包囲網など歯牙にもかけない
将軍義昭と織田信長の軋轢は、頂点に達していた。
もとより、お飾りと認識している将軍だ。あつかいも相応でしかない。
うわべだけは丁重だが、信長は義昭の意向をほとんど汲み取らず、事あるごとに将軍の権限に掣肘を加える。
将軍義昭にとって恩人であり、親にも似た親愛を抱いていた男は、兄義輝を殺した三好や松永と変わらぬ悪党だった。
失望はやがて憎悪に代わる。
――だが、そうすると、あの男も敵に回す。
熱田の主、山田正道。
義昭は、自分の心を折ったあの男のことを忘れられない。
しかし、恐怖による抑え込みは、時により強い反発を生む。
義昭は恨みで塗装された見えない火薬を、信長にふりかけていく。
越前の朝倉。
北近江の浅井。
四国の三好三人衆と、斎藤龍興。
大坂の石山本願寺。
京の鬼門、王城鎮護の要、比叡山延暦寺。
甲賀の六角義賢・義治父子。
その他大小の勢力と、精力的に連絡を取っていった。
◆
「浅井備前、裏切り!」
朝倉征伐の最中。
攻略を終えた朝倉の越前金ヶ崎城でその報を受けた信長は、最初、一笑に付した。
おなじ報せをふたたび受けると、言葉で否定した。
三度目に迷いが生じ、しかし、かろうじてかぶりを振った。
「ばかな。ヤツが裏切るはずがない」
状況は、ことごとく長政の裏切りを裏付けている。
しかし、それでも信長は、長政に対する信頼を捨てきれなかった。
その判断はただしかった。
四度目の報せとともに、信長の元に現れたのは、なんと浅井長政本人だった。
供廻りもない。単騎だ。
「おお、浅井の! 貴様、どうしたというのだ!」
「不覚をとり申した」
くやしげにつぶやいてから、長政は信長に、事の経緯を伝える。
「この身は放逐され申した。いまの北近江国主は、国衆に担がれた息子万福丸が」
長政はやりすぎたのだ。
正道にハッパをかけられ、自身の手に権力の集中を図った。
それはなかば成果を上げていたが、だからこそ、家臣たちに不満が山積していた。
そこへ将軍からの密書である。
信長の妹婿である長政は、これを一顧だにせず黙殺した。
しかし、これを好機と見た家臣たちが、将軍に逆らう長政を不忠と決めつけ、妻子ともども幽閉。
父、久政後見のもと、数え五歳の万福丸を国主に祭り上げ、信長に反旗を翻したのだ。
長政は、幽閉先の竹生島に護送される途中、脱出してきたのだという。
逃げる際、正道が授けた地図が役に立ったことを伝えて、長政は話を続ける。
「むろん、それがしに同情する家臣も多いが、当面は後見役の父、久政主導の元、反織田で動くことになるかと」
話を聞いて、信長は、常に無く動揺をあらわにして問う。
「市は? 子らはどうした?」
「わずかに許されていた供廻りをつけて、岐阜に」
「……貴様が直接ここに来たのはなにゆえだ? ここが死地だと知っておろう?」
「その死地を作ったのは、それがしの不覚ゆえ。直に謝って……ともに助かろうと思った次第」
思わぬ答えに目を見開いた信長だったが、しだいにそれが不敵な笑いへと変わる。
奇しくも、目の前の長政とおなじ表情だ。
信長は笑みを浮かべたまま、言い放つ。
「ならば逃げるぞ。一目散にな」
依然状況は最悪だった。
退路を断たれる前に軍を引いたとしても、そこから地獄の追撃戦を凌がねばならない。
信長は池田勝正、木下秀吉、明智光秀らを殿軍を任せ、撤退を始める。
彼らの活躍と、松永久秀が説得した朽木元綱の協力を得て、信長たちはようやく虎口を脱し、京へ逃げのびることができた。
◆
信長の戦いは続く。
余勢を駆る浅井、朝倉とは競り合いを重ねながら、同年六月に姉川にて浅井、朝倉連合の大軍と合戦に及び、これに勝利する。
連合軍の南下を抑えた信長は、浅井長政を介して北近江に調略の手を伸ばし、浅井を割って身動きを封じる。
だが、七月には三好三人衆が摂津に入り、反織田の兵を挙げる。
この討伐のため、信長は摂津に遠征を余儀なくされ。
その最中、中立を守ってきた大坂の石山本願寺が、三好三人衆につき、織田軍を攻撃し始めた。
さらに、石山本願寺法主顕如は信長包囲の手を伸ばす。
信長の命綱である津島、熱田の至近。伊勢国長島の衆徒に命令して、一向一揆をおこす……はずだった。
「織田を敵に回すとは、法主は正気か?」
「伊勢湾の要、熱田の山田正道は信長の妹婿だぞ!?」
「この長島に、山田殿に恩を受けておらぬ者など無いというのに……」
「それはいずこも同じよ。信長に反旗を翻してみろ! 伊勢湾諸港に背を向けられて、この長島は早晩干上がるぞ!?」
「法主も厄介なことをしてくれたものだ……」
「しかし、どうする?」
「形だけでも、一揆をおこすしかないのか……」
蜂起し、長島城を囲んだ一揆衆だが、アリバイ作り程度の、形だけのものだった。
信長は、彼らの事情をよく把握している。
正道に要請し、彼を使者として長島に送りこむと、一揆衆は無血で講和に応じた。
危機的状況を脱した信長は、一息つくと、慰労をかねて、熱田に訪ねてきた。
「そうかァ。浅井のは、姉川の合戦でぶん取った横山城から、手下どもォ従えようって格好かァ」
「すでに多くの国衆が織田に降っている。早晩浅井は決着がつこう。あとは朝倉、三好、本願寺。それから……浅井、朝倉に味方した延暦寺か」
「どうするんだァ?」
「三好は畿内から叩き出す。六角、朝倉、本願寺は、とりあえず講和できるなら許してもよいか。お主が伊勢長島を押さえてくれたから、ずいぶんと楽になった。このうえ長嶋まで一揆の手が回っていたらと思うと、冷や汗が出るわ」
「そいつァよかった。ところで織田のォ」
「なんだ、山田の」
「せっかく来たんだァ。三郎と三重の顔も見てやってくれよォ」
※
長政「浅井備前守長政、義兄信長の御危機に、竹生島より 泳 い で 参 っ た !!」
宇喜多秀家「!?」