-16- 黒い顔
ここしばらくの間、私はよく眠れていない。静かなベッドの中では紅衣のメサイアや蕃神の影響力が強く、そのメロディがどうにも心を騒がせるせいで、寝つくまでにかなりの時間を要するのだ。
疲れを溜めるためのジョギングは、ぐっすり眠れる時間と反比例するように長距離となり、最近は足に負荷をかけ過ぎたせいで、歩くときに筋がギシギシいうようになった。
そしてこの日、とうとう夢の中にさえ、外なる神の影が忍び寄ってきた。
気づけば私は薄暗い部屋の中にいた。あたりには何百匹もの蝿が飛んでいるようなノイズが満ちていて、なんとも言えず不快だった。私ははじめここがどこなのか分からず、しばらく周囲に目を凝らし、やがて天井を見上げるに至って、ようやく自分がいる場所を理解した。
視界一杯に広がっていたのは、渦巻き、沸き立ち、うねりながらこちらを見下ろすアザトースの姿だ。以前に猿梨荘で見たときは、錯覚として動いているように感じただけだったが、今このとき、それは間違いなくあの悍ましい実体を蠢動させていた。
それから私は、今まで聞こえていたノイズが徐々にまとまっていくのを耳にした。茫漠としていた音は高くなり、低くなり、粗密を成し、互いに連なり、やがて外なる神の降臨を高らかに祝う旋律となった。
その旋律に和するのは歌声。大勢の人々が恍惚のうちに作り出す合唱だ。
常軌を逸した空間に圧倒されつつも、私はその場を離れようと出口を探した。脚がのろのろとしか動かずもどかしい。中央のテーブルに手をつきながら扉を目指す。
ようやく辿り着いたノブに手をかけるが、押しても引いても開かない。拳で扉がたわむほど叩き、必死に叫んだところで、外から助けてくれる人もいそうになかった。
そのうち天井からアザトースの触手が伸びてきた。首筋に触れられた私は悲鳴を上げ、床に這いつくばる。恐怖に打ちのめされながらも、テーブルの下へと避難する。
そのまま身体を丸め、耳を塞ぎ、ぎゅっと目を瞑る。触手がぬたぬたとあたりを探り、私を見つけようとしていた。
私は早く自分が悪夢から解放されるよう強く願ったが、ここにそれを聞き届けてくれる存在はいなかった。それでも縮こまっているうちに歌声は消え、のたうつ触手の気配は遠ざかっていくのを感じた。
なんとかやりすごしたのだろうか?
恐る恐る目を開けてみれば、そこは猿梨荘の一室ではなく、滴水古書堂の中だった。私はカウンターの裏、ひんやりした床の上で横たわっていたのだ。
身を起こしてあたりを見回すと、サンダルを履いた古戸さんの足が目に入った。
その姿を認めたとき、私が感じたのは安堵でなく、なぜ猿梨荘で恐怖していた自分の近くにいなかったのかという、制御できないほど強い怒りだった。憤然として立ち上がり、彼に詰め寄り、激しくなじる。のらりくらりと躱されてさらに怒り、頬に鉄拳を見舞う。
あまりに強く殴ったせいで、彼の顔面が破け、内部が露出した。しかしそこにあったのは血管や筋肉や骨でなく、石炭のように黒いまた別の皮膚だった。古戸さんが右半身に飼っている〝ショゴス〟でもない。
お前は誰だ、と私は言った。男は黙ったまま、顔にこびりついた皮膚の残りをゆっくりとむしり取った。現れた歯も、白目があるはずの部分も、皮膚同様に人間離れした黒色だ。ただ瞳の奥からだけは、脈動するような赤い光が覗いていた。
私はこの男と似たような存在をかつて見たように感じた。しかしそれがいつだったのかは思い出せなかった。とにかくその恐ろしい姿を前にして、私はすっかり動けなくなってしまった。
男がゆっくりと手を伸ばす。爪まで黒い指先が眼前までやってくる。私は金縛りにあったまま、それがずるりと眼球を貫通し、脳の中に侵入するのを許してしまう。ひどい吐き気とともに視界が混濁し――
私は目を覚ました。
今のは夢だった、という安堵はなかった。あの黒い男に手を挿し入れられたとき、両者に名状しがたい繋がりが生じてしまったような気がした。
私はベッドを降り、洗面所で顔を洗い、コップの水で吐き気の残滓を飲み下した。鏡に映った自分は随分と憔悴していたが、目だけはやけに爛々と光っていた。
時刻は午前五時前だったが、ベッドに戻ったところで寝直すことはできそうにない。リビングに行ってテレビをつけ、適当な番組を流しておく。スマホのメッセージをチェックしてみると、昨日の深夜、安那さんから連絡が来ていた。
彼女曰く、セラスはここ数日品川駅近くのカフェに通い続けているらしい。その近くに張り込んで直接接触を試みたが、取材であることを警戒されてまともな話はできなかった。できれば由宇子ちゃんの方で待ち伏せを試みてもらえないか、とのことだった。
送られてきた画像には、盗撮したらしいセラスの顔が写っている。以前にLonely Beatsの桑島さんから聞いたとおり、あまりアイドル然とはしていない、どちらかといえば地味な顔立ちの女性だった。
私は二つ返事で了解の旨を伝え、片倉君にも連絡を取った。古戸さんやヴェラは若干デンジャラスな雰囲気を漂わせているので、今回のパートナーとしては相応しくない。
とはいえまだ早朝。返事が来るのはもう少しあとだろう。私はゆっくりと朝食の準備をしつつ、カフェの場所や張り込みに適した建物を確認したり、話の切り出し方を練ったりしながら、テレビから流れるニュースにぼんやりと目を遣る。
情報番組の中では、奇抜な髪形をしたサブカルチャー評論家が、注目のネット文化としてメサイアプロジェクトのことに言及していた。動画が紹介されそうな流れになったので、私は慌ててチャンネルを変え、もっと無害な番組で気を散らすことにした。
江ノ島でシープスたちが集まるのは明後日のことだ。もうあまり時間がない。
*
私と片倉君は午前中に集合し、安那さんから教えてもらったカフェでセラスを待つことにした。そこはよくあるチェーンのコーヒーショップではなく、有閑マダムたちがのんびりした昼下がりを過ごしていきそうな、あか抜けた感じの店だった。
私たちは入口と店内全体が見渡せる窓際の席に陣取り、ちびちびと飲み物を消費しつつ、セラスが訪れるのを待った。
「楠田さんは最近、コミュニティとかSNSとか、覗いてますか」
ふと、片倉君が言う。彼もきっとあまり眠れていないのだろう。ただでさえ覇気があるとは言い難い顔つきが、なおのことげっそりして見える。不安な気持ちを抑えるためか、座席でも黒いナイロンリュックを抱きしめるようにしていた。
「そういえば、全然見てないや」
「メサイアプロジェクトの秘密主義のせいで、メジャーなメディアではまだぽつぽつと取り上げられる程度ですけど、個人レベルではもうかなり浸透してる印象です。芸術的な感性を持つ人、社会的に孤立しがちな人、悩みとか苦しみを抱えた人なんかが、特に強い影響を受けてるみたいです」
「私も運悪く、そういうカテゴリーに入ってるみたい」
「僕もそうです。……ところで、セラスは説得に応じてくれると思いますか。その、当日の江ノ島行きを取りやめてくれるように」
「一応、そうしてみるつもりではあるけれど」
私は言った。
「今の段階でうんと言ってもらうのは難しいと思う。もしセラスが当日起こることについて、恐怖とか罪悪感を持ってれば、付け入る隙があるかもしれない。
もし彼女が土壇場で、自分はなにかとんでもないことをしちゃったんじゃないか、って思ったとき、私たちが近くにいれば、協力してくれるかも」
「理屈は分かります。でもやっぱり、結構なギャンブルですよね」
「まあね……。でも、この件に関して確かなことって全然ないからさ、そこはしょうがない」
セラスがやってきたのは私たちがランチを注文し、それを食べ終えたころだった。
クリーム色の、少し胸元の開いたブラウスを女性が店に入ってきたのを見た私は、安那さんにもらった画像と見比べ、その人物をセラスだと断定した。彼女は慣れた様子で最奥の席に座り、店員に食事を注文した。同行者はいないようだ。
「片倉君も確認してみて」
「間違いない……と思います。ここで話しかけるんですか?」
「さすがに目立つし、長話はできないから……外で声かけようか」
私たちはそれから十五分ほどして会計を済ませ、屋外でセラスが出てくるのを待つことにした。先日安那さんが失敗してしまったのが取材という切り口のせいなのだとしたら、同じアプローチをするのは悪手だろう。
かといって私も片倉君も架空の設定を器用に演じられるような性質ではない。ならばきっと真正面から自分たちの考えを打ち明ける方が、印象は良くなるはずだ。私はそう結論し、頭の中で説得の文句を組み立てる。
しばらくすると、昼食を済ませたセラスが店から出てきた。私はこちらに歩いてくる彼女を脅かさないよう、可能な限りさりげない接触を試みる。
「シオンさん」
私は彼女がセラスとなる前の名前で呼びかけた。
「はい……?」
「いきなりすみません。私、楠田という者です。少し聞いていただきたいお話があるんですが」
「取材ですか? 取材はお断りしてます」
「取材じゃありません。ただのファン……でも実はないんですけど」
セラスの顔に困惑の表情が浮かんだ。
「明後日に江ノ島でなにが起こるのか、私は心配してるんです。アザトース――外なる神のこと、トゥチョ・トゥチョのこと、マネージャーMのこと、佐伯さんも心配してましたし、Lonely Beatsの桑島さんも……」
なにが琴線に触れるか分からないので、私はとにかくキーワードと思われるものをまくしたてた。実際にいくつかの言葉は心に引っかかったようで、セラスは葛藤するように眉根を寄せ、唇を引き結びながらも、拒絶や逃走の素振りは見せなかった。
「近くにカラオケボックスがあるので、ちょっとそこで。あんまり時間は取らせませんから」
密室であること、歌い手が通い慣れていそうな場所ということで、あらかじめ目星をつけていた店に誘導する。彼女は黙ったまま、わずかに頷いて応諾の意を示した。




