-8- トゥチョ・トゥチョ
紅衣のメサイアをはじめて聞いて以降、私は自分が段々と神経質になっていくのを感じていた。時々あのメロディが脳裏に蘇ってきて、それを別のなにかで振り払うということを繰り返した。
一度ならず、外出先で紅衣のメサイアを聞いた気がして、その音源を突き止めたい衝動に駆られた。熱心なシープスとは違う意味で、私も紅衣のメサイアに取りつかれ続けているのだ。
ゴールデンウィークまであと数日。まだ薄闇に包まれている住宅街。私は一階にある自室で普段通り寝床についていた。そのときは深く眠り込んでおり、夢も見ていなかったように思う。
飛び起きることになったのは、突然、外に面するガラス戸の向こうから激しい鳴き声が響いてきたからだ。私はベッドの上で動悸を鎮めつつ、何事かと思って耳を澄ませた。
鳴き声は猫のものだった。同時に悪態をつくような男の声も聞こえた。ガラス戸の向こうは我が家の敷地だ。常識的に考えれば泥棒かなにかだろうが、神経質になっている私には、もっと特別な意図を持った侵入者であるように感じられた。
プロジェクトメサイアに近づきすぎた者に対する警告か、あるいはもっと直接的な制裁か。もしそうならば遠慮は要らない。ぶん殴って追い返してやる。
争うような音は数秒続いた。妙にテンションの上がった私はベッドから降り、ジャージ姿のままカーテンとガラス戸を開け放った。
夜明け前の空気が部屋に流れ込み、街灯の光が狭い庭先を照らす。視界の端を、走って逃げていく侵入者の姿が掠めた。靴を履いていれば追っていたかもしれないが、あいにく今は靴下すら履いていない。玄関に回ってからでは到底間に合わないだろう。
さすがに未明の住宅街を裸足で疾走するほど大胆でない私は、追跡を諦めて侵入者を見逃した。
ガラス戸を開けた状態でしばらく佇んでいると、男が逃げていった方角から小さな黒い影が近づいてくるのが見えた。それはにゃおう、と鳴いて、黄色い眼をきらりと煌めかせた。
「左近?」
にゃおう。
私は足元に寄ってきた彼を抱え上げて中に入れ、部屋の電気を点けた。先程まで侵入者と喧嘩していたらしいその若い黒猫は、今やすっかりくつろいだ様子で床に座り、小さな前脚でしきりに顔を拭っていた。
「追い払ってくれたの? ありがとうね」
私が彼の首筋を撫でると、指先にぬるりとしたものが触れる。血だ。
「うわ、怪我してる?」
しかし左近が痛がっている様子はない。傷があるわけでもないようだ。とすると、これは返り血か。ちょっとやり過ぎな感はするが、私も侵入者をぶん殴るつもりでいたので、あまり彼を責められそうにない。
湿ったタオルで左近の身体を拭い、ストックしていた猫用おやつを与えると、彼はそれをうまそうにたいらげたあと、明け方の住宅街に消えていった。
私は得意げに揺れる黒い尾を見送ってからベッドに戻ったが、万が一であの男が戻ってきはしないかと考えてしまい、結局寝直すことができなかった。
*
「そういえば僕のところもなんだか騒がしかったね」
古書堂に出勤した私は、明け方にあった出来事を古戸さんに話した。カウンターの上には、ついさっき宅配で届いた段ボール箱が置かれている。中身はセラスの瞳だ。
「こんなもの頼んだから住所が割れたんですよ」
「そうだねえ」
カッターを使って梱包を解く。緩衝材に埋もれた瞳は、先日オフ会で見たそれと、微妙に違う形をしているような気がした。
シルエットは歪なようでいて、頂点の数が全て異なる多角形を緻密に嵌め合わせて造られているようだ。古戸さんはそういうことが幾何学的に不可能なのではないかと気にしていたが、私にはよく分からない。
「一つ一つ手作りなんですかね。素材もよくわからないし……」
爪の先で弾いてみる。プラスチックの硬さではない。重さからしてもなんらかの鉱物のように思える。黒曜石ではなさそうだが、私の知識では鑑定できない。謎の石だ。
分かるのは、セラスの瞳が強烈な気配を放っているということ。その表面を撫でてみれば、ヒビのように見えるのは亀裂でなく、その部分だけ透明になっているだけであることも判明した。その奥から覗く赤い光を眺めていると、こちらも見つめられているような錯覚に陥る。
錯覚。本当にそうだろうか。事実なにか得体の知れない存在が、私の目や、思考や、さらに奥底にあるものを凝視し、見透かそうとしているのではないか。私は名状しがたいなんらかの存在に自分の魂を晒し、開いてはいけない通路を開いてしまっているのではないだろうか。
長く見ていてはいけないと思いつつ、セラスの瞳から視線を剥がすのには強い意志を必要とした。気を抜くと、ぼんやりといつまでも眺めそうになってしまう。
「嫌な気分ですね」
セラスの瞳から無理やり目を逸らし、私は言った。
「玄関先に置いといたら、宅配の人がちょっとびっくりしそうだね」
「捨てませんか?」
「せっかく買ったのに?」
「大体これがファングッズって意味不明ですよ」
「意味ねえ……。素材とか造形に対して値段はお手ごろだし、お金儲けの手段でないのは間違いなさそうだ。メサイアプロジェクトにとって、これを頒布することにどういうメリットがあるのか……」
そう言って、古戸さんも瞳に顔を近づけ、ひび割れの中をまじまじと見つめた。どのような感覚を抱いたのか彼は口にしなかったが、その瞳孔に反射する赤い光は、私が直接目にしたときよりも不気味だった。
そんな風にセラスの瞳を見たり見なかったりしていると、表の方でなにか騒がしい声が聞こえてきた。朝方のことも記憶に新しかった私は、また神経がキリキリと張りつめるのを感じた。
「見てきます」
表に出て確かめてみれば、道路から少し敷地に入った部分で男女が言い争っていた。女性の方は知っている人間だ。表向きは大学生。裏の顔はサタン討滅に使命を燃やす秘密結社員。ヴェロニカ・フランチェスカ。
男性の方には見覚えがない。痩せた小柄な男性。スキンヘッドで、肌は浅黒く、顔立ちは日本人離れしている。
「そこでなにをしていたんですか?」
ヴェラが強い口調で男に尋ねる。男はなにも答えず、この場を立ち去るつもりのようだ。
「待ちなさい」
すれ違おうとする男の肩をヴェラが掴む。男はそれを振り払うようにして身をよじり、商店街の方向へと駆け出した。随分と無礼な態度だ。
「チッ」
ヴェラが憎々しそうに舌打ちするのが聞こえた。彼女に事情を聞くべきか、まずは不審な男を追跡するべきか。私は後者を選びかけて、咄嗟に足を止めた。ヴェラが腰のあたりに手を伸ばし、黒く無骨な道具を構えるのが見えたからだ。
洋画で聞いたような罵りの文句とともに、引き金に指がかけられる。
「ちょっ」
私は背後からヴェラに組みつき、拳銃の握られた腕を確保した。
「うちの近所で殺人事件は勘弁して」
「ちゃんとサプレッサーがついてますから大丈夫」
そういう問題ではない。私は逃げた男のことなどすっかり忘れ、ヴェラと拳銃を善良な市民の目から隠すため、彼女を店の中に引きずり込んだ。
「あれ、お客さんだった?」
カウンターに座ったままの古戸さんが呑気な声で言う。
「ほら、ヴェラ、落ち着いて。とりあえず座ろう」
落ち着いてと声をかけてみたものの、ヴェラは別に取り乱しているわけではなかった。私が手を離すと、彼女は銃の安全装置をかけ、それをカウンターの上に置いてから、ゆっくりとソファに腰かけた。
「大丈夫ですよ。人間相手に危険なことはしません。撃つのはサタンだけ」
私は彼女の顔を覗き込んだ。興奮している様子はない。しかしその目には刃物のように鋭い光があった。頬は以前会ったときよりもややこけているような気がする。ここ最近、彼女をピリつかせるなにかがあったのだろう。いくつか有力な心当たりはあるが、それはひとまず置いておくことにする。
「これは……」
ヴェラがセラスの瞳に目を向けた。
「気になるかな? ミス・フランチェスカ」
「ええ、まあ」
「僕らの事情もあとで説明してあげるから、まずなにがあったのか話してごらんよ」
「いいでしょう。元々、相談するつもりで来ましたから。……実は最近、私たちが目をつけているサタンの手先がいまして」
はじめから中々カロリーの高い言葉だ。私はカウンターに手をついて身を支えつつ、胃もたれを我慢して続きを聞く。
「東南アジアに住む特定の民族をルーツにしているらしいのですが、詳しいことは分かりません。ヤツらはしばしばトゥチョ・トゥチョ、あるいはチョー・チョーと呼ばれます。
アジアと北アメリカを中心に広い地域を活動範囲とし、マフィアや密輸組織といった犯罪集団とも深い関わりがあるとも聞きます」
「どういう系のカルトなのかな」
「少なくとも既存の宗教や哲学とは似ていません。崇拝対象の名前さえ不明確です。ただ、ヤツらはそれを〝外なる神〟と呼ぶことがあります」
「外なる神……なるほど、蕃神か」
古戸さんが感心したような声を上げた。
「バンシン?」
ヴェラが眉根を寄せた。
「蕃っていうのは異民族の、外国の、という意味だ。だから蕃神っていうのは外から来た神、異教の神、あるいは外宇宙の神、といったところかな」
「それで、フルドさんはバンシンに心当たりがあると」
「ある。といっても本体を知ってるわけじゃなくて、同じような名前を見たということなんだけど」
そこまで言われて私も思い出した。深淵の書に記された楽曲の一つに、同じ題名を持つものがあったはずだ。
「とりあえず続きをどうぞ、ミス・フランチェスカ」
「ええ。そのカルトに連なるグループの一つが、何か月か前に香港で摘発されました。しかし指導者の女性は当局の手を逃れ、秘かに日本へと入国したのです。ヤツらにとって重要なある遺物を持って」
そう言うと、彼女は再びセラスの瞳に目を遣った。
「これと……とてもよく似ています。なぜフルドさんが?」
「通販で買ったんだよ。税込み三八〇〇円で」
「はあ……」
「まあ、そのカルトが持ってた遺物のレプリカなんだろう。で、その指導者の名前はなんというのかな」
「リウ、と呼ばれています」
古戸さんも薄々感づいて水を向けたのだろう。私もその名前を憶えていた。オフ会当日、無名都市さんがマネージャーLのことをリウと呼んでいた。
「私たちはここ数か月リウの足跡を追ってきたのですが、ごく最近、さるアーティストの活動に関わっていることを知りました」
「セラスとメサイアプロジェクトのことだね」
「やっぱり知っていましたか。ユウコは同志でもありますし、ライターとして市井の噂でも入手していないかと思って相談に来ましたが」
香港にいたトゥチョ・トゥチョだかチョー・チョーだかのカルト指導者が日本に渡り、メサイアプロジェクトの中核メンバーとして活動している。
昔から夢だった音楽業界で心機一転、というわけではないだろう。彼女らが崇拝する外なる神を広めるために、セラスを利用していると考えるのが自然だった。
「先程外にいた男もサタンの……、もといトゥチョ・トゥチョでしょう。射殺できなかったのは残念でした。あとで家の周りをチェックした方がいいですよ。なにか細工されたかもしれません。
この黒いオブジェも早く捨てろと言いたいところですが、きっとそれなりの背景があるのでしょうね?」
「まあ、一応」
ヴェラが抱えている事情を大まかに把握した私たちは、彼女の求めに応じてこちら側の経緯を話して聞かせた。フカブチと名乗る妙な男に金属の本を渡されたこと。それに載っていた楽曲がインターネット上で配信されていたこと。
その楽曲が持つ妙な力に知人が影響されてしまったこと。そこからメサイアプロジェクトに関わる決心をして、歌い手のルーツとなったライブハウスに赴いたり、ファンの集いに潜り込んだりしたこと。
改めてまとめてみると中々にエキセントリックな経緯だ。しかしメサイアプロジェクトが邪悪な意図を持っているのではないかという私の考えは、結果としておおむね正しかったことになる。
自分でメサイアプロジェクトをどうこうしようという考えについては、依然として誇大妄想的だと言えるのかもしれないが。
なにせ、相手は国際的なカルトの指導者かもしれないのだ。普通なら多少オカルトに強かろうが取材力があろうが関わるべき相手ではない。
とはいえ公権力に頼ろうとしたところで、どうやってその脅威を説明できるだろう? 彼女らは音楽で人を操ろうとしているのですと訴えたところで、まともに取り合ってくれるはずもない。
ヴェラが所属しているような――おそらく平時は胡散臭いだけだと思われている――結社だけが、そういった特殊なカルトの危険性を十分に評価できるのだ。
「なるほど、なるほど。味方が沢山いるのは心強いですね。既にやる気も十分みたいですし」
話を聞き終えたヴェラは満足そうに頷いた。しかし依然としてその表情には油断なく周囲を窺うような雰囲気があり、彼女が神経過敏状態になっていることを強く示していた。
「サタンはすべて討滅しなくてはなりません。ここは是非とも、協力しあいましょう」




