雨と共にきみは来たる
「センパイ、お風呂貸してください」
予報外れにやってきた嵐と共に、櫻庭陽紀の住むアパートの一室に鶴岡皐月が現れた。
どろどろに溶けかけているメイクに、ボリュームを失ったミディアムボブ。肌に張り付いて赤裸々に輪郭を露にしている服と、まさしく濡れ鼠と呼ぶにふさわしい風貌。一見すれば雨具の類をどこかに置き忘れた哀れな少女に見えるが、それが正しい認識ではないと陽紀は既に気づいている。
けれど、皐月が何らかの意図でわざと濡れてきたとして、十一月の冷たい雨の中に送り返すことは陽紀にはできなかった。
「お湯沸いてるから、さっさと入りなさい」
渋々といった仕草で出迎える陽紀の横を、皐月はわーいなんて歓声を上げながら通り抜けていく。
案内するまでもなく洗面所へと向かう皐月は、邪魔と言わんばかりにびしょ濡れの服を脱ぎ始めた。家主でももう少し恥じらいがあるだろう。乙女の秘所を隠す派手な色の下着のみを残して、皐月の姿はようやく洗面所の影へと消えた。
程なくして聞こえてくるシャワーの流れる音とよく通る鼻歌を耳にしながら、陽紀は通り過ぎた嵐の跡を片づけ始めるのだった。
◇
陽紀が初めて皐月を拾ったのは半年前、大雨の降る夜のことだった。
気まぐれに参加した飲み会の帰り道。予報外れの雨に慌てふためく人々を尻目に、折り畳み傘を差して家路へとついていた陽紀は、通りがかった公園の隅に置かれたベンチにぽつねんと座る人影を見つけた。
降られてもう長いのか、すっかり全身雨にやられてしまっている。肩を落として目線も下。明らかに何らかのバッドイベントを経験したのだろう人影は、陽紀の記憶にわずかばかりのノイズを生じさせた。だが、どこで会ったのかが全く思い出せない。
陽紀は止めていた足を再び動かした。思い出せない程度の人間なら知らぬふりしても然したる影響もないだろう。ならば面倒ごとを抱えるのはごめんだった。
しかし、一瞬の逡巡を偶然の女神は見逃さず、ベンチに座る人影、びしょ濡れの少女が顔を上げた。目線がばっちりと交わされる。少女の記憶には陽紀の姿が残されていたのだろう、ぺこりと軽く会釈をされた。
向こうから認知されている状態で知り合いと思しき人間を無視出来るほど、陽紀は冷血漢になり切れなかった。
「あー、うちくる?」
◇
その後のやり取りで陽紀は皐月に当時の心境を聞かれた。
「……なんで拾ってくれたんですか? 手間でしかなかったと思いますけど」
「子供の頃、なんでか近所に捨て犬が多かったんだよ。律儀に段ボールの中に納まってるのが可愛くて拾ってあげたかったんだけど、残念ながら両親がアレルギー持ちで拾えなかったんだ」
あんたはその代わり、と締める陽紀に対して不満げに眉を顰めた皐月。その影にぶんぶんと振られる尻尾を幻視して、笑いを抑えるのに必死だったのは陽紀のみが覚えている。
◇
それからは特に特別なことは何もなく、翌朝に皐月は陽紀の部屋を出た。
それで二人の交流は終わり、のはずだったのだが、以降も予報外れの雨が降る日にはずぶ濡れになった皐月が陽紀の部屋を訪れる様になった。
「自分の家はどうした」
「センパイが拾ってくれちゃったんで曖昧になったんです。責任取ってください」
餌付けされた捨て犬のようなことを言い出した皐月に、飼い主の自覚が湧き始めていた。
「うちに来るのは別にいいけど、なんでまたびしょ濡れなの? 折り畳み傘くらい持っておけばいいのに」
「手が塞がるのが嫌なんですよ。子供の頃からよく転んじゃうんですけど、片手じゃ受け身取りづらいじゃないですか。だからって合羽を着るのは可愛くないし、それなら濡れたほうがましだと思いません?」
妙にアメリカンだなと思う陽紀だったが、皐月の故郷は東北地方の山奥にあるとのことで、地元の風習という訳ではなく単に変わった子なのだと納得することにした。
◇
廊下をあらかた片づけ終わったところで、風呂から上がってきた皐月に連れられて陽紀はリビングに戻ってきた。
すっかり陽紀と同じ匂いを漂わせるようになった頭を揺らしている皐月。未だ湿りを帯びた髪の毛を乾かすのも陽紀の仕事だ。手早くドライヤーを用意して風を当てる。手櫛を通せば細い髪は何の抵抗もなくするすると逃げていく。日頃から丹念なケアを欠かしていないのだろう。
「センパイってドライヤー使うの上手ですよね。お店でやってもらうのより気持ちいです」
「流石に本職には適わないわよ」
「えー、そうですかね? センパイ、手つきが丁寧で爪が当たったりしないし、指も細くてサラサラしてて、これ以上ないって感じ」
風呂上がりの皐月は綿あめのような声で陽紀を褒めそやす。甘くてふわふわで、心地いい耳触りに輪郭を失いそうになる。直接触れ合っている今は、なおさら。
「それにしても、冬の夜にずぶ濡れで外を歩くのは自殺行為だと思う」
「そうですよね、向こうじゃ冬は雪だったから濡れて冷えるってことはなかったから想定外です」
話題を変えた陽紀に対して、少し硬くした声でどうしたもんか、と皐月が返す。
「しばらくは引きこもり生活かもですね」
ここまで来ても傘を差すという選択肢は皐月の中にないらしい。
以前、朝から雨が降っていたらどうするかを聞いてみたが、本当に一歩も外に出ないとのことだった。ひと昔前であれば通用しない生き方だろう。いい時代になったのか、寛容さの生んだ歪なのか。陽紀には判別がつかなかった。
しばらくしてドライヤーの音が途切れると、皐月はそのままベッドへと潜りこんだ。その振る舞いに最早指摘は入らない。二人にとっていつも通りの流れとなっていた。
陽紀は自らも風呂へと入るべく立ち上がる。
「センパイ、私のこと置いてっちゃうんですか? 今日こそお部屋にイタズラされても知りませんよ?」
意味ありげに目を細める皐月を背に、一言だけ残して陽紀は部屋を出ていく。
「そんなことしないわよ、あんたは」
◇
陽紀が風呂から上がった時には皐月は既に眠っていた。温かくなるとすぐに寝てしまう、赤ん坊のような体質だと割と早い段階で気づいていた。
「ほんと、泊め甲斐のない奴」
陽紀は寝る準備を済ませると、普段より軋みの激しいベッドに潜り込んだ。隣から聞こえる寝息は穏やかで警戒心の欠片も感じられない。ここまでリラックスされたら毒気なんて抜けてしまう。
陽紀は静かに目を閉じた。
◇
翌日、朝と呼ぶには少し早い時間に皐月は帰路へとついた。土曜の朝ということで人の気配は当然のように薄い。陽紀に借りた可愛らしい服も皐月の気分を高揚させるだけで、誰かから褒めそやされることはない。
陽紀の部屋から帰る時、皐月の手にはビニール傘を持たされる。
「雨の中、傘も持たせずに女の子を追い出すなんて、世間体が悪いなんてもんじゃないでしょ」
何度もいらないと言ったのだが、陽紀の言い分に押されてこの帰り道だけは傘を使うようにしている。
実際、可愛らしく着飾った姿を好き好んで崩したいわけではないし、本当のことを言えば皐月は傘がそこまで嫌いではなかった。パラパラと傘を打つ雨音なんかは好きだし、人に差してもらえるのなら最高だと思っている。
では何故、陽紀に対して傘が嫌いであるなんて言っているのか。偏にそれぐらいしか言い訳が思いつかなかっただけなのだ。
鶴岡皐月は櫻庭陽紀に恋している。初めて出会った日に。
◇
大学に入学して間もなくできた友人と一緒に入ったサークルが、男女の人間関係を構築するのを目的としたあまり治安のよくないサークルであると皐月が気づいたのは、歓迎会が開始してすぐのことだった。
新入生である自分たちの前にしれっと置かれた、嗅ぎ慣れない匂いの漂う飲み物。友人たちはそれを何の躊躇もなく飲み干し、先輩たちとの話に花を咲かせている。彼らと同じように振舞うには皐月の理性は頑強過ぎた。
皐月が己の心境を表す様に座敷の隅で固まっていたところ、隣に上級生と思しき女性が座った。黒い髪を後ろに束ねた、すらりとした印象を人に与える見た目をしている女性。それが陽紀だった。
「飲んでないじゃん。お酒苦手?」
「あ、いえ。未成年なので」
「あー、もしかして。うちのサークルのこと何も知らずに来た?」
陽紀の問いに皐月はコクリと頷く。それで得心が行ったのか、陽紀は皐月の分の飲み物を一息に飲み干すと、皐月の手を取って店を出る素振りを見せた。
「あの、友達が」
「いいよ、どうせこっちのことなんて気にしてないし。それにここじゃ途中でふけるのなんて日常茶飯事だから」
そうして二人は座敷を後にした。途中、サークルメンバーらしき男性とすれ違った。軽薄そうな雰囲気を醸す男性は、皐月の手を握り外へと向かう陽紀を一目見て、にやりと笑った。
「なんだよ、櫻庭。もうお持ち帰りか。まだ飲んでけばいいのに」
「うるさいな、パンピー巻き込んでたから帰しに行くとこだよ。あんたらの不始末なんだからあたしの分の支払いはよろしくね」
鬱陶しそうに返事をし、陽紀は皐月と共に店を出た。
店を出て、飲み屋街を抜け、駅前まで皐月は手を引かれて歩いた。その間、一度たりとも早足になることはなく、人とぶつかりそうになることもなかった。完璧なエスコートだった。
陽紀は皐月の手を離して向きなおった。
「よし、ここまで来れば一人で帰れるでしょ」
「あ、はい。あの、ありがとうございました」
頭を下げる皐月に陽紀は鷹揚に手を振る。
「いいって。むしろ巻き込んじゃったみたいだから、そのケアはやって当然のことでしょ。じゃあね、次からはああいう悪いのにはついていっちゃだめだよ」
それだけ言って陽紀は歓楽街の方へと消えていき、しばらくして皐月も帰路につくべく駅へと向かった。
その日から、皐月の思考のどこかに陽紀の姿があった。日常の至る所で陽紀がいたらどうなるだろう、そんな夢想が頭から離れなかった。窮地を救ってもらったというありきたりな理由ではあるが、紛れもなく皐月にとって初めての恋だった。
尤も、皐月はサークルに加入しなかったし、仮に参加していたとしてもごく偶に現れるだけの陽紀と出会うまでに数か月はかかり、その間に皐月の勘違いにも似た好感は薄れていただろう。
だから、雨の日の夜に二人が出会ったのは、偶然ではあれど運命的と言えた。
再会して以来、皐月はわざと雨に濡れて陽紀の部屋を訪れている。それは単に名目欲しさに雨の日の夜を選んでいる訳だが、何もそれが理由の全てではない。びしょ濡れの皐月を甲斐甲斐しく世話する陽紀の顔が陽光のようで、その温度に触れたくて予報外れの雨を今か今かと待ちわびているのだった。
◇
陽紀の部屋から帰る道すがら、皐月は昨晩の様子を思い返していた。
髪を乾かしてもらっている間のやり取りは、我ながらうまく出来たと思っていたのだ。しかし、陽紀の反応は芳しくなかった。尤も、これまで何度か陽紀の部屋で同じようなやり取りをしているのだから、予想通りとも言える。
幾度とアプローチしても暖簾に腕押し。皐月は、自分は大きな思い違いをしているのではないかと思考した。
それは、陽紀は女性を恋愛対象として見ていない、ということではない。
何故ならばあの日、皐月は確かに聞いたからだ。
「なんだよ、櫻庭。もうお持ち帰りか」
店を出る前にすれ違った男性は、陽紀に対してこう言った。
つまり、陽紀は女子をお持ち帰りしても違和感のない人間である、ということだ。
故に皐月の脳裏に去来した不安は、既に陽紀に嫌われてしまっているのではないか、だった。
しかし、冷静に考えればそれもない、と思っている。嫌っている人間が部屋を訪ねてきて、しかも全身ずぶ濡れ。自分なら一度たりとも迎え入れたりしない。皐月は何度目かも分からない自問自答に、全く同じ答えを出した。
だからこそ、皐月は悩み続けている。
もう一つ、皐月は疑問を抱えている。服についてだ。
今、皐月が着ているのは陽紀に貸し与えられた服で、皐月が部屋を訪ねるようになってからは前の日と同じ服を着て帰ることはなくなった。着ていった服は陽紀の部屋で洗濯されるのだが、皐月が訪ねる時間に洗濯機を回すのは賃貸マンションである陽紀の部屋ではマナー違反になってしまう。そのため、次の日以降に大学で返却されるのが常だ。
それはさておき、陽紀に借りた服は、一言で言うのであれば可愛かった。ふわりとしたシルエットのセーターとミニ丈のフレアスカート。寒くないように厚手のタイツを履いて、足元は底が厚めの編み上げブーツ。未だ子供らしさを残す陽紀には、業腹ながらとてもよく似合っていた。
だが、本来の持ち主である陽紀がこの装いをしているところを皐月は想像できなかった。それに、今まで会った陽紀はカジュアルで飾らない格好をしていた。
ならば、この服は一体何を目的として買われ、皐月に貸し出されているのだろう。
しかし、皐月の思考はそこから先に進まなかった。
「センパイが可愛い服着てるとこ、見てみたいかも」
恋人になれば見せてくれるだろうか。いつか至るかもしれない未来を夢想して、皐月は自室の扉をくぐった。
◇
「ほんと、早く気付かないかな」
◆
陽紀は寝ぼけた頭を動かして皐月の置いていった服を洗濯する。皐月が部屋を出てから一時間程度で陽紀の元にはこれしか残らない。体温はおろか、匂いすら雨と風呂で落とされていて、服にも布団にも残滓は一切感じられない。
最後に残された服も数日すれば皐月の下に帰る。自ら皐月のいた痕跡をなくしていくこの作業は、髪の長さを整えるべくハサミを動かすのにどこか似ている。
皐月は昨日も自分たちの関係性について明言しなかった。それが皐月が陽紀に対して何も思っていないわけではないことを陽紀は既に理解している。陽紀が皐月の言葉を待っているように、皐月も陽紀から踏み込まれるのを待っていることも、当然分かっている。それでも、確信を得られないまま関係性を不可逆に変えてしまうのは、陽紀にとって本位ではないのだった。
皐月にとって陽紀は一体何なのかが分からない。陽紀に親友や姉、母親のような役割を求めているのであれば今の距離感こそ正解で、一歩踏み込めば決してもとには戻れない。致命的な亀裂は避けられない。
だから陽紀は踏み込まない。現状維持で皐月を出迎え続ける。
大体、風呂を沸かして待っていたり、似合う服を用意していたりしているのだから、それで気づかないものだろうか。
益体のない思考が増え始めたところで、大きな音を立てて洗濯機が動きを止めた。手早くハンガーにかけ、後は浴室乾燥機に任せる。この調子であれば週明けには本来の持ち主の下へと返せるだろう。
さて、今日は土曜日、休日だ。雨の日だろうと買うべきものと買いたいものがあれば陽紀は外出を躊躇わない。
ならばと意気込んで、陽紀は外へと出るべく準備を始めた。
皐月に着せたい服とビニール傘を買うために。
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