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創世の書  作者: マリヤ
第一章 赤の書
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旅立ち

 遠くそびえる山脈から清涼な風が吹き込んでくる。

 世界最高峰の山脈の中腹に位置する村には短い夏の季節が訪れていた。この村では珍しくない一年を通してみられる雪景色も、今の季節だけは少しばかり鳴りを潜める。

 雪解け水があちこちに作られた用水路を流れ、暖かい日差しに小さな花が水滴をこぼす。


 冬は雪に埋もれてしまう墓所もその全容を表し、静かにたたずんでいた。

 そこにある人影は一つ、自然の中に溶け込むようにして、ある墓の前に立っていた。

「ようやく、この日が来ました。わたしは旅立ちます。ここにはいつ戻ってこられるか分かりません。ですが、必ず……必ず、わたしは……。見守っていてください、師匠」


 静かで、穏やかな声の中に確固たる決意が感じられる。墓を見つめるその瞳は深く、どこまでも深く澄んでいた。

 しばらく黙とうを続けるとくるりと背を向け、そのまま歩き去る。

 その瞳はただ、前のみを見つめていた。




「まったく、もー。今日が出発の日だっていうのに、どうして肝心なものを用意してないの?」

 かすかな羽音と共に、高めの澄んだ声が奥にいる人物に向けられる。

「あの、自分に必要と思われるものは用意したのですが」

「だ・か・ら、どうしてその中に『食糧』っていうものが含まれていないのかって言ってるのよ!」


 プリプリと腰に手を当てて抗議しているのは身の丈二十cm、年の頃は人でいえば十六、七に見える妖精だ。名をフィオナという。とある縁から今目の前で、慌てて食料の準備をしている人物と出会い行動を共にすることになった。

「しっかりしてよね。旅は初めてじゃないのに、先が思いやられるわ」

「はぁ、食糧はたいてい旅先で手に入れていたものですから。それに……食事をしなくてもどうにか……」

「なるわけないでしょ! 妖精であるわたし達でさえ食べないといけないっていうのに、人はもっと食べないと死んじゃうの!」


 フィオナは小さい子にするように言い聞かせる。どうしてこうなのだろう。頭が悪いとか、要領が悪いとかではないのに、どうも生活感というものが希薄なのだ。自身の中の優先順位で食事とか睡眠とかを下の方においている節がある。いや、もう入れてさえいないかもしれない。

「ふぅ、よかったわね。わたしが早くに気が付いて、そうしなきゃ間に合わなかったわよ」

「そうですね、ありがとうございます」

 素直に礼が言えるのはいいところだ。育てた人物の大きさがうかがえる。


 フィオナは口でぶつぶつ言いながらも、この人物を気に入っている。また、そうでなければ故郷から遠く離れたこの地までついてきて、一緒にいるなんていうことができるだろうか。

 ファニエール・ルクス・ミレイ・イサラ。フィオナの命の恩人であり、無二の親友、と自身では思っている。フィオナの一族では助けられた恩は必ず返さなければならないとされている。

 恩を返すためについていったが、イサラという人物を知れば知るほどに興味がわき、退屈しない日々を過ごした。その結果、フィオナはこの命ある限り一緒にいようと心に決めた。もちろん、当人には言っていないが。


 時々、どうしてこの子についてきてしまったんだろう、と思うこともあるがそれよりもずっと楽しい毎日がそんな思いを忘れさせてしまう。

「イサラ……、本当にこの村には戻らないつもり?」

 フィオナは食料も袋に詰め終わったイサラに真剣な目を向ける。イサラの決心は前から聞いていた。その決意が固いことも知っている。

 それでも、フィオナはこの村との決別になかなか踏み切れないでいた。厳しい環境にあって、この村は強く優しく、温かかった。余所者であり、付き合いの短いフィオナでさえ去りがたいと思わせる村。この村で生まれ育ったイサラならなおさらだろう。


「……はい。随分とお世話になって、その恩をすべて返せたとは思えませんが。……ですが、二度と戻らないということではありませんよ? その必要が出てくる時があるかもしれませんし」

 イサラは変わらない決意を口にして、フィオナの表情を見て付け加える。フィオナがこの村に対して、第二の故郷のような感情を抱いていることはよく知っていた。

 そして、その曇り顔の中にはイサラを思う心情が隠れていることも。


「そう。まあ、あなたが自分で決めたならいいわ」

 子供はいずれ親という巣から飛び立つ。イサラにとってはそれが今日だということ。これ以上は口を出すべきではない。

「それでは行きましょうか、フィオナ」

「そうね」

 フィオナはイサラの肩に腰を下ろすと笑顔になった。年上である自分がしっかりしなくては、と自分に言い聞かせる。外見はこうでも、年齢はその倍は生きているのだから。




 この村は広大なファンダリアという世界にある五つの大陸、その中で最大の面積を誇るフィルデリカ大陸のとある国に属している。正式名称『ジフテル共和国ネオル自治区第三号ミール村』。

 北の大地にあって、その中でも峻厳なフェール山脈中腹に位置している。国境近くにある辺境の村で、三千人ほどの人々が肩を寄せ合って生きている。

 そんなミール村は一年の半分以上雪に閉ざされ、地上での生活は困難どころか不可能だ。そのため、地下に居住空間を設けている。地下道を作り家々を結んだり、共同空間を作ったりして地下での交流が夏を除く時期では主体となる。


 今はそんな一年で最も短い夏の時期。この季節のみ村の本来の姿を垣間見ることができる。

 イサラは二階から外に作られた階段を下りる。この村では二階、三階が生活スペースで、一階はほとんど貯蔵室や倉庫と化している。なぜなら、夏の季節以外一階部分はほとんど雪に埋もれてしまうからだ。


 朝早くてもミール村には活気がある。短い夏の時期、この季節に秋から春に向けての準備をしておく必要があるのだ。みんな、白い息を吐きながらも楽しそうに働いていた。

「おや、今日が出発だったねぇ。気を付けて行きなさい」

「頑張るんだよ」

「妙な男には引っかかるなよ」

「好きな時に帰ってきなさい」


 イサラがフィオナと共に村を歩くと、次々に声をかけられる。この狭い村ではみな顔見知りであり、家族のようなものだ。中でもイサラは有名で、村で知らない者はいない。

 膝まで届くほどの長い豊かな髪は銀色で、朝の日の光を受けてキラキラと輝いている。普段あまり手をかけていないにも関わらず、その輝きは失われない。

 そもそも、切るのが面倒で伸ばしていたらこの長さになったというのだからあきれる。いつも後ろで三つ編みにして一つに束ねている。


 飾り気がなく、興味もないイサラだったが、髪を束ねているのは頭全体を覆うようにして作られた額飾り、そこから伸びるリボンだ。アクセサリーとしても見事だが、これはれっきとした防具。身を守るために付けているに過ぎないのだ。厳しい生活の中、実用性のないものに意味はない。

 雪国育ちのせいもあるが、もともとの肌の色も雪のように白く、顔だちも思わず見とれるほどに整っている。そんな顔の中でも目を引くのはその紫電の瞳だ。


 その色は深く、澄み切っていて、見つめられると心の奥底まで見抜かれるかのような錯覚に陥る。残念なことに、普段はいつも半分閉じられており、近くで見ないと色も分からないが。

 表情は変化に乏しく、いつも眠そうにしている。

 天然かと思えるほどのマイペースで、穏やかな雰囲気と、誰にでも敬語でしゃべるイサラのこの村での通り名は『村一番の変人』というものであった。


 イサラは村を横切り、入口へ足を進める。何人かの村人達が集まっているのが見えていた。そこにはイサラと同年代の男女が三人ほど。それからその身内が集まっている。

「これで全員揃ったわね」

 イサラが合流するのを見計らって中の一人が前に出る。エレザイル=キリカ。イサラの育ての母であり、今日一緒に出発するエレザイル・デル・キリカ・レオルの母親でもある。

 機織りを仕事として、六人の子供を生み育て、さらにはイサラをも引き取り育てた人格者。


「すみません、遅くなりました」

 イサラは軽く頭を下げる。集合時間にはまだ余裕があるが、慣例的に半刻(一時間の半分)前には集まることになっていた。

「また何か忘れたの?」

 からかい半分に聞いてくるのは、同じく今日首都に向けて出発するトリニクス=ナル。イサラとは幼馴染の関係だ。


「そう、信じられる? 普通旅に必要なものって言えば、着替え、薬、お金、食糧でしょ。それなのにこの子ったら、着替え、本、薬、資料、お金、実験道具、本、本、本……。食糧なんて一つも入っていなかったのよ!」

 フィオナがまくしたてる。イサラが当初用意した荷物の中に、食糧の影はみじんもなかった。大量の書物といくばくかの着替え、お金と資料と実験道具、薬。それだけだ。


「……イサラらしいっちゃらしいけど。相変わらずだな、今日に至っても」

 ともに村を出発する最後の一人、マレイ=ハレスが苦笑を浮かべる。何年来の付き合いでも、いまだにイサラのことは理解できない部分がある。

「長旅になりそうでしたので、先に必要なものを、と思いまして」

「食料も必要なの! ま、いいわ。このわたしがついているんだから」

 フィオナが小さな胸を張る。わたしがしっかりしなくては、という責任感が見える。なんとなく放っておけず、守ってあげなくては、と思わせる何かがイサラにはある。これも人徳と言えるのかもしれない。


「はははっ、ま、いつものことだ。俺もいるし大丈夫だろ」

 レオルは屈託なく笑う。イサラの変人ぶりにはもう慣れっこだ。

 いざとなれば、イサラは自分でどうにかできるだけの経験も力も持っている。そう心配することもない。

「まったく、あなたときたら。その顔だと昨日も眠っていないんじゃないの?」

 腰に手を当てたままキリカはイサラの顔を覗き込む。いつも同じような顔をしているが、伊達に母親をやっているわけではない。かすかな表情の変化、顔色、目の動き。それらから鋭く見抜いてくる。


 イサラは何も言わず、目線をそらした。バレバレである。

 キリカは思わずため息をこぼした。自身がおなかを痛めて産んだ子ではないとはいえ、イサラは紛れもなく自分の子供。そう思い、そう接して育ててきた。イサラもそれを感じてか、キリカの言うことはよく聞いた。

 けれど、妙なところで頑固で、頑なな意志を持っているのは小さい時から変わっていない。生まれついてのものか、譲れない時には決してひかなかった。

 話してはくれなかったが、何かとても大切な目的を持っていることは分かる。そのためには、たくさん無理をしなければならないことも。何より悔しいのは、その力になってあげられないこと。多くを背負い込んで歩くその道を、止めることができないことだ。


「いいこと、あなたは一人じゃないのよ。誰かを頼り、誰かに守られることは決して悪いことじゃないわ。あなたが誰かを大切に思い、誰かのために何かをしたいと思っている時、その誰かもあなたを同じように思っていることを忘れないで」

 だから思いを伝える。小さい子供に言い聞かせるように、目をじっと見つめたまま。こうやって面と向かって話せるのは最後になるかもしれない。だからこそ伝えておきたい、この胸の中にある、大切な思いを。


「イサラ、わたしとあなたは血のつながりはない。でも、わたしはあなたを本当の子供だと思ってる。いつでもあなたのことを愛し、あなたのことを思い、忘れない。あなたはわたしの自慢の娘よ。自分の信じる道を真っ直ぐに進みなさい。それで、疲れた時にはいつでも帰ってきなさい。あなたの帰る家はここにあるわ」

 キリカはイサラを抱きしめる。イサラは最初驚いたように身じろぎし、それから力を抜いて身を任せる。

 キリカの腕がイサラを離した時、耳元でささやかれた言葉はキリカの全身を衝撃となって駆け抜けた。胸が熱くなって、涙が浮かんでくる。


 初めて、そう、イサラを引き取り育て始めてから初めてイサラに呼ばれた。

 『お母様』と。

「ありがとうございます、お母様」

 キリカは一生この時の感激と言葉を忘れない。そう感じていた。別れのこの日に、イサラに母と認められたことを。

 そばではレオルがくすぐったそうな、それでいて少しすねたような顔をしていた。実の息子を差し置いて、義理の娘との別れを先に済ませたのだ。


 けれど、そんなことで何か言うほど心の狭い子ではないことをキリカはよく知っている。レオル自身でさえ、自分よりイサラを優先するような子なのだ。

「レオル。あなたがどんな思いで将来を選択したのか、そして、何をしたいのか。それを忘れては駄目よ。あまり無茶なことはしないでね。わたしはあなたを信じている。だから、くじけそうな時には思い出しなさい。自分にとって、何が大切かを」

 キリカはレオルに向き直るとギュッと抱きしめる。自慢の末息子、最も手を焼いた子でもある。比類なき才能を持ちながら、誰もが耳を疑うような選択をした子。


 これから先の苦労も多いだろう。唯一の救いは自分で大切なものを見つけ、それを守るために将来を決められたこと。一人ではないということだ。

 キリカの隣では夫であるデルがイサラと別れの言葉を交わしていた。エレザイル夫妻にとって、イサラとレオルは最も心を痛めて育てた子供達だった。

 夫妻の間には六人の子供がいたが、いずれも男で、娘はイサラただ一人。その一人娘と末息子が今日旅立つ。

 村に戻れるかどうかさえ分からない、長い旅に。

 自然と、他の子供達に比べ別れが大仰になるのも仕方ないことだった。


 この世界ではある一定の年齢に達すると成人と認められ、職業を選択する。ここジフテルにおいては、十八歳と定められていた。成人する者は自身の住民登録のある村で『職業申請書』を発行してもらい、承認と身分証発行のために首都に赴かなければならない。

 身分証は首都でしか発行されないため、誕生日の一か月前から二か月後までの間に申請を済ませる必要がある。

 人口の少ないミール村では、誕生日が近いものが何人か集まって、保護者同伴で首都へ行くようになっていた。首都への旅路はもちろんのこと、首都そのものもこんな田舎育ちの新成人達にとっては脅威となり得るからだ。


 今回は四人いることも、旅慣れたイサラがいることもあって、新成人のみで行くことになっていた。

「みんな、くれぐれも気を付けて行くんだぞ。最近、物騒な噂もあちこちで聞く。単独行動はなるべく避けるようにな」

 そう締めくくったのは、レオルの祖父で元ミール村首長のエレザイル=テッド。レオルやイサラのよき理解者であり、支援者でもある人物だ。

「「「「はい!」」」」

 全員がそれにうなずく。互いに協力し合うという意識や行動は、この村で生まれ育てば自然と身に着く。四人はお互いの顔を見合わせてその認識を確かめ合った。

 そして、連れだって村の外に足を踏み出していった。

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