「心を二つに別けることができたら、どんなに救われただろうか」
乾いた空気が肌を撫でる。噎せ返る血の匂いが辺りに漂う。
目の前の男の顔には、涙が流れた跡があった。
「お前には会いたくなかった」
赤く充血した目で真っ直ぐと私を見て、彼は悲鳴のような言葉を挙げた。
そんな事を言われても、それは私とて同じ気持ちで。でも彼よりもずっと冷静な気持ちで、その言葉を受け止めていた。
「お前は何でも知っていて、それでも知らない振りをしていた。俺が道を外れてゆくのを、いつも黙って見ていたんだ」
彼はゆっくりと近づいてくる。動けない体で黙って聞いていた。彼はなんとなく苦しそうだと、そう感じた。だからといって、それ以上に感じる心はなかった。息を吐く音がこだまする。不気味な静けさだ。微妙な距離感を持って、彼は立ち止まった。痛々しいその眼が、すぐ側で揺れている。
彼は何を泣いているんだろう。何を苦しんでいるのだろう。
「今更になってなんだと言うんだ。今更俺を止めるつもりか。何をしても無駄だと言うことは、ずっと昔に気づいていたんじゃないのか」
腹ただし気に、右に左に大股に歩き回る。負担の彼の繊細さからは考えられないような、荒々しい足音が響き渡る。引きずっているマントからは、これまでに浴びたおびただしい量の血が滴り落ちて、床を赤黒く染めていた。
彼の言葉は止まらない。
「そもそも、お前が俺と彼女を引き合わせたのが悪いんだ。彼女と二人にしたのが悪いんだ。何も知らなかったお前が、すべて悪いんだ」
その言葉に、私は知らずに眉間にシワが寄った。確かに私は何も知らなかったが、それを彼に責められる筋合いはない。少しずつ現状を知っていって今、こんな状況に追い込まれているんだ。彼はもう昔のようには戻れないまでに落ちてしまっているし、私は彼を引き戻すためではなく、彼に引導を渡すためにここにいるのだ。お互いに後戻りは出来ない。覚悟は互いに出来ているだろう。ただ、今はまだ彼の方が有利であり、私はちょっと窮屈な状態で彼の長そうな話を聞かなければならないというだけだ。ちょっと私が不利っていうだけだ。なんの問題もない。
「彼女の、彼女のためになら、何だって出来るんだ。何だってしなきゃいけないんだ。彼女のためになら俺は、俺は……」
そっと彼の顔を覗くと
やはり涙を流していた。それに気付かずにサーベルを振り回し、短い赤茶色髪を振り乱し、その美貌が勿体ないと思えるほどの形相で周りを見渡す。この目に映るもの全てが憎いとでも言うように、綺麗だったその目で周りを見渡す。彼とは本当に長い付き合いだったが、そんな表情は見た事がなかった。
自分の頬に、何か冷たいものが伝って行くのを、気付かないフリをした。
「俺は、自分を殺せるんだ」
熱く乾いた空気から目を守るように瞬くと、さらに頬が濡れる感触があった。視界がぼやけてはまた鮮明になる。それを繰り返す。彼の顔が揺れている。心と心で揺れている。
「お前には会いたくなかった」
ああ、私も会いたくなかったよ。
「こんな俺を見られたくなかった」
ああ、できれば知らないままでいたかった。
「お前でなかったら、こんなに悩むことはなかった」
私だって、ここにいたのがお前じゃなかったら、今頃笑って酒を飲んでいたんだ。
お前と二人で、飲んでいたんだ。
「お前と過ごした時間は、長すぎたんだ。彼女との時間は、何よりも何よりも濃密だったんだ」
鼻先に向けられたサーベルの切っ先は、ボロボロに刃毀れしていて、浴びた血が固まっていて、酷く汚れたいた。まるで、彼自身であった。
「-------------------------ー―」
それは、今まで感情に任せた叫びと比べたらなんとも弱々しい声だった。危うく聞き逃してしまいそうな呟きには、何ら感情を感じなかった。虚ろな目はなんとも痛々しく、あんなに逞しく感じていた両肩は、微かに震えていた。やけに大きく聞こえる呼吸音は、私の口から発せられたものであった。それもまた震えていた。
私たちは泣いていたんだ。心から泣いていたんだ。
「………………言いたいことはそれだけか」
次第に鮮明になる視界の中で、彼の目に獰猛な光が戻るのを感じた。彼は一つの心を捨てた。取っておくことはできなかったのだ。私も捨てなくてはならない。この張り裂けそうな心の一つを。
言うことを聞かない体に力を込めて、目の前の男をじっと睨む。
互いの目は、既に乾ききっていた。




