赤い鎖 ~Novel by Musubu Tsushima~
「むらさき創作小説賞」への提出作品です。
村崎紗月様の『赤い鎖』を元に書かせていただきました。
村崎紗月様:『赤い鎖』
https://ncode.syosetu.com/n8431ec/
詳しくは僕の活動報告へお越しください。
https://syosetu.com/userblogmanage/view/blogkey/1903294/
追記:主催者の村崎紗月様から佳作との評価をいただきました!
「もし私が死んだら、君はどうする?」
ある日の夕方、あの子がぶらんこを揺らしながら僕に尋ねた。
僕は突然の問いに、つい自分のぶらんこを止めてしまう。
「どうするって、何をいきなり」
すると彼女は口元を緩やかにほほえませ、そっと目をそらした。
「うーん、どうしてだろうね」
僕はこのとき、彼女の意を汲み取ろうとしたが、何も分らなかった。だから答えも無骨なものになってしまった。
「あそこで首を吊って、君を追いかけようかな」と僕は正面にある滑り台を指差す。
「あれで?」
「うん」
僕達は数秒間、頓狂な調子で顔を見合わせた。
「ははは、それは駄目だよ。公園は公共の施設なんだから」と彼女は肩をすくめて小さく笑う。
そして彼女は手を銀のネックレスに優しく添えて続けた。
「死なないように、頑張るね」
*
あの子が死んだのは、その三日後だった。
僕が買い物の帰りがけにあの子の家へ立ち寄ろうとしていたところ、彼女が目の前に落ちてきた。彼女はアパートの三階にある自室から、飛び降りたのだ。
僕はあの子が命を落とす瞬間を今でもはっきり覚えている。狂的に血走った瞳、それが溶けて生成されたかのような赤い涙、そしてあの子の大切にしていた銀のネックレス。それらが地に叩きつけられた瞬間、僕の見える世界は実に醜いものへと変容した。
どうして彼女は死ななければならなかったのか。なぜ僕の目の前で死んだのか。夕焼けの下で唐突に発せられた彼女の質問と関連性はあるのか。僕と死んだ彼女との間には、多くの謎が残された。後に彼女の知人から話を聞いてみたが、僕の知りたいことが明らかになることはなかった。
あの子のネックレスは形見として僕が持つことになった。少し血がこびり付いてしまっているが、絶対に彼女のことを忘れることがないように、肌身離さず持ち歩くと決めた。
あの子が死んでからしばらく経っても、僕の心に吊り下げられた重りが軽くなることはなかった。
ある日の夕暮れ時、僕が買い物をしにコンビニへ行くと、客が店員にクレームをつけている場面に遭遇した。どうやら賞味期限切れの商品が棚に並べれれたままになっていることに怒っているらしい。
執拗に怒鳴り散らすオヤジと熱心に謝罪する若い男の店員さん。くだらない。指摘するだけで済むことだというのに、なぜこうもベラベラ声を荒げたいと思うのか。店員さんも酷くまいっている様子だった。
しかし騒ぎが収まってから僕がレジに並ぶと、クレームを受けていた店員さんは屈託のない笑顔で接客してくれた。まるでさっきまで気の毒そうな表情で謝罪していた店員さんとは別人のようだった。
僕は少し複雑な気持ちで店を出た。
なぜ世の中には、簡単に変われる人間と、そうでない人間がいるのだろう。あの店員さんはきっと前者だ。嫌なことがあったとしても、それはそれとして気持ちを切り替えることのできる人間だ。そしてあのオヤジは後者だ。嫌なことがあれば、過去や他人のせいにして、自分は変わるまいと腰を重く座っている。
僕は、後者か。いつまでもあの子のことを引きずっている。変わりたい、けれど変われない。どうして――。
もの思いに耽りながら歩いていると、あの公園を通りかかった。あの子が死ぬ三日前、彼女と奇妙な会話をした場所だ。
同時に、残された数々の疑問が思い出される。なぜ僕の目の前で死ななければならなかったのか。なぜあのとき、彼女はあんな質問をしたのか。
「死のうかな」と僕は公園の滑り台を眺め、ぽつりと呟いた。
滑り台に歩み寄りながら血のこびり付いたネックレスを取り出す。死ねば、あの子の気持ちが分かるかもしれない。
滑り台を下から見上げると、頂上の柵が一本だけ中途半端に壊れてしまっているのに気付いた。
僕はその壊れた柵に、あの子の形見を投げ掛ける。
そして僕は、彼女の質問に答えた通りにした。
この行為は正しいだろうか。
言葉にできないほど苦しい。
息ができない。
体から神経が抜けていくようだ。
駄目だ。
どうしてこんなことをしてしまったんだ。
これは駄目だ。何が駄目かは分からないけれど、大切なモノが失われる気がする。
頭がぼーっとしてきた。
苦しさももはや感じない。
体に力が入らない。
もう、駄目だ。もう――。
意識が完全に消えかけた瞬間、僕の全身に衝撃が走った。
酸素と血が一気に体を巡り廻るのを感じる。
「助かった、のか」
朦朧とした目で辺りを見回すと、傍にあの子のネックレスが落ちているのに気付いた。
手に取ると、繋ぎ目の部分がはち切れてしまっているのが分かった。
どうしてこんな粗末なことをしてしまったのだろう。大切にしようと思っていたのに。
結局何も分らなかった。ただ苦しいだけで、ただあの子の大切にしていたものを壊してしまっただけで、僕の気持ちは、何も変わりはしなかった。
僕はネックレスを手に、力なく立ち上がると、おぼつかない足取りで、喪失感を残したまま帰路についた。
翌朝、その公園で首吊死体が発見された。僕でない別の誰かの死体だ。
忌まわしき偶然だ。昨日僕はそこで死のうとし、未明に別の誰かが本当に死んだ。まるで死に損なった僕が公園に呪いをかけ、それに関係のない他人を巻き込んでしまったようだ。
現場に集まっていた野次馬の話を耳にしたところ、死んだのはコンビニでバイトをしていた若い男性だという。
僕は先日クレーム対応していた店員さんを思い浮かべた。しかし、自殺した人物がその店員さんだとは到底思えなかった。あんな素敵な笑顔を見せてくれる人が自殺するはずなんて――。
ふと思い描いた店員さんとあの子の表情が重なる。
――いや、笑う人が不幸せでないとは、限らないよね。
*
その夕暮れ時、僕はまたコンビニへやって来た。特に買いたいものはなかったが、あの若い男の店員さんが生きているか確かめたかったのだ。
レジに彼はいなかった。そこには小太りであるが人の良さそうな中年の女性だけが立っている。
彼が生きているかどうかは、僕にほとんど影響を与えないし、関係すらもない。だが、なぜか気になった。生きていて欲しいと願っていた。
その願いは意外にもあっさり叶った。店の奥に足を進めると、彼は食品売り場の棚を丁寧に整えていた。彼は僕に気付くと、「いらっしゃいませ」と笑顔で言ってくれた。僕は口を緩めて、小さくお辞儀をした。
二リットルのコーラとポテトチップスの入った袋を片手に帰る途中、僕は例の公園の前で足を止めた。さすがに野次馬は去ってしまっている。自殺に使用された滑り台は黄色いテープでぐるぐる巻きにされている。
僕は、滑り台も死んでしまったんだな、と思った。子どもに使われることのなくなった滑り台の死体は、今も生きているぶらんこ、シーソー、そしてベンチに見守られている。僕の目にはそのように映った。
ポケットからはち切れたネックレスを取り出す。思えば、ここでよく彼女に歌を聞かせたものだな。
下手なギターの演奏に合わせた下手な歌だったけれども、彼女は「勇気を貰える」と褒めてくれた。そのとき、僕はこれまでにないほどの幸せを感じた。承認欲求が満たされたから、というわけではない。
僕が嬉しくて、幸せを感じたのは――あの子の役に立てたからだ。
このとき、僕の心を締め付けていた鎖が砕け散った。
僕は自宅へ走り出す。袋の中にコーラが入っていることなどすっかり忘れて。
僕のするべきことが分かった。いや、正確には違う。僕が分かったのは、今僕にできるたった一つの行動だ。
*
空はすっかりと暗くなっていた。大通りでは多くの車が行き交い、多くの住宅からは夕飯を食べる家族の声が聞こえてくる。
僕は公園のベンチに座り、ギターのチューニングを行っていた。
ソフトなピックで、一弦一弦丁寧に音を整える。
一通りチューニングを終えると、撫でるように和音を奏でた。
大きく息を吸って、ゆっくり吐き出す。
「よし、歌うか」と僕は呟き、優しい声で歌い出した。
僕には、あの子が死ななければならなかった理由が分からない。きっとこれからもそうだ。
彼女はずっと辛い思いをしてきたのだろう。笑顔でそれを隠しながら、僕の知らないところで。
今は僕が辛い。彼女がいなくなって、忘れられなくて、虚しくて。
だけどそれが、僕も死んでいい理由であるはずがない。
もちろん彼女もそうだ。見知らぬ自殺した男性だってそうだ。
あの子はあのとき、「死なないように、頑張るね」と言った。それじゃ駄目なんだ。
僕らは今を必死に生きるべきなんだ。死にたくない、死なないように頑張る――違う。必死に生きたいんだ。
昨日は死のうとしたけれど、今はそうじゃない。分かったんだ。
僕らに生きる余地が少しでもある限り、僕らは生き続けるべきなんだ。
あの笑顔の店員さんは生きる余地がある。ここのぶらんこやシーソー、ベンチも生きる余地がある。そして、僕も生きる余地がある。
たとえ過去や未来が真っ黒で、辛いことがたくさん降りかかってきたとしても、僕は、勇気をもって足掻いてみせよう。
僕の歌があの子に与えたように、誰かに勇気を与えられることを信じて。
「はあ……」と僕はギターを抱えたまま項垂れる。
ちょっと一生懸命に歌いすぎたかな。疲れてしまった。
すると、穏やかな女性の声が聞こえてきた。
「良い歌ですね。勇気を貰いました」
僕はハッとして顔を上げる。
そこには、赤い花束を携えた若い女性が立っていた。