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「ただいま……」
誰もいない部屋に声をかける。
僕は地獄屋からほとんど迷うこと無く自宅に戻っていた。
◆◆◆
僕が地獄屋で働く(手伝う)事を承諾するや否や、地獄先輩は立ち上がってこちらに向かってきて――といっても小さなテーブルを挟んだ距離なので大した距離ではない――手を取った。何と言うか、大きな手だった。
「ありがとう夏凪、恩に着る」
「い、いえ、僕の意志ですし……」
「それでも俺は嬉しいさ」
照れくさい。地獄先輩が柔らかな笑みを向けてくれているのが、余計に照れ――
「もう外も暗いな、時間も時間だ」
「いや、もうそんなに言われずとも……え?」
照れない。「嬉しい」と言っていたはずだったが、いつの間にか(どう考えてもこの僅かな時間であることは明白だが)笑みも消え去り、地獄先輩の急過ぎる変化に自分が追い付いて行けない。何なのだこの人は。
時計は九時を指すところだった。知らぬ間に三時間も経っていたらしい。
「帰りはどうする?見たところここへ来るまでにかなり迷っていたようだが」
バレていたらしい。まあ、出会った直後の僕の様子からすれば、バレるもバレないもあったものではないか。
というか、何故帰宅する流れになっているのだ……。
「何とかして帰ります。たぶん来る時ほど迷いませんよ、この地図によれば、ですけどね」
「それは……戸西の地図か」
戸西先輩に貰ったこの地図は、来る時には全くと言っても良いほど役に立たなかった。だが、隅に小さく「帰り道の方が役に立つかも」と書いてあるので帰りは役に立つ地図なのだろうと思うことにしている。できれば来る時にも役に立って欲しいものである。
というか、だから何故帰る流れに――
「そうか、なら大丈夫だろう」
「ええ、それではもう帰りますね」
そう言ってしまった。自然に事は運ばれたように見えるが、実際のところ地獄先輩の急過ぎる変化についていけなかった僕が流し流された結果がこれだ。あえて言うが、もっと地獄先輩と話していたいと思ってしまったとかそう言う訳ではない。断じて。
流れに乗って、玄関へ。
そう言えば、結局僕が何故ここに放り込まれたのかがわからないままだということを思い出した。引きずられた時にできた擦り傷が、きっと今日明日くらいの風呂には響くだろうなと思うと、考えただけで何やら痛い。とは言え、今聞くのも野暮だし、いずれまた聞こう。
「夏凪」
そう考えていると、後ろから呼ばれた。
「どうしました?」
「働くと言うか手伝うと言うのか曖昧だが、とにかくその説明が全然できていないのだ」
なら何故帰宅を催促するような言動を……!
と言いたいが、消し炭にされても困るので、大人しくしよう。というか、働くと決めたのだから、地獄先輩がこんな人でも対処しよう、冷静に。
仕事か。確かに何も聞いていない。それでは色々と困ることもあるはずだ。第一にいつ働くとか、その辺りさえも決まっていないのだ。
「今お聞きしましょうか?立ち話でなんですけれど……」
「いや、明日にしよう」
意外や意外。ここでぱぱっと話してしまうとか、そんなもの何とかなる、とか言ってしまうかと思いきや、明日に延期とは。
「大学の講義が終わったら正門に来てくれ。ちょうどサークルも無いしな。それに……」
ぐぅぅぅぅぅぅ
「腹の虫が鳴きながら話すのは耐え難いと思うぞ、お互いにな」
僕の顔はきっと地獄屋の提灯よりも赤かったことだろう。
◆◆◆
帰りつくや否や、僕はベッドにダイブしていた。歩き疲れ、はたまた精神的な疲れがどっと押し寄せて来ていた。
時刻は九時半過ぎ。
地獄屋に行くときはあんなに路頭に迷って一時間もかかったのに、まさか徒歩三十分圏内だとは思いもしなかった。これだけ往復に差ができると、この街の構造を疑いたくなってくる。
「結局、渡し損ねた……」
手元には戸西先輩から預かったプリント。地獄先輩に渡してくれと頼まれていたが、着いて早々にあの事態、すっかり忘れてしまっていた。
そもそも。
戸西先輩は何者なのだ。
地獄先輩の協力者であることは確かだ。だとしても地獄先輩があのような人であるとわかっているのならば、何故僕を止めてくれなかったのか……。いや、協力者だから止めないのか。しかし、よく考えてみれば、あの二人が協力者となり得るほどの深い繋がりがあっただろうか。学年は同じだが……。言うまでもなくサークル長と副長という事は知っている。大学のサークルはとても充実した人間関係が築けると聞く。だとしても、自分の協力している人物が危険だという事を理解した上で付き合っているというのであれば、それはサークルで充実している以上のものであると推測する。
観る目はあっても推測力が無いのが僕だ。関係性がよくわからない。
本当に何者なのだろう。戸西先輩は。
今日あった事を報告するのも含めて、明日、戸西先輩に会おう。
そう考え付いた頃には、既に僕は眠りに落ちていた。
次回より第二章!
マイペースですがどうぞお願いします。