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創世の書  作者: マリヤ
第一章 赤の書
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戦いへの意思と覚悟

 原因はたった一個の小石だった。軸足で最も体重のかかる親指の付け根で小石を踏みつけ、そのせいでバランスを崩す。

 とはいえ、小石程度なので冷静になればすぐに体勢を立て直せたはずだった。しかし、勝利を確信したことによる油断が一瞬の隙を広げてしまった。

 シリルは頭が真っ白になり、目の前に相手がいるという状況で無意識に剣を振ってしまった。崩れた体勢とずれたタイミングで振られた剣はあっさりと相手に避けられ、逃れようもない隙をさらしてしまう。


 シリルの頬を冷たい汗が滑り落ちた。劣勢を強いられ、耐え続けていた相手がその隙を見逃してくれるはずがない。

 しまった! と、己の失態に青くなった時には、相手の剣がシリルの銅をバッサリと薙いでいた。背筋が凍るような感覚が体を通り過ぎる。

 シリルは体から力が抜けて、膝から地面に座り込んでしまった。


「そこまで!」

 試験官による静止の声がかかる。シリルの中では、負けた……という意識より、実戦なら死んでいたという恐怖の方が全身を支配していた。

「シリル!」

 ティムが立ち上がって駆け出す。顔色は真っ青になっていた。サーシャも続く。試験で使用される武器は幻想武器だ。実態を持たず、使用者のイメージで形作られる。


 本来は二十cmほどの長さの、剣の柄の部分だけの棒だ。しかし、イメージと共に魔力を込めて握るとその形を取るように設計されている。一度形作られると消さない限り調整や変更はできないので不正もできない。消すイメージでもう一度魔力を流すと消える仕様だ。

 幻想武器はその質量や重量も再現できるので、使い慣れた武器で試合ができる。しかも、幻想武器同士では打ち合いが可能だ。さすがに剣戟の音までは再現できないが、限りなく実戦に近い形が取れる。そして、人の体や物など実体があるものは傷つけることができない。


 先ほども、剣はシリルの胴をすり抜けただけで、傷を負

っているわけではない。試験に幻想武器を使うようになったのは、ここ数百年の間だ。存分に実力を発揮しつつ、試験や試合の安全性を確保するために。

 それまでは試験に合格したとしても、怪我人が続出し後遺症が残るケースもあった。試験のせいで剣が握れなくなるという本末転倒まで起きた。さらに、死者が出て試験としての体を為さなくなったことがあげられる。


 二人の師に付き添われ、支えられて帰ってきたシリルはまだ呆然としていた。無意識にお腹を押さえている。負けたことよりも切られたショックの方が大きかった。

 才能もあり努力も重ねてきたからか、シリルは今まであれほど見事に負けたことはなかった。幻想武器が体を掠ることがあっても、致命傷を負うような切られ方をしたことはない。

「……悪い癖が出たな」


 サーシャはそれだけを言った。追い打ちをかけるようだが、これはシリルのために必要なことだ。終わってみるまで勝負は分からない。勝気は大事だが、勝負の最中に勝利を確信してはならない。

 何度も言い聞かせてきたことだ。それなのにこの結果、本当には理解していなかったのだろうとサーシャは自身の指導不足を悔やむ。シリルがまだ若いこともある、経験も圧倒的に足りない。この課題は師弟二人で乗り越える必要がありそうだ。


「……し、師匠……、わ、わたしは、死んで、ましたよね?」

 シリルも、厳しいながらも自分を思うサーシャの気持ちに気付きその言葉を重く受け止める。その後、聞かずにはいられなかった。声が震えているのが自分でも分かった。

 実戦形式の試合は初めてではないし、魔物と戦ったこともある。それなのに、本当の戦慄を覚えたのは今回が初めてだった。

 シリルは意識していなかったのだ、今まで一度として。剣を交えるということが、戦うということが命のやり取りをするということであることに。

 すべての技術が敵を倒す、殺すためにあるのだということに。


「わたし、馬鹿です……師匠が言っていたことを何も理解していませんでした。怖いなんて思ったことなかったんです……」

 才能に恵まれ、師と環境に恵まれたことでシリルは戦う怖さを、本当の意味での命のやり取りを知らずに育った。今になってようやくそれを知ったのだ。手痛い経験と共に。

「今気づいてよかったさ。幸いお前は生きている。手遅れになる前に分かった。これからさ、焦ることはない。これからしっかりと教えてやるさ」


 サーシャは涙目のシリルを抱き寄せる。試合の勝敗だけで合否が決まるわけではないが、今回は無理だろうと感じていた。腕はあっても心がついていかないのでは認められない。

 だが、それ以上の収穫はあった。シリルが何よりも大切なことを学んでくれたのだから。これからもっとシリルは強くなれる。強く鍛えていく。Bランク試験はそれからまた受ければいい。

 しばらくすると落ち着いたのか、シリルは赤い目のままイサラに向き合った。

 イサラは師弟のやり取りを見届けた後は他の受験者の様子を見ていたが、シリルの視線に気付いて向き直る。


「情けないところを見せちゃったわね。自信満々に誘っておいて無様よね」

「いいえ、誰もが通る道ですから。それに、誘っていただいて感謝しております。こうして色々な剣術を見る機会も得られましたし」

 イサラは珍しく微笑を浮かべる。切り、切られる怖さ。イサラの言葉から、彼女はもう経験済みなのだろう。それはいつの頃だったのだろうか。思えばイサラの流派もまだ聞いていなかった。


「ねぇ、イサラ……」

「イサラ! やっぱ、ここにいたのか」

 シリルの声に割り込む形で少年の声がイサラを呼ぶ。小走りでやってきたのはレオル率いるイサラの友人達だ。

「探したぞ、全く」

「またいつもの病気でしょ」

「まあ、イサラだからしょうがないさ」

「本当、世話が焼けるわね」

「い、イサラさん。その……あの……」

 次々に声をかけてくる。イサラも一度立ち上がって彼らを迎えた。


「申し訳ありません。少々気になったものでして」

「いいって、合流できたしな。俺も今日が試験でな、まだここで受ける試験が残ってるんだ。どっちみちついてきてもらおうと思ってたからな」

「いつものことよね」

「諦めてるさ」

「わたしがいないと、いっつもこうなんだから」

「元気そうでよかった……」

 レオル、ナル、ハレス、フィオナ、ジェイドが次々と好き勝手なことを話していく。これにはシリル達も少々面喰っていた。


「ん? 知り合い?」

 レオルはイサラの近くにいる三人をちらりと見て問いかける。思えば先ほど、同じ年頃の少女が話しかけていたようにも見えた。

 イサラはそれに応じて双方の紹介をする。

「そっか、よかったな。一人でもイサラと仲良くしてくれるやつがいて」

 レオルは嬉しそうに笑みを浮かべる。

「イサラの評判、最悪だったわよ? 何したの?」


 ナルが試験会場で見た他の受験者達の様子を思い出して苦笑いする。本当に何をしたのだろう。村の恥とは思わないが、これを基準だと思われても困るところだ。

「そうなのですか? わたしとしてはおかしなことをしたつもりはありませんでしたが」

「イサラの普通は普通じゃないって何度も教えてあげたでしょ」

 フィオナは腰に手を当ててイサラの顔の前に出てくる。妖精を初めて見る面々は、動いてしゃべるその様子に目を丸くする。紹介されはしたが、飛んでしゃべっていることでようやく本物だと理解したのだ。知識でも伝聞でも、妖精が単独で人里にいるなど考えられないからだ。


 その珍しい妖精であるフィオナは、プリプリしながらイサラを叱っている。イサラも首を傾げつつもその話をちゃんと聞いていた。イサラなりにフィオナの忠告には耳を傾けるようにしている。

「そういえばレオル、時間はまだ大丈夫なの?」

 ナルはイサラの隣に腰かけたレオルに話しかける。そんなに悠長に構えていていいのだろうか。

「平気平気、時間になったら呼ぶって言ってたし」

 その時間にもまだ余裕がある。


「試験って、何の試験ですか?」

「あー、敬語じゃなくていいよ。イサラみたいに癖なら仕方ないけどさ、そうじゃないだろ?」

 シリルが勇気を振り絞って話しかけたが、レオルは軽く返してくる。人懐っこいレオルの笑顔で場の空気も和らいだものになる。

「あー、俺はハンターの職業試験を受けてるんだ。で、次が最後の技能試験。武器ごとの演習みたいなもんかな」

 レオルが簡単に説明する。シリルはイサラに対するものとは別の意味で驚いていた。実力勝負、弱肉強食なハンターの世界に、レオルのような少年が入るということが信じられなかったのだ。


 シリルの知るハンターとは、誰もが粗野で乱雑なイメージがあった。間違っても好青年が目指す職ではないように思っていたのだ。

「ハンター? 本当に?」

「ん? こう見えても腕はいいんだぜ? 十五になってからは村で狩りをする時にはいつも参加していたしな」

 シリルが聞きたかった事とは別の答えが返ってきた。こういうところはイサラの友人なのだと変な納得をしてしまう。

「いえ、そういうことじゃなくてね。その……あんまりイメージに合わないというか……」

「ああー、そっちか。ま、他がどうだろうと関係ないさ。イサラと一緒に旅するのには都合がいいから選んだ職だしな」


 またしても職を手段扱いする発言に、シリルはため息をついて頭を振る。職が生きていくための手段であるという、ミール村では基本的な考え方は他では受け入れがたいようだ。

「そう。でもすごいのね、十五で狩りなんて」

「やらないと食べる物もないしな。いい修行にもなるって言ってたし」

「そうよね。大体急所を一撃で仕留められるようになったものね」

 ハレスが擁護し、ナルも賞賛する。環境の違いもあるのだろうが、ミール村から来た四人は命のやり取りを、弱肉強食の理を自然に受け入れているように見えた。


 先ほどようやくそれに気づいたシリルには少し羨ましく見えた。シリルが初めて魔物を相手にしたのは十六になってからだったし、命を奪ったのは十七歳。レオルにも後れをとっている。

「俺なんてまだまださ。イサラの方が早くから参加してたし」

「イサラが?」

 シリルは若干疑わしそうな声を出す。イサラの実力が自分より上なのはなんとなく分かったし、経験も豊富なのは理解した。けれど、見た限りではそんなふうには思えないからだ。


「そうよ。わたし達の年代で一番早くに剣を取ったのがイサラだったもの」

「俺達なんて足元にも及ばないさ」

 ナルとハレスはイサラの実力を知っている。いや、知ることさえできないほど開きがあることを知っているというべきか。どれだけ頑張ろうと埋められない差がある。追いつけない領域にいる。

「一体いつから剣を振ってるの?」

「三歳です」

 恐る恐る尋ねたシリルに、イサラは簡潔に答える。シリルは思わず息を飲んだ。自分が将来を考えることはおろか、記憶さえ定かではない頃からイサラは剣を振っていたというのか。


「か、狩りに出たのは?」

「七歳ですね。初めて生き物の命を奪ったのは五歳の時でしたが」

 予想以上というより、予想外に早すぎることにシリルは声を失う。差があるわけだ。イサラと自分の違いは覚悟と経験の差からして違うのだから。今更命のやり取りに気付いたシリルが勝てる道理がない。

「そうか、早いな。その分では、人との命のやり取りもあるな?」

 黙り込んだシリルの代わりにサーシャが尋ねてくる。サーシャは職業剣士だ。当然今まで多くの命を奪ってきたし、その中には人の命も含まれている。イサラの態度や強さから、自分以上の経験を積んでいることは明白だ。


「はい、あります。初めて人を傷つけたのは七歳の時です。そして、殺したのは九歳でした」

「九歳……か。早すぎると言っていいな、辛くはなかったのか?」

 まだまだ子供の年齢だ。親や大人に守ってもらっていい年頃だ。サーシャは最後の言葉は少し優しく問いかける。若い頃に色々経験を積むのはいいことだとは言ったが、早すぎる経験は時として心をむしばむ。

「初めて殺した時には体が震えました。心も平常ではいられませんでした。しかし……すぐに、慣れました。殺さなければ殺されます。わたしが死ねば、村が蹂躙されます。生きるために、守るために覚悟を決めました」


 イサラの言葉にシリルは衝撃を受けていたが、サーシャは小さく笑った。大丈夫だ、この子は大丈夫だ。そう思えたからだ。きちんと自分の中で折り合いをつけ、その上で背負って生きる覚悟ができている。サーシャの心配は老婆心だったと気付かされた。

「驚いたわ。そんなこと、言ったことなかったじゃない。それならもっと気を使ったのに……」

「……聞かれませんでしたので」

 ナルがイサラの告白に文句を言ったが、切り返される。それはそうだと、ぐっと言葉に詰まる。今までずっと村を守ってきてくれたが、それをイサラがどう思っているのか聞いたことはなかった。


 下手に聞いて傷つけるのが怖かったし、イサラを見る目が変わってしまうのも嫌だったからだ。自分達の安全と平和の陰で、手を汚してきたイサラの気持ちを聞くことができなかったのだ。

 これでは友達失格ではないのか。ナルやハレスは暗澹たる気持ちになる。イサラはそんな二人を見て、胸が温かくなる。そんなふうに心配したり心を痛めたりしてくれる。それだけで二人はイサラにとって大切な友人なのだと感じる。


「わたしがそうしてきたのは、わたしの意思です。わたしを受け入れて、育てていただいた村を守りたいと思いました。そこに住む人々を、家族や友人を死なせたくありませんでしたし、傷つくところも見たくありませんでした。そのために必要なら、手を汚すことをためらったりしません。そして、戦いを重ねても、いつもと同じように接していただいたことが何より救いになりました」

 だからナルやハレスが傷つくことはない。胸を張って友達だと誇ればいい。言外にイサラは二人にそう伝えた。二人もそれが分からないほど短く浅い付き合いではない。二人は感激して、笑顔を取り戻す。


 逆に、レオルの胸の奥はズキリと傷んだ。ナル達は実際にイサラが人を殺す場面を見たことはない。あの衝撃を知らない、あの凄惨な光景を見ていない。だから、レオルのようにイサラを拒絶することはなかった。

 知らないからこそ、いつも通りでいられた。レオルもできることなら知らないままでいた方が幸せだったのかもしれない。あんな態度をとってしまったレオルだが、人としてはごく当たり前の反応をしただけだ。

 でも、それでもレオルの胸は痛かった。見えない刃で切り付けられているようだった。イサラにそのつもりはなかったのだろうが、塞がったはずの傷がわずかに開いたような気がしていた。


「ふふっ、いい友達を持ったな。お互い、大事にしろよ。離れててもそういう存在は心の支えになるものだ」

 サーシャがまとめてこの話題も打ち切りになる。イサラの肩でフィオナがこっそり涙を拭いていたのは公然の秘密だ。

「……で、強そうな奴はいたか?」

 レオルは一度瞑目して気持ちを切り替え、話題を振る。イサラのそばにいると誓ったのだから、これくらいでくじけていてはいけない。責められるべきことをしたのは自分だ。当時は与えられなかった罰だと思えばいい。

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