不機嫌な57号
Part:57号
イブの様子がおかしい。元々彼女は口数少ないけど、でも昨日の夜以降まったく口を開いていない。彼女から流れ込む意識の方も混沌としていて、おまけにあの男、ウォルターとかいう、ふざけた野郎が何度も何度も出てくるのがムカツク。
あの野郎……彼女に何かしやがったのか?
老朽化して打ち捨てられたらしい10階建ての廃ビルの5階に僕たちはいる。始めてKEEP OUTの黄色いテープを無視して入った時は、内部の様子に愕然とした。実際酷かったんだ、入って早々埃だらけで、壁の一部のようなものと、まったく関係ないゴミがゴロゴロと転がっていた。何だここは? って、まるで世界の終わりのような光景に驚いた。こんな汚い場所が存在するなんて知らなかった。
外の世界がそんなに綺麗だった訳じゃない。楽しくもない色合いと、楽しそうでもない人間たち。驚く事はそりゃあったけど、思い描いてた世界からは大きくかけ離れていた。『外の世界』っていうだけじゃあ、希望なんか何も無い。
元は綺麗だったと思う塗装は、ボロボロ剥げてて気持ち悪い。壁には大きく落書きがあり、酷い言葉が書かれている。一つ一つ覗いて回った部屋は、広かったが大半は壁紙がだらしなく剥がれていた。置き去りにされた机やイスの多くが壊れ、そのまま埃をかぶっていた。
上の階に行くと部屋の雰囲気がかなり変わった。室内はいくつかに仕切られ、各部屋ごとに雰囲気が違う。壁に貼られた色あせた絵やポスター、服がたくさん捨てられている部屋もあった。放置された家具も様々だ。いずれも雑然として見苦しかったが、一つだけ違う雰囲気の部屋があった。特別部屋が綺麗な訳ではないが、他よりはマシだった。ベッドが二つと、低いテーブルと、真っ赤なソファが置きざりにされていた。
「赤い」
イブがそう呟き、僅かに心が弾んだのを感じた。本当ならここんな酷い場所は嫌だ。けど彼女の心が動くのは稀なんだ。イブは自分を守るために感情を閉じ込めた。
「ここにしようか」
だからここを僕たちの潜伏場所にした。僕は迷うのを止めたんだ、僕は彼女の思う通りにしてあげたい。
イブはお気に入りのソファで膝を抱えたまま動かない。考え事に釣られる目や口以外は微動だにしない。ウォルターとか言ったあの男、奴の言葉の何が、彼女をこんな状態にしたというのだろう? 訳の分からない、ふざけた腹立たしい台詞としか思えない。しかし、彼女から流れてきた意識は揺れ、僅かに温かいものを感じた。そして今も、時々朗らかな思いを感じる。
僕には分からない。ただ、奴の事は気に入らない。それだけは確実だ。
僕たちはたくさんいた。同じ顔、同じ髪、同じ肌、同じ目。だから僕たちは同じ物として扱われた。特別な存在の『イブ』そして、そのコピー。僕たちは彼女に掛かった開発費を回収するべく作られた廉価版だと耳にした。ふざけるな! と、言いたいところだが、それは違うと知っている。
僕にはずっと彼女の心、悲痛な叫びが流れてきていた。恨むなら彼女じゃない。羨ましいものでもない。恨むなら僕たちを創り、監視し、日々研究とやらに明け暮れている人間たちだ。羨ましいものも別に無い。
僕たちは皆、ネットワークで繋がっている。テレパシーと呼ぶ事もあるらしい。これは命令伝達のために意図的に植え付けられたもので、人間には本来存在しない能力らしい。EMNSと呼ばれている。『イブ・メンタル・ネットワーク・システム』それが正式な名前らしいんだけど、実はイブにこの能力は無い。
僕たちは液体を漂っていた頃から皆の存在を知っていた。それぞれが違う者だと知っていた。液体を出て、自力で歩けるようになり、言葉を覚え、考える力を持つようになると、研究者たちは蔑むべき存在だと思うようになった。だがこれは僕の場合だ。皆の考えはバラバラで、感じ方もそれぞれだ。
だけど僕たちがここに至るまでに、何人かが欠けている。僕たちはそれぞれが別の空間を与えられていて、直接会う事は滅多に無い。だがいなくなったのはハッキリと認識できる。ネットワークから存在自体が消えてしまうからだ。
皆の多くが人を視るのが好きだ。流れる意識には人の情報がいっぱい溢れている。研究者の言動、表情、そして癖。実際には見た事の無い人物の事まで皆よく知っている。始めは好奇心だった。だけど今は揶揄も多い。ミスやおかしな仕草を目にするたびに、細波のような嘲笑が広がる。僕たちは退屈だからな。
でも僕は少し違った。僕は一人一人を覗く事ができる。ネットワークで繋がった表層の意識だけでなく、その先の深層意識にまで干渉できる。だから僕だけがイブに気付いた。
彼女はネットワークに連なっていない。なのに席だけは用意されていた。オリジナルだから、という事だろうか? 正解は知らない。
僕はそこから先へと進み、彼女を探った。傷付いた心と押さえ込まれた怒り。そして意識の中に無数に浮かぶ記憶を探った。夢中になった。彼女を傷付けた原因であり、僕たちの未来の姿だ。腹が立つほど、憤るほどに目が離せなくなる。そして気付いたんだ。彼女は弱い、だから僕が守ってあげなければならない存在なんだと。
僕は彼女とのネットワークを構築した。僕が勝手に覗いていた事を彼女に気付かせ、彼女にもやり方を教えた。彼女はEMNSを使えない。だけど僕の作った新しいネットワークには存在する。
今、彼女の意識は戸惑っている。あの男の言葉、その一つ一つを思い出しては揺れている。汚らわしい、彼女は『男』の存在をそう蔑んでいた。なのに、違う感情の存在に気付いて戸惑っているんだ。
余計な事をしやがって。最近の彼女は僕だけを見てくれていたのに。『57号』って実際に呼んでくれる声が、どんなに嬉しかったか……なのに。邪魔だ、あの男。




