身を固めても変わらない
加藤図書助はため息をついた。
熱田の豪商であり、息子を信長に仕官させている図書助は、信長から“山田の”の世話を頼まれている。
図書助にとっても、山田正道は恩人だ。
桶狭間で信長に加勢し、織田を勝利に導いた彼は、今川から熱田を守ったことで、図書助の地位をも守ってくれた。
だから、この恩人の我がままであれば、信長の願いを抜きにしても、たいていのことは聞く用意がある。
しかし、生来のかぶき者、という言葉が似合う問題児たちには、いつも心労をかけさせられる。
この日も、正道はふらりと屋敷に現れて来て、図書助に言った。
「図書のとっつあん、馬ァくれないか。ガス欠で舎弟どもが困ってんだよォ」
言って求めた馬の数、百頭。
ご丁寧に、舎弟全員に馬を与えるつもりらしい。
――馬鹿を言うな! 馬一頭でいくらすると思ってるんだ! だいたい、買った馬の維持費をどうするつもりだ!
全力で突っ込みたかったが、恩人なうえに、信長の妹婿だ。下手なことは言えない。
――織田家と、恩恵を被る千秋家への貸しにしてやろう。
腹の中で算段しながら、図書助は思う。
――無学な上に、異様で異装の巨人だが、この鷹揚さ。ひょっとして高貴な家柄だったのかもしれん。
「わかりました。手配しておきましょう」
「すまねえなァ、とっつぁん。礼と言っちゃなんだが、これェ貰っちゃくれねえかァ」
「こ、これはご丁寧に……これは?」
正道が寄越したのは、フルフェイスのヘルメットだった。
「アタマを守るゥ、ヘルメットよォ」
ヘルメットというのはわからないが、図書助はこれを兜の類だと理解した。
いかなる素材でできているのか、ひどく軽い。それでいて頑丈なのが、素人目にもわかる。
「これは……この上なきものを」
目の肥えている図書助でも、見たことがない逸品だ。
息子の弥三郎に与えれば、さぞかし晴れがましい姿で戦陣を飾れるだろう。
「しかしこの穴は……」
図書之助は首をかしげた。
ヘルメットの額の上あたりに、大きな穴が開いている。
傷ではない。最初からそうしつらえてある。
「これを通す穴よォ」
正道はリーゼントを指差してみせた。
大男の前頭部から前に大きく張り出した変わり髷の位置と大きさは、ヘルメットの穴と見事に符合する。
――山田党の大将の兜であれば、なおさら価値があろう。
図書助は理解する努力を放棄し、そろばんだけを弾いた。
◆
「ヒャッハー!」
「こりゃあいいや! 頭はいいもんをくれたぜぇっ!」
「ぶぅーんぶぅんぶぅんぶぅんぱらりらぱらりら!!」
馬を与えられた舎弟たちは、さっそく各々の馬を乗り回しはじめた。
中にはマフラーやシートを取り付けられ、族車仕様にデコレートされたかわいそうな馬もいるが、おおむね可愛がられている。
ガソリンもなくなり、本格的に用済みになった感のあるバイクは、改造、整備のできる何人かのメンバーが定期的に整備しているが、半分ほどは、馬をデコるためのパーツ取りに使われてしまっていた。
暴走ライフを謳歌する舎弟たちに反して、正道の顔はすっきりしない。
この頃、妻の文に聞かされて、ようやく信長の置かれた情勢が、頭の中に描けるようになってきている。
「――文よォ」
「なんです? 旦那さま」
「兄弟は、悩んでるなァ?」
「お分かりになりますか?」
「ああァ……何でだろうなァ。離れてるはずなのに、清洲のほうの空を見りゃァ、わかるんだよォ」
「……兄は情の深いかたです」
文は優しい笑みを浮かべて語る。
「――しかし同時に、この上なく賢いかたでもあります。迷っておられるのでしょう。岳父道三の仇を討ちたい思いと、桶狭間の余勢を駆っても、美濃を攻めあぐねる現実に」
斎藤道三は、長男義龍に攻め滅ぼされている。
現在の美濃を治めているのは、岳父の仇、義龍だ。
しばし無言。
やがて正道が、ぽそり、と、つぶやくように問う。
「道三ってのはァ、兄弟の大事な人かァ?」
「兄の志を、唯一完全に理解できた方だと、以前うかがったことがあります」
「……そうかァ」
つぶやいてから、正道は立ち上がり、背中越しに文に声をかける。
「ちょっと清洲まで行ってくるぜェ」
文は淡い笑みをこぼすと、うなずいた。
「行ってらっしゃいませ、旦那様」
◆
不思議と雨が降った。
ようやく慣れた馬を走らせ、清洲の館に上がりこむと、信長を見つけ出して声をかけた。
「よーう、兄弟ィ」
小姓連中があわてたが、小姓のひとり、岩室長門守が訳知り顔で人払いした。
「熱田の兄弟。元気そうで何よりだな。妹は息災か」
「元気だぜェ。オレも、文もなァ。お前は、元気ねぇよなァ」
「そうか? ……いや、そうなのかもしれんな」
言って信長は頭をかいた。
すこし疲れているように、正道の目には映った。
「ヒートじゃねえなァ、兄弟よォ」
「いまだ岳父の仇も討てぬ不甲斐なき男よ。唯一、真の信長を理解してくれた男だったというのにな」
言葉の奥に自嘲があった。
眉根を顰めてから、正道は静かに、口を開く。
「……真の信長ってのは、オオ。なんだァ?」
「何だと思う?」
「さあなァ。でもよう、真のオレってのはァ何だって聞かれたら、オレァこう答えるぜ?」
言って正道は、己のリーゼントを根元から手でなぞる。
この時期、ポマードはなくなっていて、蜜蝋や鯨蝋で代用している。
「天下一。唯一無二。このリーゼントこそがオレだってなァ。テメーもよォ、その変なちょんまげに命張ってるんだろ? だったら、オレが思う真の信長ってなァ、それだろォ」
断言する正道。
信長は、しばしあっけに取られ。
「く、く、くくく……わははははっ! 髷こそ己だとぬかすか、兄弟!」
こらえきれないというように、信長は爆笑する。
その顔は、からりと晴れている。
「――そうだ。その通りよ。桶狭間での望外の成功に、己を失っておったわ! 他人の無理解など知るものか! 泥をすすり地を這いつくばろうとも、信長は信長よ! 兄弟、それをよく思い出させてくれた!」
タイミングを計ったように、岩室長門守が軽い食事を持ってきた。
彼が去ってから、信長は耳元でささやく。
「兄弟、実はあの長門も、わしを知る一人よ」
岩室長門守も、この翌年戦で死ぬ。
そのことを、神ならぬ身では知りようがない。
だから二人は、ただ笑顔を交わしあった。
※
信長「長門は俺の嫁」
濃姫「(ピキピキ」
すごくざっくりとした補足
熱田……津島とともに、信長の強力な財政源となっている商業都市。
加藤図書助……作中に登場しているのは加藤順盛。熱田の豪族にして豪商
千秋家……熱田大宮司。早い話が熱田神宮の一番偉いさん。当主が死亡し、この時千秋季重が熱田大宮司代を務めている。
岩室長門守……重休。器用の仁。早くから信長の小姓として仕えていた人。桶狭間の時に、信長が熱田に向かった時ついてきていた一人。