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 午後の教室で、夏の制服に身を包んだ生徒たちは教師がのんびりと教科書を音読するのを聞いている。

 窓の外からは本格的な夏を知らせる油蝉の鳴き声が聞こえる。生徒たちは夏休みを目前にして、油蝉が威勢よく鳴けば鳴くほどにじっとしていられないような気持ちになっていた。

 開け放たれた窓から、強い風が吹きこみ、パラパラと風が頁をめくっていく。

「おお、今日はとびきり風が強いなぁ」

 教師が外を見つめると、生徒たちは風がめくった教科書を戻しながら、教師の視線の先を一緒に追った。校庭の木々がザワリと揺れている。

「きっと今夜は星がたくさん見えるだろうなぁ。……さて教科書に戻ろう、八十二ページ。先住民の話だったな」

 教師は教室の中をゆっくりと歩みながら授業を再開したが、碧は窓の外から視線を戻せないでいた。揺れる木々や、風に乗る鳥たちが気持ちよさそうで、その様子を眺めていると自分も強い風を受けているような気分になれるのだ。

(こんな強い風に乗れたらどれほど気持ちがいいだろう)

 うっとりとそんなことを思っていると、「こら碧、どこ見てるんだ」と教師の声が飛んできた。クスクスと笑い声がさざ波のようにクラスを包む。碧はハッとして教師を見ると、彼は苦笑しながらパンパンと教科書を手で叩いてみせた。

「八十ニページ。伝聞からみる先住民―」

 教師が教科書を読み始めた時、また強い風が吹き込んだ。

 碧は反射的に窓の外に目を向けた。鳥たちが強風を避けて上空に避難しているのが見て取れた。

 木々がしなやかに風に乗って揺れている。

「おお、本当に今日は風が強いな。碧、お前はまたこりずに外を見て。郷土史だからってバカにするとテストで痛い目をみるぞ。それにお前の家は旅館なんだから郷土史にくわしいにこしたことはないだろう。ほら、読んでみろ」

「はい」

 言われて、碧は立ち上がり教科書を音読しはじめた。

 碧の落ち着いた声が教科書を読みあげていく。黒髪に黒い瞳に白い肌。少年らしい痩身はすらりと伸び育ちがよく、同い年の少年たちと比べると品のある碧の立ち姿。教師は満足そうな顔をしてしばらく碧を見つめていたが、視線を戻し教科書を追った。夏休みを迎える前にもう少し授業をすすめておきたいが、生徒たちが浮き足だってそわそわしているので、どうしたものか考えていた。普段は物静かで大人びて見える碧ですら、ずっと外ばかり眺めて気が気でない様子なのだ。もう生徒たちの頭の中は夏休みなにをして遊ぶのかで一杯だということは火を見るより明らかだった。

 十五歳という年齢を鑑みればそれは致し方ないことなのだろうけれど、教師の使命として授業を進めることを考えなくてはいけない。教師は小さくため息をついた。

「―というように、先住民の存在を確定する史実は乏しい」

「はい、そこまで。そう、このようにこの町に先住民がいたという証拠はない。けれど、語り継がれる昔話の中には風を操る民族が度々登場します。空を自在に飛ぶことのできた民族。背中に羽根が生えていた、ともいわれています。これをただの伝説だと言い切るのは、先生は少し淋しいなぁ」

 教師はパタンと教科書を閉じると、「さて、明日からは少し授業を急ぐぞー。はい、今日はここまで」と告げるとワッと生徒たちが浮き足だった。

 本日最後の授業が終わったとあって、生徒たちはそわそわしはじめた。ひそひそと隣のものと話し始める生徒や、鞄に教科書をしまい始める生徒の姿が見えた。

「こらー、まだ終わりの会が終わってないだろー。このまま終わりの会やるから、もうちょっと座ってろ」

 教師の言葉もどこまで届いているものか、生徒たちの気はそぞろだ。

「碧っ!今日帰りに町の図書館寄って行こう」

 隣の席の川島が自分の机からそばかす顔を近づけて碧に話しかけてきた。髪の色は黄の強い茶で肌は白い。夏になると川島の頬にはそばかすが目立ってくる。

 碧は普段本なんて読まない川島が図書館に行こうなんておかしいなと思いながら、「図書館?」と聞き返す。

「そう、あそこで大鷹が新しいヤックゥー作ったから飛ばそうって。今日は風に乗ってきっと高く上がるよ。碧も行こう!」

「いいね。でも、今日は家の仕事があるからだめなんだ」

「旅館?」

「そう。大鷹のヤックゥーがどんなんだったか見ておいてよ。僕のヤックゥーも改造してもっと上がるようにしたいから。大鷹にもよろしく言っといて」

「おう、わかった」

 川島はそう言いながら自分の鞄に教科書を詰め始めた。終わりの会なんてちっとも聞いていない。川島の頭の中には風に乗って大空に高く舞うヤックゥーのことでいっぱいに違いないのだ。碧はそんな川島を横目で見て苦笑した。

「あ、終わった。じゃあ、オレいくから!」

 終わりの会が終わると同時に、川島は自分の鞄をつかんでクラスから走り出した。きっとこのまま大鷹と合流するのだろう。川島の後ろ姿を見送って、碧は小さくため息をつき、自分の鞄に教科書を詰め始めた。

 本心は行きたかったけれど、家の仕事をさぼるわけにはいかない。旅館の女将を務める祖母は、旅館の仕事のことを、「家のお手伝い」だというと怒る。

―家のこととはいえ、時間給をもらってお客様の前に立つのだから、お手伝いではなく仕事ですよ。

 というのが祖母の言い分で、もっとも過ぎて碧には言い返す言葉がない。

 しかし時間給といってもほとんど形ばかりのもので、大人と同じように給金がもらえるわけではない。だからって文句は言えない。そもそも祖母に口で勝てるなんて思ってもないので、納得したら黙ってうなずくだけだ。

 今日は仲居さんが一人体調不良で来られなくなったから人出が足りないのだ。本格的な夏を前にして、旅館は盛況している。ありがたいことだが、忙しいことにかわりはない。

(仕事は嫌いじゃないんだけどね)

 自分への言い訳のように胸の中だけでつぶやいて、碧は家路を急いだ。

 そんな碧の柔らかい黒い髪を、制服の袖を、町の合間を、ザァッと風が吹き抜けていく。力強く吹く風に(このまま風に乗ってみたいな)と目を細めた。



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