入浴に魔道具は欠かせない 後編
命に別状がないことが分かっても、これ以上みんなお祝いをしようという雰囲気ではなく、キリカと共に家に帰ることになった。イサラはなかなか目覚めず、その間キリカは考え続けていた。一体何が悪かったのか、どうしてこんなことになったのかと。
元々は魔術に関して疎いキリカだったが、イサラを育てる過程でいっぱしには詳しくなっていた。そこで一つだけ思い当たることがあった。
イサラはお湯につかってああなった。だが、公衆浴場は誰もが利用する場所であり、あの日も入った人達はイサラ以外に誰も異常は出ていない。なら異常があるのはお風呂ではない、イサラ自身にあると。
魔術の訓練を続けていた時もそうだった。なぜか魔術が一切発動せず、他の人が使えば巻き込まれる始末。あの時もイサラに起きた異常は、イサラの特殊な体質にあることが分かった。イサラは自身の体質をこう説明していた。意識していなくても、周囲の魔力に自身の魔力が同調してしまう、と。
キリカはイサラがあちこちから集めていた本をあさり始める。想像はついていても確証がほしい。水をキーワードにイサラの体質と合わせるとある可能性が見えてくるのだ。
思い起こせばイサラはお風呂に入るといつも辛そうにしていた。あれは今回と同じようなことが起きていたからではないか。
そうして丸一日探し続け、キリカはついに見つけることができた。随分前にイサラに聞いたことがあり、うろ覚えだった知識。魔力が水に溶けること、水を媒介にして人の持つ魔力も水に溶け込む場合があることを。やはり、そうだったのだとキリカの推測は裏付けられた。
イサラがなぜ倒れ、それがなぜ魔力暴走によるものだと診断されたのか。イサラは無意識に周囲の魔力に同調してしまう。普段周囲にあるのは、世界に満ちる無色の魔力であるため、普通に生きているだけでは何の問題もない。
だが、誰かが魔術を使おうとするとイサラもその有色の魔力に同調し、自身の体で魔術を体現してしまうことになる。また、お湯につかることで当人達でさえ自覚のないまま水に溶け込んでしまった微量の魔力に、イサラは同調して反応してしまうのだと。
魔術の時と違って、その魔力は単一属性というわけではない。その人の魔力の形そのもの。個人で全く違う他人の魔力に合わせてしまうのだ、体調を崩して当然だ。体の中に他者の魔力という異物を取り込んでしまうのだから。
今まではずっと家のお風呂だったし、たいてい小さい子から入っていたためイサラの前にお風呂につかった人数は少なかった。一番風呂の時には決まって元気だった。
だが、大衆浴場は一日で何十、何百という人がお湯につかって、その人の魔力をお湯の中に残していく。お湯の中は入った人数分の魔力が渦巻く嵐のような状況だったのだろう。
そんな場所に、イサラを入れてしまったのだ。嵐の中に、何の備えも自覚もないままに放り込んでしまったのだ。結果、数十数百の異なる魔力の形がイサラの中でせめぎ合い、暴れ狂い、それが魔力暴走となって表れた。
うかつだったとキリカは自身を責める。イサラの体質を知った時にもっと調べておくべきだった。命に関わる重傷を何度も負ったのに、魔術にしか目を向けていなかった。いつも誰かの後にお風呂に入ると辛そうにしていたイサラを気にかけておくべきだった。知っておくべきだった。
キリカは激しい自己嫌悪に陥っていた。母親でありながら、仕事や子供達の世話に忙殺され、気づかなければならないことに気付けなかった。知らなければならないことを調べなかった。イサラがこうなった原因はキリカの怠慢のせいだ。そう考えた。
夫や子供達も慰めてくれたし、励ましてくれたがキリカの心は晴れなかった。あの時の、血を吐いてお湯に沈んでいったイサラの表情のない顔が忘れられなかった。二度とあんな顔をさせないと誓ったはずだったのに、それを守れなかった。
それまでは研究だ読書だ剣術だと、注意されても眠らず、ベッドに連れていかれても夜中にこっそり起きていたようなイサラが眠り続けている。そのことに大きな違和感を感じてしまう。ひょっとしてこのまま目覚めないのではないかとさえ思えた。
イサラは丸二日間眠り続け、キリカもまたほとんど眠ることなく看病し続けていた。限界に達してうつらうつらし始めた頃、イサラが目を覚ました。目を開けて体を起こし、キリカに不思議そうな顔を向けているイサラを見たとたん、キリカは自分が抑えられなくなった。
抱きしめたまま繰り返し言葉を紡ぐ。もっと早く気づけばよかったと、もっと早くに知っておけばよかったと。イサラは状況が分からずキョトンとしていたが、いつにないキリカの様子にキリカを抱きしめ返すと言った。
「キリカさんのせいではありません。薄々原因が分かっていたのに、浮かれて迂闊なことをしたわたしに責任があります。申し訳ありません、これ以上心配をかけたくなくて……でも、逆に迷惑をかけてしまいました」
と。その言葉にキリカは涙を流した。許されたことに喜んだからではない。危険性を自覚しながらもそれを忘れるほど、キリカ達との時間を楽しみにしていたこと。何度も危険な目にあってきてこれ以上心配させたくないと考えていたこと。迷惑をかけたと、イサラこそが自己嫌悪していたこと。
色々なことが混ざり合って、キリカは言葉にならない感情のままイサラを抱きしめ続けた。嬉しくて悲しくて辛くて、それでもキリカはイサラの言葉に救われたような気がした。
母親なのに子供の命の危険に気づけなかったキリカを責めたりしなかった。イサラの方に非があるのだと逆に謝ってきた。
これまでキリカはどこかでイサラに遠慮していた部分があった。イサラが他の子供達に比べてあまりにも早熟で優秀だったから。だからイサラは普通の子供みたいな失敗なんてしないと考えていた。なんでも一人でやってしまえるのだと。
けれどそうではなかった。イサラだって感情が表に出にくいだけで、普段はあまり目立たないだけで、普通の子供のような感情も年相応の無鉄砲さも持っていた。今回それに気づけたことで一層イサラを身近に感じた。愛おしさが増した。イサラには親も家族も必要で、そしてイサラ自身それを大切に思ってくれていることが分かったのだ。
さらに、イサラの悪癖ともいえる自分に対しての無頓着な部分も見えてきて、なお自分達が付いていなければと思わせた。イサラも、ここまでの騒ぎになったことで自身に何かあればキリカや家族を悲しませ迷惑をかけてしまうと学んだ。自分自身の体質も含め、その対処のために研究をすることを約束した。
といったような思い出話を並んでお湯に入りながらイサラは話して聞かせる。ティファナ家のお風呂も、公衆浴場ほどではないにしろ家族や使用人と大勢が使用する。それでもイサラの体に異変は見受けられない。身に付けている魔道具がイサラを守っているのだ。
「にしても不便だな、色々と。やっぱりリスクなくして大きな力は手に入らないよね」
「はい。ですが方法によってはそのリスクを軽減したり回避したりできますので」
「そうね。でもほんと波乱万丈ね、あなたの人生」
「そうでしょうか? 人それぞれに何かしらを乗り越えることで今があるわけですし。少なくともわたしはミール村での生活がなければよかったと思うことはありません」
「そっか……。そうね、そろそろ上がりましょう? のぼせるわ」
「はい」
三人は程よく温まったところでお湯から上がり、用意されたタオルで体をふくと寝間着に着替えた。長袖のネグリジュだ。質のいい布を使っているのか、肌触りがいい。イサラは髪が乾いていないため、タオルでしっかり拭いた後は下ろしたままにしている。
「やっぱり長いわね。櫛で梳いてもいい?」
「はい、お願いします:
シリルは櫛を片手に、イサラの髪を持ち上げる。
「うわ、なんだか髪じゃないみたい」
持ち上げた髪はさらさらというよりツルツルしており、色や光沢とも相まって流れる金属のように見えた。櫛で梳く意味があるのかどうかも分からないイサラの髪を一通り梳いてしまうと、シリルは自分の髪も梳く。
イサラの髪を触った後では、シリルの髪はなんだかごわごわしているように思えた。これでも同年代の女の子の中では綺麗な髪だと思っていただけに、上には上がいると思い知らされる。
「特別な手入れをしているのか?」
サーシャも女性なりに髪の毛には興味があるようで、イサラの髪を触っていた。
「いいえ、これと言って特に思い当たることはありません」
「ふぅん、眠らず食わずを繰り返している割には肌のつやもいいし、なんだか不公平だな」
シリルやサーシャがイサラと同じ真似をすれば、肌荒れや目のくまや髪艶が失われて見れたものじゃないだろう。イサラはいつも眠そうにしているところを除けば、常人以上に健康そうな様子に見える。
「そうですか? ただそういう生活に体が慣れてしまっただけだと思います」
何せそういう生活を続けて十五年だ。年期も入ろうというもの。そんなおかしな生活でも大丈夫なように、すっかり体の仕様が変わってしまっているのだ。
「それに、食べない寝ていない割には育ってるし……」
「背はそれほど変わらないかと思いますが?」
イサラは目線の位置がほとんど変わらないシリルを見る。しかし、シリルが言いたいのは背の話ではない。
「そっちじゃなくて……そっちよ」
シリルは仕方なくイサラの胸を指差す。そこまでしてようやくイサラも合点がいったようで、ぽんと手を打ち合わせた。
「ああ、胸のことでしたか。ですが、こちらの成長も人それぞれではないでしょうか? シイナさんは大きい方でしたし、シリルもきっとそのうち大きくなります」
「そうかしら? 十四の時から変わってないんだけど」
「……通説ですが、誰かにもんでもらうといいと聞いたことがあります。そういった方はいらっしゃらないのですか?」
「うっ、なっ、ななん、い、いるわけないじゃない。そんなことよりも勉強と剣術に必死だったし、そりゃいつか結婚したいとは思うけど、まだ先の話だし」
シリルは顔を真っ赤にして首をぶんぶんと振る。まさかイサラからこういう話題が出るとは思わなかったので、不意打ちを食らった。色恋沙汰には全く興味がないように見えていたからだ。
「そうですか。まあ、焦っても仕方ありません。どちらもその時が来るのを待つしかないのではないでしょうか?」
「そ、そうね。そうするわ」
この話題を打ち切りたくて、シリルは適当に相槌を打つ。
風呂から出てリビングに向かうと、レオル達はもう上がっていたようで風呂上がりの飲み物をもらって飲んでいた。イサラ達が入ってきたことに気付いた使用人は人数分の飲み物を用意してくれる。
「おっ、出たか。先にもらってるぜ」
三人の姿を見て、レオルが声を上げる。それでティムやジェイドもイサラ達の方を向いた。レオル達も長袖のチュニックにゆったりとしたズボンというリラックススタイルだ。ジェイドはイサラのネグリジュ姿を見たとたん硬直した。みるみる顔が赤くなっていく。
「いっ、イサラさん。す、素敵です」
ラフな格好をしているところも、髪を下ろしているところも初めて見たため、胸の動悸がおさまらないジェイド。異性としての好意ではないとはいえ、ジェイドも男だ。魅力的な姿にドキドキするのは仕方ない。
「ありがとうございます。髪が長いと乾くのに時間がかかりますね」
「伸びたもんな、切らないのか?」
「そうですね、そろそろ切ってもいいかと思うのですが、フィオナが許してくれるかどうか」
「ああ、ちょっとは女らしくしろって言って、バッサリ切ることには反対してたんだっけか」
元は切るのが面倒で伸ばしていたが、化粧やおしゃれに興味のないイサラが少しでも女らしく見えるよう、フィオナが髪くらいは長くしていろと言っているのだ。
「毛先をそろえるくらいならいいんじゃない? 使用人の中にうまい子がいるから頼んでみるわ」
シリルはそう言ってリビングから出ていく。イサラはソファに座って用意された飲み物を口にした。
ティムは風呂に入る前には見られなかったイサラの身に付けている魔道具に視線を向けている。
「やはりそれらの魔道具は周囲の魔力から君を守るために身に付けているのかい?」
ティムやジェイドもまた、お風呂の中でイサラの過去の事故を聞いていた。公衆浴場以来の広い風呂に、レオルの記憶も呼び起こされたためだ。
「それだけというわけではありません。指輪は魔術を使用するためのものですし、いくつかの装飾品に関しては武器や防具をこれらの中に収納しております。それなら何かあってもすぐに対処できますので」
「何だって、そんなことが……いや、君ならできるのか。ヤックをあんな風に変化させられるなら」
ティムはかつて見たヤックの驚くべき機能を思い出していた。あんな風に収納機能や変化機能を付けられるなら、その他の防具や武器にも同じことができるだろう。用心深いというより、イサラにとっては当然の自衛手段なのだろう。
イサラは自身の弱点も、また自身の持つ知識や技術の重要性も知っている。ティムだって同じような立場ならそれらを守るために考えうる限りの対策を取るはずだから。
そうこうしてるうち、シリルが一人の女性を連れて帰ってきた。メイドの服を着ており、二十代半ばくらいの可愛らしい顔立ちをした女性だ。
「彼女はカミルよ。理容師の資格を持っているの。この家ではみんなの理髪をしてもらっているのよ」
シリルが紹介して、カミルは手際よく理髪の準備を整えていく。敷物を敷き、カートに乗せた道具を取り出す。鋏に、串に、髪留め、霧吹きもある。
カミルはイサラを敷物の上に立たせた。普段は座ってもらって切るが、イサラの髪は長いためそれでは地面に髪の先がついてしまう。立ってもらわないとそろえることが難しい。
イサラは素直に指示に従う。膝裏近くまである髪は、ある程度長さはそろっているものの、毛先はまちまちだ。放っておいたのだから無理もない。カミルは髪を梳きながら、どれくらいにそろえるのか目算する。
「十cmほど切ります。よろしいですか?」
「はい、お願いします」
そろえるだけと聞いていたので、最低限整えられる長さを提示すると、イサラは快く了承する。もともと髪にはそこまで執着がない。売ればお金になりそうな髪質と色だけにシリルの方が惜しく思う。
カミルは鋏と櫛を手際よく動かしてイサラの髪を切っていく。風呂上がりでまだ濡れているということもあるが、元々の髪質もあり、切られた髪は散らばることなく、するすると敷物の上に落ちていく。
「……きれいな髪ですね。今までいろいろな方の髪を整えてきましたが、初めてです。これ程美しい髪質は」
「そうですか? ありがとうございます」
興味がないことにはとことん淡白なイサラだ。褒められても喜ぶべきことかどうか迷い、とりあえずお礼をいう。
ばらけたり跳ねたりすることがないため、理髪は思っていたよりもずっと早くに終了した。敷物の上には切られたイサラの銀髪がうねっている。今は太ももの半ばくらいに切りそろえられていた。
「なんだか少し軽くなったように思います。ありがとうございました」
イサラは髪を少し持ち上げて、カミルに声をかける。
「いいえ、こちらこそ滅多にない上質な髪を整えることができて光栄です。切った髪ですが処分はどうなさいますか?」
人や人種、地域によっては切られた髪や爪もまたその人の一部と考え、しかるべき処理をすることがある。理容師の資格を持つカミルはそのことを知っていたためあえて聞く。
「そうですね、この場で処分してもよろしいでしょうか?」
イサラも自身の髪に執着があるわけではないが、人の髪が様々な呪いや魔獣に使用できることを知っているためこの場での処分を希望する。シリルは少しもったいなさそうな顔をしたが、彼女もまた同じことを知っているため何も言わない。
「はい、どうぞ」
カミルからの許可も下りたので、イサラは身に付けていた魔道具の一つに魔力を込める。
「カリムの指輪『火』起動、対象はわたしより切り離された髪、燃やし尽くしてください」
右手の中指に付けていた指輪から炎が舞い上がると、一直線に敷物の上の髪に向かう。そして、イサラの切られた髪だけを燃やし尽くすとふっと消えた。髪を乗せていた敷物には焦げ跡一つない。
カミルは少し目を丸くしていたが、優秀な人らしく何も言わずに敷物を片付けて道具をまとめ部屋を出ていった。




