた。岩の天井にヒビが入り、小片がパラパラと降り注ぐ。


 どうやら普通の地震ではなさそうだ。アザトースによる終焉が海底にも迫ってきたのだろうか。


 私が困惑していると、今度はそれほど遠くない場所から不思議な音が聞こえてきた。まるで鈴か笛のような、リリリリ、リリリリ、という音が……。


「ショゴスだ」


 フカブチさんが言った。


「地下で飼っていたものが、主を失って暴走しているんだ」


 彼の声には恐怖と焦りの響きがあり、この場におけるショゴスの暴走が深刻な危険であることを示していた。古戸さんも片倉君の祖父もそうだが、なんだってそんな存在を手元に置きたがるのか。


「……ショゴスって案外普遍的なペットなのかな?」


「フカブチさん、逃げた方がいいんじゃないですか」


 危機感のない古戸さんの尻を蹴り飛ばしてから、私は言った。


「もちろんです、私についてきてください」


 フカブチさんは大股で部屋を横切り、ざぶざぶと水の中に入っていった。私は古戸さんとシロカネさんを急き立てつつ、それに従う。二人とも運動神経が悪い上に、今は慣れない肉体の中にいるため、あらゆる動作が苛々するほどにぎこちない。


「とっとと泳いで!」


 水に潜って部屋の外へ出てみると、曲がりくねった通路の向こうから、黒いものが近づいてきていた。はじめ視界に入ったのはその先端だけだったが、すぐに通路の空間を埋め尽くす巨大な肉塊が姿を現わした。意思を持つ不定形の怪物が。


 私は以前にもショゴスを見たことがある。しかし今迫ってきているそれは、かつて目にした個体の何百倍も何千倍も大きい。


 リリリリ! リリリ! リリリリ!


 ショゴスは表面を盛んに泡立たせながら、激しく鳴いた。どう見ても親愛の情を示しているようには思えない。今まで服従を強いられていたのがよほど不満だったのか。


「こっちへ!」


 私たちは器用に水を蹴るフカブチさんに遅れないよう、必死で足をばたつかせる。落伍して迷子になった挙句、怒り狂ったショゴスに握り潰されるなんて最期は御免だ。それに私たちがここで死んだら、誰が過去に戻って儀式を阻止する?


 壁に刻まれた繊細な彫刻が、通り過ぎる傍から無残に破壊されていく。既に衝撃や振動というレベルではなく、施設全体が豪快な悲鳴を上げていた。砕けた天井から拳大の岩塊が降り注ぎ、床にぶつかって連鎖的な崩壊を引き起こす。


 焦りと疲労で口をぱくぱくさせながらも、私たちは懸命に泳いだ。ショゴスが何度も腕を伸ばし、こちらの脚を絡めとろうとしてくるのが分かった。


 リリリ、リリ、リリリリ!


 いよいよ絶望が追いついてくる。もはや捕まるのは時間の問題だ。

せっかくチャンスが与えられたのに、ここで終わってしまうのか。私が諦めかけたとき、前方から新鮮な海水が流れ込んできた。


 ようやく出口だ! 私は全身の力を振り絞って、最後の十メートルを泳ぎ切る。


 その直後、施設全体が大規模に崩落した。


 全身を震わせるような轟音が響く。海水が激しくかき混ぜられ、私の身体は木端のように翻弄された。脱出があと三秒遅ければ、不衛生なすり身になっていたところだ。


 私たちはもがきながらもなんとか体勢を立て直し、お互いの位置を確かめながら、もはやただの岩礁と化した施設から距離を取った。


 なんとか助かった……。巻き上がった泥や砂で煙る海中。私は大きく息をつき、安堵に胸を撫で下ろす。


 しかし私はショゴスの強靭さを侮っていた。フカブチさんが崩れた施設を指さし、警戒の声を上げる。


 リリリリ!


 数十トンの岩塊に圧し潰されてなおその怪物は健在だった。隠れる場所のない海中。私たちの体力はもはや限界に近い。


「やむをえません。ここでやります」


 シロカネさんが言った。


「全員目を閉じて。心を安らかに、集中して」


 ショゴスはもう数メートルの距離に迫っている。それは網のように大きく広がり、私たちを押し包もうとしていた。この状況で心を安らかにしろというのは無茶な話だが、やってみなければ死が待つのみ。私はもうどうにでもなれという気持ちで目を閉じ、エラから大きく水を吐いた。


 ショゴスに全身を絡めとられ、頭と四肢が握り潰される直前、私の精神は辛うじて魚人の肉体を離れた。

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