未来に向けて
Part:イブ
決行の当日、ウォルターからデータを書き換えた認証ブレスを渡された。そしてこの時から57号はクレール、私はアメリという名前になった。
この名前はただの名前ではなくて、実在する人から譲り受けたものだ。過去を捨て、まったく新しい人生を手に入れたいという姉妹のものだったらしい。私たちはこの人たちの過去と、これからを買ったという事になる。
自分の人生を、無かった事にしたいほど辛い過去というのは亡命の理由になり、これから先のどこかで落ち着く際に必ず必要になるものだ。そうウォルターはそう言っていた。私たちは人として生まれていない。だから自分を証明する物が無かったのだ。
何だか不思議な気分だ。呼ばれ慣れた『イブ』という名前は、私個人ではなく、私を創り出すためのプロジェクトの名前だった。でも皆が私を『イブ』と呼び、疑問なんて感じる事も無かった。途中までは。私は『イブ』と呼ばれるのが嫌だった。
幼い頃ザガリアは、人間で最初の女性にあやかって命名したと言っていた。そして、男を騙す悪い女の名であると後に聞かされた。
彼が私を創った本当の理由は彼の復讐。彼の叶わなかった思い。私はその女性に似せて創られたらしい。彼女に代わる復讐の的として。私は人ではない。彼の創った彼の所有物に過ぎなかったのだ。彼はずっと願っていた。私が酷い目に遭う姿を。そして私を育てながら、その時が来るのをずっと待っていた。
だから私は今日始めて自分の名前を持った。まだ慣れなくてくすぐったい。でも、嬉しかった。これからの私は人として生きるのだ。
隠れ住んでいたお店の3階から移動して、私たちはセカンドゲートへと向かった。ウォルターの運転する車に乗って、ビルの谷間の道を進んで行く。
私は移動の間ずっと外を眺めていた。色々なお店があって、閉まっているシャッターにも様々な面白い絵が描かれている。ダイナミックな構図で鮮やかで、怖い感じの絵もあったけど、何かを訴えているような力強さがあった。綺麗なテントが並ぶ市場もいくつか通り過ぎて、やがて全く建物の無い、ひたすら真っ直ぐ続く大きな道に出た。その周りは草原で、空がとても広かった。
この先に、セカンドゲートがあるのだと彼は説明してくれた。それがこの地上から外へと向かう玄関口。知識としてゲートは知っている。人を宇宙へと運ぶ唯一の交通機関。セカンドゲートは物を運ぶ業者の人たちが利用する場所で、ゲートと隣り合わせに作られているらしい。そして軍も独自のゲートを持っていて、彼は何度かそこから外に出た事があると話してくれた。私はもっと知りたくて、彼からその話を訊きたかった。でもその声は少し沈んでいて、だから訊くのを躊躇した。
宇宙はどんな場所なのだろう? そしてどんな場所に向かうのだろう? 私はとてもワクワクしていた。私の知らない場所が楽しみで仕方がない。ウォルターもいる、57……いいえクレールも。これからどんな事が待ち受けているのだろう? あの空の向こう、私の希望、知りたい事、やりたい事。私にはいっぱいあるもの。私って欲張りだったみたい。
セカンドゲートに到着し、ミランさんと彼の会社の方たちと合流した。用意された作業着に着替え、身長的に無理のあるクレールは従業員の子供として、運送用トルネードカプセルの、座席スペースに乗り込んだ。残念ながら窓は無かったけれど、モニターが前方上部に据え付けられていた。
アナウンスと発射のベルの後、振動と浮遊感を感じた。そしてモニターに映る陸が離れ小さくなってゆく。陸地の周りの青が海? 雲に入って真っ白になり、その雲も遠くなる。振動があって驚いたけど、エンジンという推進力を生み出すものが稼動を始めたらしい。外はとても美しい青い世界になっていた。見とれていると再びアナウンスが鳴り、ターミナルへの到着を予告した。
到着した後は荷物をミランの船に積み替えて、デイドリームという星に向かうのだそうだ。そこは綺麗な海が広がる、素晴らしい場所だと教えてもらった。一体どんな場所なのだろう? 私は人魚姫の暮らす美しい海中の世界を思い浮かべた。
最後は悲しい御伽噺だったけど、憧れていた。自分が生き延びるために、愛する人を不幸にはできない優しさと強さ。大切な人には幸せであって欲しい。その健気な思いが……私をずっと苦しめていた。
ミランさんは荷物を運び入れている間に、自分の船を紹介してくれた。『エタニティー・ウインド』悠久に続く風のように。と、少し照れながらだったけど、私はとても素敵だと思う。協力してくれる彼の意思そのものを表す名前だと感じる。船はその名前を体現するように、青く塗られた船には白く流れるようなラインがあった。とても大きい。宇宙を駆ける船はこんなに大きいものなのかと、とても圧倒されてしまった。
そのうちに、搬入が終わったとの報告が入り、私たちは船に乗り込んで出航の順番が来るのを待つ事になった。ウォルターは少し落ち着きが無くて、クレールはぼんやりしていた。そしてやっと順番が巡ってきた。でもすぐミランさんたちの様子に異変が起きた。
「信号が赤に変わった」
出航許可が出た船は、赤から緑に変わるものらしい。一度赤から緑に変わったものが、再び赤に戻されたのだ。操縦室全体に緊張感が満ちていく。
「どういう事だ?」
ウォルターがそう訊いた。
「ターミナル側のミスか、トラブルならいいんだが……」
ミランさんも緊張した面持ちで答えていた。何が起きたのだろう? 無事に出航できるのだろうか? 不安が膨らむ。皆も不安な面持ちをしていた。そして通信が入った。
「エタニティー・ウインド号、こちらターミナル管制室。宇宙軍からの要請により、貴艦のチェックを敢行する」




