表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
滴水古書堂の名状しがたき事件簿  作者: 黒崎江治
Last Episode 遥かなる祝祭
117/145

-3- 魔性の楽曲

 片倉君が紅衣のメサイアを弾きはじめる。緻密な手つきで奏でられたそれは、ノートパソコンのスピーカーを通して聴いたものより数段美しく、そして強力だった。


 決して深く聴き入る気持ちはなく、それどころか拒否感さえ抱いていたにも関わらず、私はすっかり引き込まれ、すべての知覚が曲に集中していくのを感じた。音が渦を巻き、空間を満たし、肌を震わせ、肉体に染みとおっていく。


 私は演奏を止めさせようと思ったが、その意図は行動となる前に脳裏から追いやられてしまった。自分の内と外の境界が曖昧になり、精神が茫洋としたなにかに吸い取られていくような感じがした。


 私は束の間忘我の状態に陥り、小さく歌詞を紡ぐ片倉君の口元を、食い入るように見つめていることしかできなかった。


 とはいえ、それになにか問題があるのだろうか? 美しい音楽にただひたすら耳を傾けるという行為を、敢えて厭う理由などないではないか。ささいな違和感や心配事などに煩わされず、ただ曲に意識を委ねれば――


 突然、聞いたことのないような声が響き、私は正気を取り戻した。右近と左近が激しく鳴いたのだ。きょうだいはそれまでも低く唸っていたが、私は紅衣のメサイアに没頭するあまり、気に留めていなかった。


 うおう、うおう、という猫にあるまじき鳴き声を上げながら、二匹は片倉君の股間に頭から突進した。両手が塞がっていた彼は避けることも守ることもバランスを保つこともできず、ヴィオラを抱えるように庇ったまま、うしろにある本の山に倒れ込んだ。


 音楽が止む。


「なるほど、感受性の強い人間がハマるとこうなるんだね」


 古戸さんが呟いた。


 私はなおも片倉君にのしかかろうとする右近と左近を除けつつ、彼を助け起こした。手に持ったままのヴィオラをさりげなく引き離し、その正気を――自分が陥っていた状態は棚に上げて――確かめる。


「片倉君、大丈夫?」


「え? ええ、まあ」


「今、自分がどういう状態だったか分かる?」


「…………」


 彼は質問の意図が分からない、というような表情でこちらを見返した。


「なにかこう、トランスっていうか、催眠状態に入ってなかった?」


「本人にそれを聞いても無駄じゃないかな」


 横やりを入れられ、私はややむっとしながら尋ねる。


「古戸さんだって変な感じがしたんじゃないですか」


「まあねえ。非常に興味深くはある」


「興味深いって……」


「少なくとも、命や健康に関わるようなものではない。片倉君は紅衣のメサイアを何度も聞いてるはずだけど、今のところ痩せたり枯れたりはしてない」


「そういう問題なんですか? それにしたってちょっと……異常ですよ。片倉君の様子、見てましたよね? 熱中とか依存とかいうレベルじゃなくて、もっとこう、有害な感じのものだと思うんですけど」


 そこまで言ってから私はちらりと片倉君の方を窺ったが、彼は聞いているのかいないのか、ごく薄い反応しか見せない。


「ほら、こんなにぼんやりして。メサイアだかなんだか知らないですけど、ネットで野放しにしといていいもんじゃないです」


「かといって、どうにかなるもんでもないだろう」


「なんとかして配信を停止させるとか……」


「僕らはなんの権利もないのに?」


「せめて片倉君を元に戻さないと」


「心理療法をしたいならどうぞっと感じだけど……。楠田さん、ちょっと興奮し過ぎてるよ。多分曲の影響だ」


「とにかく――」


 声を荒げかけたとき、腰のあたりに右近か左近の毛皮が触れるのを感じた。確かに興奮しすぎたと気づいた私は、心を鎮めるために大きく息を吐いた。


「……すいません。ちょっと落ち着きます」


「それがいい。僕も別に、放っておけと言ってるわけじゃない」


 古戸さんが三人分のコーヒーを淹れている間、私はまだぼんやりしている片倉君の様子を窺いながら、今しがた聴いた紅衣のメサイアが一体どういうものなのか、ぐるぐると考えていた。


 紅衣のメサイアは特別な楽曲だ。これは間違いない。ではどう特別かというと、そう簡単には答えられない。卓越した才能を持つ超一流のアーティストが作った、という意味での特別ではない気がする。


 紅衣のメサイアは人の心を動かす。しかしそれはおそらく、一般的な音楽と同じプロセスを辿らない。もっとずっと直接的に、強制的に、ある感情を呼び起こすのだ。個人差はあるにせよ、たとえば弛緩、平穏、恍惚、解放、といった種類のもの。そして人によっては、楽曲の作用に対する反発、混乱、興奮。


 あのまま聴き続けたら、私はどうなっていただろう? すっかり虜になっていたか、あるいは混乱してその場から逃げ出していたか。


 私は傍らの片倉君に目を遣り、そのふるまいと精神状態にも思いを巡らせた。彼の布教行為は曲の影響を受けてのことだったのだろうが、それはほかの人間が紅衣のメサイアを聴いた場合も、同じように起こるのだろうか。


 戸別に訪問して演奏してみせるという方法でなくとも、路上で歌い出すとか、校内放送で流してみるとか、動画サイトやSNSに転載するとか。拡散しようと思えば手段はいくらでも考えつく。


 それから無視できないのが、深淵の書にあった赤の女王と紅衣のメサイアが類似している、という古戸さんの指摘だ。この符合はなにを意味しているのだろう? 私はどこか底知れない、不気味な意思の存在を意識する。


「僕の印象としては、暗示とか、ある種の瞑想法とか、違法薬物に近いかな」


 古戸さんが危なっかしい手つきでマグカップを運んできて、こたつの上に置いた。


「私もそう思います。ちなみに、古戸さんはどう感じたんですか」


「僕? 敢えて表現するなら、どんどん人間離れしていけるような気がしたよ」


「……うーん?」


「それは置いておいてもう一つ。これは仮説だけれど、紅衣のメサイアは、それ自体を他者に伝え、共有するという社会的な行動を促進するのではないかと思う。いくらコンテンツが魅惑的であっても、伝播しないままでは社会的なインパクトを持てない。


 このSNS全盛の時代とはいえ、知名度ゼロの状態から二か月で二億再生というのは、かなり特異な出来事といっていいだろう」


 少なくとも私と古戸さんが紅衣のメサイアから受けた印象や、それに基づいた考察は、かなりの部分似通っているように思えた。とすればそれが普遍的な効果であると考えても、大きな間違いではないのかもしれない。


 紅衣のメサイアは人の感情や行動に直接的な作用を及ぼす。


「人の行動にまで影響するっていうのは、かなりの害じゃないですか」


「ほかの人に布教するだけなら大したことはないけど、ある集団を排斥しろとか、なにかしらの破壊活動をしろ、みたいなことになると確かに社会的な害がある」


「紅衣のメサイアがなにかしらの行動を促進するとして、あの歌詞が具体的なメッセージになってるってことなんでしょうか」


「歌詞かもしれないし、メロディかもしれないし、二つの組み合わせかもしれない。……さて片倉君、そろそろ気分はどうかな」


「ええと……はい。すみません、少し体調が悪くて。ぼーっとしちゃってました」


「体調、体調。まあ、そういうことにしておこう」


 セラスについて語りはじめたときに比べると、彼の雰囲気は自然なものになっていた。とはいえ、きっとすっかり元通りになったわけではないだろう。セラスは依然として彼の中におり、気力が充実したところでまた顔を出そうとしているのだ。


「前に変な夢のこともあったじゃないですか。それと同じ種類のものだと思うんですよね。やっぱり気持ち悪いですよ」


 私は言った。


「また安那さんにでも相談してみる?」


「そうしてみようと思います」


 オカルトブログの運営者やライターとして活躍している安那さんは、内に籠りがちな私や古戸さんに比べて世情に明るい。昨今インターネットで流行し、若者を惑わすいかがわしい楽曲についても、なにか知っているかもしれない。


「古戸さんはどうします?」


「今回は僕もつきあうよ。せっかくフカブチさんが興味深いものを提供してくれたわけだし、面倒臭がるのも申し訳ない。片倉君の心配もあるしね」


 珍しく優しい態度だ。同じ文化系男子としてのシンパシーだろうか。


「安那さんもきっと喜びますよ」


 コーヒーを啜って気持ちを整えつつ、これからのことについて頭の中で計画を立てる。黒猫のきょうだいをひとしきり撫でて心の平穏を取り戻した私は、片倉君を残して古書堂をあとにした。


 自覚するのはもう少し先になってからだが、このとき既に、私は紅衣のメサイアの虜になっていたように思う。


 それを好ましく思い、強く愛するというのではなく、不審と嫌悪を抱きながらも頭から締め出すことができず、ねじれたやり方で関わろうとする薄暗い執着が、私の心に根を張りはじめていた。


 それを示すように、帰路につく私の脳裏にはあの魔性の旋律と、片倉君の口ずさんだ歌が、まとわりつくようにリフレインしていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ