後半
第五章 母の指
母は、夜にピアノを弾かない人だった。
有栖川響子にとって、音楽は人に聴かせるものではなく、整った生活の一部だった。朝食後の三十分。午後の来客前の十五分。時間はいつも決まっていて、曲目も決まっていた。季節に合わせて選曲するような遊び心はない。弾くべき曲を、弾くべき時間に、乱れなく弾く。
澪は幼い頃、その音を階段の陰で聞くのが好きだった。
母は人前で娘を抱きしめるような人ではない。褒める言葉も少ない。澪が百点を取っても「当然です」と言い、発表会で失敗せずに弾き終えても「姿勢が少し崩れたわ」と指摘した。
それでも、母のピアノには、時々やわらかい音が混じった。
澪はその音を覚えている。
特に、幼い頃に熱を出した夜のことを。
八歳だった。季節外れの高熱で、澪は三日間寝込んだ。父は出張中で、美咲はまだ小さく、母は一晩中澪の部屋にいた。氷枕を替え、水を飲ませ、額に手を当てた。その夜、澪が眠れないと言うと、母は部屋の隅にあった小さな電子ピアノで、短い曲を弾いた。
有名な曲ではなかった。
母が若い頃、自分で作った旋律だと言っていた。
題名はない。
澪はそれを「眠る前の曲」と呼んでいた。
母はたぶん、もうその話を覚えていない。いや、今は澪のこと自体を覚えていない。けれど、指はどうだろう。頭で忘れていても、長く弾いた音は、身体のどこかに沈んでいるのではないか。
ホテル椿山グランテラスを出たとき、夜はすでに深くなっていた。
澪の存在値は二十七。
朝、屋敷を追い出されたときの十二から見れば、信じられないほど戻っている。だが、安心できる数字ではない。蓮司によれば、一般的な成人の存在値は、低くても六十から八十程度はあるという。家族や職場、住所、金融機関、医療記録、日常的な認識の積み重ねが、人の輪郭を支えている。
澪はまだ、半分にも届いていない。
数字が増えたことで、世界との接点は少し戻った。ホテルの警備員は澪の名を呼んだ。式場の紙には筆圧痕が残っていた。蓮司は、雨の日の記憶を取り戻した。
けれど、母はまだ、澪を知らない。
それをどうにかしなければならなかった。
「今夜、行くのは危険です」
ホテル近くの路上で、蓮司はそう言った。
「わかっています」
「有栖川宗一郎氏は、こちらが式場の証拠を得たことをまだ知らないかもしれません。ですが、庁の回収班がホテルに来た以上、遠からず伝わります」
「だから、今夜行きます」
澪は答えた。
自分の声が意外なほど落ち着いていることに気づいた。
「明日になれば、父は母に再補正をかけるかもしれません。美咲にも。屋敷の記録も処分されるかもしれない」
「その可能性はあります」
「なら、時間がありません」
蓮司は何かを言いかけたが、やめた。
それから、静かに頷いた。
「一緒に行きます」
「危険では?」
「危険です」
「なら」
「行動で証明すると言いました」
澪は一瞬、言葉を失った。
蓮司は真顔だった。冗談ではない。記憶が戻り切っていなくても、彼は今、自分の言葉を守ろうとしている。
それが嬉しいのか、苦しいのか、澪にはわからなかった。
昔の蓮司なら、同じことをしただろう。
だが、昔の蓮司は、澪を忘れることに同意した書類に名前を残している。
信じたい気持ちと、信じるのが怖い気持ちが、胸の中で絡まり合っていた。
「蓮司さん」
「はい」
「私は、あなたをまだ許していません」
「当然です」
「でも、今は頼ります」
「はい」
「それは許したという意味ではありません」
「理解しています」
その返事の律儀さに、澪は少しだけ笑った。
「本当に、あなたらしい」
蓮司は困ったように目を伏せた。
「そう言われるたびに、申し訳なくなります」
「思い出せないから?」
「はい」
「では、もっと申し訳なくなってください」
「努力します」
「そこも真面目に返すんですね」
わずかな会話だったが、澪の呼吸は少し楽になった。
ホテルから有栖川邸までは、タクシーで二十分ほどだった。
今ならタクシーは止まるだろうか。存在値が上がったとはいえ、本人確認や決済はまだ不安定だ。蓮司が支払うと言ったので、二人はホテル前のタクシー乗り場へ向かった。
タクシーの運転手は、今度は澪を見た。
「お二人ですか」
その何気ない一言に、澪は胸を突かれた。
お二人。
自分が人数に数えられた。
ただそれだけで、救われるような気持ちになる。
蓮司が行き先を告げると、タクシーは静かに走り出した。
車内で、澪は窓の外を見ていた。夜の街は雨のあとでもないのに、どこか濡れているように光っている。ビルの窓、信号、コンビニの看板、走り去る車のテールランプ。どれも輪郭がはっきりしている。
自分の輪郭だけが、まだ不安だった。
蓮司は隣でスマートフォンを操作していた。
「何をしているんですか」
「有栖川家周辺の監視情報を確認しています」
「そんなことができるんですか」
「正規の照会ではありません」
「違法ですか」
「微妙です」
「また微妙なんですね」
「はい」
澪は小さく息を吐いた。
「蓮司さんが、どんどん不良官僚になっていきます」
「あなたを消す側にいるよりはいい」
蓮司は画面から目を離さずに言った。
澪は返事ができなかった。
その言葉が、思ったより深く胸に触れた。
タクシーは高台へ向かって坂を上る。有栖川邸の近くまで来ると、澪の身体は自然と強張った。朝、追い出された場所。昼、忍び込んで父の契約書を見つけた場所。美咲が「お姉様」と呼んでくれた場所。
そして、母が澪を「そう呼ばないで」と拒絶した場所。
門の手前でタクシーを降りた。
蓮司が支払いを済ませる。運転手は「ありがとうございました」と言って、澪にも軽く頭を下げた。
澪はその動作を見送った。
今なら、他人には見えている。
では、母にはどうだろう。
有栖川邸の窓には、いくつか明かりが灯っていた。玄関ホール、二階の廊下、そしてサロン。母がよくピアノを弾く部屋だ。
澪は息を呑んだ。
「サロンに明かりが」
蓮司も見上げた。
「誰かいますね」
「母かもしれません」
「正面から行きますか」
澪は首を振った。
「父に見つかれば終わりです。裏から入ります」
「また不法侵入ですね」
「私の家です」
「現行記録上は」
「言わないでください」
「すみません」
二人は塀沿いに歩いた。昼と同じ裏手の通用門へ向かう。澪が門柱の隙間に手を入れると、掛け金は下りていた。
だが、昼と違って固い。
何かが引っかかっている。
蓮司がライトを当てる。
「内側に補助錠がかけられています」
「父が?」
「昼の侵入に気づいて対策したのでしょう」
澪は唇を噛んだ。
「他に入る場所は?」
「勝手口は警戒されている可能性が高い。窓も閉められているでしょう」
澪は屋敷を見上げた。
子どもの頃、美咲と遊びで作った抜け道がある。庭の西側、古い温室の裏。そこから床下点検口を通って、物置に出られる。父も母も知らないはずだ。知っているのは澪と美咲だけ。
いや、美咲は忘れているかもしれない。
澪だけが覚えている。
「西側の温室へ」
「入れるんですか」
「たぶん」
「たぶん?」
「子どもの頃の記憶なので」
「信用します」
「迷わないんですか」
「あなたの記憶を信用します」
その言葉に、澪は足を止めそうになった。
自分の記憶を信用する。
世界中が澪の記憶を否定している中で、それはとても大きな言葉だった。
温室は、屋敷の西側の庭にあった。今はほとんど使われていない。祖母が生きていた頃は蘭を育てていたというが、現在は古い鉢や園芸道具が置かれているだけだ。
塀の一部に、蔦が絡んだ低い場所がある。澪はそこに手をかけた。
「登れますか」
蓮司が心配そうに言う。
「子どもの頃は登れました」
「今は?」
「登ります」
澪は靴の先を石の隙間にかけた。ドレスではなく地味なスカートでよかったと思った。身体を引き上げる。塀の上に手が届く。蓮司が下から支えようと手を伸ばしたが、澪は首を振った。
「大丈夫です」
自分で越えたかった。
ここは、自分の家だった。その塀を越えるのに、誰かに持ち上げてもらうのは悔しかった。
塀の上に身体を乗せ、反対側へ降りる。着地の瞬間、足に痛みが走ったが、声は出さなかった。蓮司も続いて越える。彼の動きは思ったより軽かった。
「運動、苦手ではないんですね」
「得意ではありません」
「でも、今のは得意な人の動きでした」
「公務員にも色々います」
「さっきも聞きました」
小声のやり取りが、夜の庭に溶けた。
温室の裏へ回る。
記憶通り、床下点検口はあった。錆びた金属板が、半分ほど草に隠れている。澪はしゃがみ込み、草を払った。取っ手に指をかける。固い。蓮司が手を添え、二人で引くと、重い音を立てて開いた。
湿った土の匂いが上がってきた。
「ここを通るんですか」
蓮司が言った。
「嫌なら正面からどうぞ」
「行きます」
澪は先に潜り込んだ。
狭い。暗い。子どもの頃は秘密基地のように感じたが、大人の身体では身を屈めるだけで精一杯だった。床下を這うように進む。服に土がつく。髪に埃が絡む。膝が痛い。
それでも、澪は不思議な安心感を覚えていた。
この通路を、自分は知っている。
存在管理庁の記録が消しても、家族写真から姿が消えても、この床下の狭さを身体は覚えている。ここで美咲が蜘蛛を見て泣いたことも、澪が「お姉様が先に行くから大丈夫」と言ったことも、思い出せる。
記憶は証拠にならない。
だが、進む力にはなる。
やがて、物置の床板の下に出た。
澪は板を押し上げた。上に物が乗っているらしく、少し重い。蓮司が下から支え、二人で押す。板がずれ、薄い光が差し込んだ。
物置には誰もいなかった。
澪は床下から這い出し、服の埃を払った。蓮司も続く。彼のコートの袖に蜘蛛の巣がついていたので、澪は思わず手を伸ばして払った。
蓮司が動きを止めた。
「すみません」
澪は慌てて手を引いた。
「いえ」
蓮司は自分の袖を見て、それから澪を見た。
「前にも、こういうことがありましたか」
「蜘蛛の巣を払ったことですか」
「いえ。あなたが、私の服についたものを自然に取ることが」
澪は一瞬考えた。
「ありました。式場の下見の日、あなたの肩に桜の花びらがついていて」
蓮司の目が揺れた。
「春」
「はい。ホテルの庭で」
「あなたは、薄紫の服を着ていた」
澪の息が止まった。
「思い出したんですか」
「断片です。庭。桜。あなたが笑っていた」
「その日、初回申込をしました」
「……紙に名前を書いた日」
「はい」
蓮司は目を閉じた。
「すみません。まだ、そこから先が霞む」
「いいです」
澪は言った。
「戻ってきています」
現在の存在値を確認したかったが、今は音を立てるのが怖かった。澪はスマートフォンを出さず、物置の扉に手をかけた。
廊下は静かだった。
サロンは一階の南側にある。物置からは近い。途中で父や使用人に見つかる可能性はあるが、幸い廊下に人の気配はなかった。
サロンに近づくにつれ、ピアノの音が聞こえてきた。
澪は立ち止まった。
母が弾いている。
曲はショパンだった。母が客の前でよく弾く曲。均整が取れていて、少し冷たい音。間違いはない。テンポも乱れない。けれど、澪が好きだった音ではなかった。
扉が少し開いている。
中を覗くと、母がピアノの前に座っていた。
有栖川響子は、昼間と同じように隙のない姿をしていた。淡いグレーのワンピース。真珠のイヤリング。背筋はまっすぐで、指先だけが鍵盤の上を動いている。
部屋には他に誰もいない。
澪は扉の前で呼吸を整えた。
朝の母の声が蘇る。
そう呼ばないで。
澪は胸が痛くなった。
蓮司が小声で言った。
「無理はしないでください」
「無理をしないと、戻れません」
澪は扉を押した。
音は小さかった。
それでも母の指は止まった。
響子がゆっくり振り返る。
澪を見た瞬間、母の顔に緊張が走った。
「あなた……」
朝と同じ呼び方だった。
名前ではない。娘でもない。ただ、そこにいる不審な女。
澪は一歩、部屋に入った。
「こんばんは」
母は立ち上がった。
「どうやって入ったの」
「お願いです。少しだけ話を聞いてください」
「警備を呼びます」
「その前に、一曲だけ弾かせてください」
母の表情が変わった。
「何を言っているの」
「ピアノを」
「出ていきなさい」
「お願いします」
澪は頭を下げた。
「一曲だけでいいんです。それで何も思い出さなければ、出ていきます」
母は澪を見つめた。
その目には恐怖と警戒があった。だが、同時に何か別のものもあった。朝よりも、わずかに揺れている。式場の証拠によって存在値が上がった影響かもしれない。澪の輪郭が、母の中で少し濃くなっているのかもしれない。
「なぜ、私の家のピアノを弾きたがるの」
「この家で、母に教わった曲があるからです」
響子の顔がこわばった。
「母?」
澪は頷いた。
「あなたです」
「私は、あなたの母ではありません」
言葉は鋭かった。
だが、朝ほどの即答ではなかった。
「そう思っていることはわかっています。でも、私には記憶があります。八歳の冬、私は高熱を出しました。父は出張中で、美咲はまだ小さくて、お母様は一晩中、私の部屋にいてくれました」
響子の指が、ドレスの布を握った。
「知らないわ」
「眠れないと言ったら、お母様は電子ピアノで短い曲を弾いてくれました。題名はないと言っていました。若い頃に自分で作った曲だと」
「知らない」
「私は、その曲を『眠る前の曲』と呼びました」
響子の唇がわずかに震えた。
「やめて」
澪は一歩近づいた。
「どうしてですか」
「やめなさい」
「何か、思い出しそうなんですか」
「違います」
「では、弾かせてください」
響子は答えなかった。
廊下のほうで、かすかな物音がした。蓮司が扉の外で警戒している。時間はない。
澪はピアノに近づいた。
母が止めるかと思ったが、動かなかった。澪は椅子に座る。鍵盤に触れる。指が震えていた。
しばらくピアノに触れていなかった。だが、曲は覚えている。
母が弾いた曲。
澪が眠れない夜に、何度も心の中でなぞった旋律。
最初の一音を鳴らした。
柔らかい音が、サロンに広がる。
響子の身体が、びくりと揺れた。
澪は弾き続けた。
短い旋律だった。技巧的な曲ではない。単純で、少し寂しくて、最後だけ明るい。子どもを眠らせるための曲というより、自分自身を慰めるための曲のようだった。
弾きながら、澪はあの夜を思い出した。
熱でぼんやりした視界。枕元の水差し。母の冷たい指。暗い部屋の隅で、電子ピアノの小さなランプだけが光っていた。母は「すぐに眠れるわ」と言いながら、何度も同じ旋律を繰り返した。
澪は眠ったふりをした。
本当は、母がそばにいる時間を少しでも延ばしたかった。
曲が終わった。
サロンは静かだった。
澪は鍵盤から指を離せなかった。
背後で、母の息遣いが聞こえる。
ゆっくり振り返ると、響子は両手で口元を押さえていた。
目に涙が浮かんでいた。
「……どうして」
母の声は、かすれていた。
「どうして、その曲を知っているの」
「お母様が、弾いてくれたからです」
「違う」
響子は首を振った。
「違うわ。私は、その曲を誰にも弾いていない」
「私に弾きました」
「違う。あれは……」
母は言葉を探すように、宙を見た。
「あれは、子どもが熱を出した夜に」
澪は息を止めた。
「はい」
「小さな手が、私の袖を掴んで」
「はい」
「眠れないと言って」
「はい」
響子の目から涙が落ちた。
「でも、その子の顔が……見えない」
澪は立ち上がった。
「私です」
「違う」
「私です、お母様」
「違う、だって、私の娘は美咲だけで」
「違います」
澪は初めて、母の言葉を遮った。
「お母様には、娘が二人いました。美咲と、私です。有栖川澪です」
響子は頭を押さえた。
「澪……」
その音が、母の唇から落ちた。
名前。
澪は動けなくなった。
「今、呼びました」
響子は自分でも驚いたように、澪を見た。
「澪?」
「はい」
「澪……なの?」
その問いは、完全な認識ではなかった。まだ疑いがある。まだ霧の中だ。けれど、母は澪を見ている。見知らぬ女ではなく、消えた名前の持ち主として見ようとしている。
澪のスマートフォンが震えた。
画面を見る。
現在の存在値:36
一気に上がっていた。
母の認識は、強い。
澪の膝から力が抜けそうになった。
「お母様」
呼んだ瞬間、響子は一歩後ずさった。
「待って」
その声には、恐怖が戻っていた。
「待って。わからない。頭の中が、おかしいの。あなたを知らないはずなのに、知っている気がする。美咲しかいなかったはずなのに、もう一人、いつも隣にいた気がする」
響子はピアノに手をついた。
「写真にはいない。記録にもいない。なのに、曲を聞いたら……」
澪は近づきすぎないように立ち止まった。
「無理に全部思い出さなくていいです」
「あなたは誰なの」
「有栖川澪です」
「私の……」
母はそこから先を言えなかった。
言えば、何かが壊れると思っているのかもしれない。あるいは、制度による補正が、その言葉を押し戻しているのかもしれない。
廊下で足音がした。
蓮司が小声で言った。
「澪さん」
その呼び方に、母が反応した。
「久世さん?」
蓮司がサロンに入ってくる。
響子は混乱した顔で彼を見た。
「どういうことなの。あなたは、美咲の婚約者でしょう」
蓮司は静かに答えた。
「現行記録上は、そうなっています」
「現行記録?」
「ですが、私にも有栖川澪さんとの記憶が戻り始めています」
響子は首を振った。
「やめて。そんな話、聞きたくない」
「響子さん」
蓮司は一歩だけ前に出た。
「あなたが今、澪さんの名前を呼んだことは重要です。彼女の存在値が上がりました」
「存在値?」
母は何も知らない顔だった。
父は母に説明していなかったのか。
いや、説明する必要がないと思っていたのだろう。母には忘れさせておけばいい。美咲には知らせなければいい。澪だけが消えれば、有栖川家は保たれる。
澪の胸に、父への怒りが静かに燃えた。
そのとき、サロンの扉が勢いよく開いた。
父が立っていた。
有栖川宗一郎。
その後ろには、使用人が二人いる。さらに廊下の奥に、美咲の姿も見えた。美咲は青ざめた顔でこちらを見ている。
「何をしている」
父の声は低かった。
響子が振り返る。
「あなた、この方は」
「近づくな」
宗一郎は母の言葉を遮った。
「響子、こちらへ来なさい」
母は動かなかった。
「あなた」
「その女は危険だ」
その女。
澪は父を見た。
昼間、彼は澪と呼んだ。だが今はその女と呼ぶ。呼び方を選んでいるのだ。認識を抑えるために。父自身が澪を覚えないように。
「お母様は、私の名前を呼びました」
澪は言った。
宗一郎の目が鋭くなる。
「錯乱しているだけだ」
「曲を覚えていました」
「偶然だ」
「偶然で、母しか知らない曲を私が弾けるんですか」
「君はどこかで調べたのだろう」
「では、調べた証拠を出してください」
宗一郎は答えなかった。
その沈黙が、答えだった。
美咲が一歩、サロンに入ってきた。
「お父様、もうやめて」
「美咲、下がりなさい」
「嫌です」
美咲の声は震えていた。だが、逃げなかった。
「私、思い出しかけているの。お姉様がいた。私には、お姉様がいた」
「それは干渉だ」
「違う」
「違わない。お前は利用されている」
「利用したのはお父様でしょう」
美咲の言葉に、サロンの空気が凍った。
響子が父を見た。
「利用?」
宗一郎の顔が険しくなる。
「美咲、黙りなさい」
「嫌。私は、署名した。意味も知らずに。お姉様から、家族も婚約者も奪う書類に」
響子の顔から血の気が引いた。
「何の話」
美咲は泣きそうな顔で母を見た。
「お母様。私たち、忘れさせられているの。お姉様のことを」
「やめなさい!」
宗一郎の怒声が響いた。
その瞬間、澪のスマートフォンが激しく震えた。
現在の存在値:42
美咲が公然と認識した。母が揺らいだ。蓮司が証言した。サロンにいる使用人たちも、何かを見ている。
数字が上がっている。
宗一郎もそれに気づいたのだろう。彼の端末が震えた。画面を見て、表情が変わる。
「まずいな」
父は低く呟いた。
その言葉に、澪は寒気を覚えた。
娘の存在値が上がったことを、父は喜ばなかった。驚きでも、懐かしさでもない。まずい、と思った。
宗一郎は誰かに電話をかけようとした。
蓮司がそれを制するように言った。
「有栖川宗一郎さん。今ここで再補正を依頼すれば、親族の前で存在干渉を認めることになります」
宗一郎は蓮司を睨んだ。
「久世君。君は自分が何をしているのかわかっているのか」
「はい」
「君の承認で処理された案件だ」
「その承認には不正がある可能性が高い」
「今さら正義の味方か」
父の声には嘲りがあった。
「君は同意した。記憶曖昧化にも、処理にも」
「処理承認ログは改ざんされています」
「証明できるのか」
「します」
「できなければ、君も終わりだ」
「構いません」
蓮司は静かに言った。
「彼女を消す側に戻るよりは」
澪は蓮司の横顔を見た。
その言葉を、父も聞いた。母も、美咲も、使用人たちも聞いた。
スマートフォンが震える。
現在の存在値:44
言葉が線になる。
澪は、それを実感していた。
宗一郎はゆっくりと澪に視線を戻した。
「澪」
今度は、はっきり名前を呼んだ。
母が息を呑む。
澪は父を見つめた。
「認めるんですね」
「私はお前を嫌っていたわけではない」
「そんな話はしていません」
「家を守るためだった」
「それは昼にも聞きました」
「美咲には背負えない。響子にも無理だ。私にも時間がなかった。お前しかいなかった」
澪は、父の言葉を静かに聞いた。
以前なら、泣いていたかもしれない。父に必要とされたと感じ、たとえそれが犠牲としてでも、自分には価値があると思おうとしたかもしれない。
だが今は違った。
それは必要とされたのではない。
便利に使われただけだ。
「お父様」
澪は言った。
「私は、家を守るための資産ではありません」
宗一郎の顔がわずかに歪んだ。
「有栖川の名を背負って生まれた以上」
「名前を奪った人が、名前の重さを語らないでください」
父は黙った。
響子がふらつくように椅子に座り込んだ。
「澪……」
母がもう一度、名を呼んだ。
今度は、先ほどより確かだった。
澪は母の前に膝をついた。
「はい」
「あなたは、本当に」
「はい」
「私の娘なの」
澪の目に涙が浮かんだ。
「そうです」
響子の手が、恐る恐る伸びてきた。
澪の頬に触れる。
冷たい指。
あの熱の夜と同じだった。
母の指先が、澪の輪郭を確かめるように動いた。頬、髪、耳の後ろ。そこには、幼い頃に転んでできた小さな傷跡がある。母はその傷を知っている。澪が庭で転んだとき、響子が消毒したのだ。
母の指が、その傷に触れた。
響子の目が見開かれた。
「この傷」
「覚えていますか」
「庭で……美咲を追いかけて、転んで」
「はい」
「私が、叱ったの。走るからだと。でも本当は、怖くて」
「はい」
響子の表情が崩れた。
「澪」
母は、今度こそ娘の名前として呼んだ。
澪はその場で泣いた。
堪えようとしたが、無理だった。朝から張り詰めていたものが、音を立ててほどけていく。母の手が、澪の頭に触れる。ぎこちない手つきだった。抱きしめることに慣れていない人の手。
それでも、母の手だった。
スマートフォンが震え続けている。
現在の存在値:58
母の認識が戻った。
完全ではないかもしれない。明日にはまた揺らぐかもしれない。だが、今この瞬間、母は澪を娘として見ている。
父が低く言った。
「響子、離れなさい」
響子は澪の頭に手を置いたまま、夫を見た。
「あなた、説明してください」
「今は混乱している」
「説明してください」
母の声は震えていたが、明確だった。
「私には、娘が二人いたのですか」
宗一郎は答えない。
「あなたは、その子を消そうとしたのですか」
「消すのではない。関係を移しただけだ」
響子の顔が、怒りに染まった。
「同じことです」
父は黙った。
美咲が澪のそばに来た。
「お姉様」
澪は顔を上げた。
美咲は泣いていた。
「ごめんなさい」
「美咲」
「私、本当に覚えていなかった。でも、今、少しずつ戻ってきてる。お姉様が、私の髪を結んでくれたこと。発表会の日、舞台袖で手を握ってくれたこと。私が怖い夢を見た夜、部屋に入れてくれたこと」
美咲は膝をついた。
「ごめんなさい。私、お姉様の人生を着ていた」
澪は首を振った。
「あなたも、利用された」
「でも、奪ったのは私」
「違う」
「違わない」
美咲の声は震えた。
「蓮司さんの隣に立っていた。招待状に私の名前があった。お母様にも、お父様にも、一人娘として扱われていた。その場所は、本当はお姉様のものだった」
澪は言葉に詰まった。
美咲の言うことは正しい。
彼女は被害者だ。だが、澪の人生を奪った側に立っていたのも事実だ。許す、許さないという単純な問題ではない。二人とも、父と制度が作った構造の中で傷つけられている。
澪は美咲の手を握った。
「全部を今、決めなくていい」
「お姉様」
「私も、あなたを恨みたくなる。蓮司さんの隣にいるあなたを見たとき、苦しかった」
美咲は目を伏せた。
「うん」
「でも、あなたが私を見てくれたから、私は戻り始めた」
「うん」
「だから、今はそれだけでいい」
美咲は泣きながら頷いた。
父は、その光景を見ていた。
彼の顔には、怒りと焦りが混ざっている。だが、その奥に、ほんの少し別のものもあった。後悔かもしれない。あるいは、自分の計算が崩れていくことへの恐怖かもしれない。
「無意味だ」
宗一郎は言った。
全員の視線が父に向く。
「今ここで何人が思い出そうと、正式な譲渡契約は残っている。存在税未納も消えていない。再計算で、また補正が入る。庁はこの状態を放置しない」
蓮司が言った。
「だから、正式に異議申立てをします」
「誰が受理する」
「証拠を揃えます」
「足りない」
「式場の筆圧痕があります。母親の認識回復、妹の認識回復、私の証言。使用人たちもこの場を見ています」
蓮司は使用人たちへ視線を向けた。
佐伯が廊下に立っていた。
朝、澪を知らないと言った家政婦。
彼女は青ざめた顔で、澪を見ていた。
「佐伯さん」
澪は呼んだ。
佐伯は唇を震わせた。
「お嬢様……?」
その一言に、澪の胸が詰まった。
お嬢様。
幼い頃から、佐伯は澪をそう呼んでいた。
「思い出しましたか」
「完全では、ありません。でも、今、奥様がその曲の話をなさって……それで、私も。お嬢様が熱を出した夜、私、氷を取り替えに行きました。奥様がピアノを弾いていらして」
佐伯は涙ぐんだ。
「なぜ、忘れていたのでしょう」
現在の存在値:63
澪は画面を見た。
六十三。
普通の存在値の下限に近づいている。
しかし、父はまだ諦めていなかった。
「全員、感情的になっているだけだ。明日になれば落ち着く」
「いいえ」
響子が言った。
母は立ち上がった。まだ顔色は悪い。だが、背筋はいつものように伸びていた。
「私は忘れません」
「響子」
「忘れたくありません」
宗一郎の表情が変わる。
「あなたが私から娘を奪ったのなら、私はあなたを許さない」
響子の声は、静かだった。
だからこそ重かった。
父は初めて、言葉に詰まった。
その沈黙を破ったのは、澪のスマートフォンだった。
ただの振動ではない。
甲高い警告音。
画面に赤い文字が表示される。
緊急再計算が開始されました。
存在構造に重大な矛盾を検出。
関係資産譲渡先との競合が発生しています。
再補正処理を開始します。
澪は息を呑んだ。
美咲が同時に頭を押さえた。
「痛い……」
「美咲!」
澪が支える。
美咲の顔から血の気が引いていた。
「お姉様の顔が、また……ぼやける」
響子も額に手を当てた。
「澪、待って、忘れたくない」
佐伯も混乱したように周囲を見回している。
蓮司の端末も警告を発していた。
「再補正が入っています。澪さんを認識した人間の記憶に干渉している」
父が黙って画面を見ていた。
澪は父を見た。
「あなたが依頼したんですか」
「私はまだ何もしていない」
その顔に嘘はなさそうだった。
では、庁が自動的に動いたのか。存在値が急上昇し、譲渡記録と矛盾したことで、システムが澪を再び消そうとしている。
美咲が泣きながら澪の手を握った。
「お姉様、名前を言って」
「有栖川澪」
「もう一回」
「有栖川澪」
響子も震える声で繰り返した。
「澪。澪。私の娘、澪」
佐伯も続いた。
「澪お嬢様」
蓮司が言った。
「有栖川澪さん」
部屋の中で、澪の名前が何度も呼ばれた。
警告音が鳴り続ける。
現在の存在値:61
59
60
58
62
数字が激しく上下している。
澪は、名前が綱引きされているような感覚を覚えた。
制度が消そうとしている。
人が呼び戻そうとしている。
どちらが強いか。
澪は、ただ呼ばれるだけでは駄目だと思った。
自分でも、自分を掴まなければならない。
澪は立ち上がった。
「私は、有栖川澪です」
声が震えた。
でも続けた。
「有栖川宗一郎と響子の娘です。美咲の姉です。久世蓮司さんの婚約者でした。八歳の冬に熱を出して、母に曲を弾いてもらいました。美咲の発表会で手を握りました。佐伯さんに指の傷を手当てしてもらいました。ホテル椿山グランテラスで、四月十二日に式の申込書に名前を書きました」
澪は胸に手を当てた。
「私は、ここにいます」
その瞬間、警告音が止まった。
画面の数字が、ゆっくりと変わる。
現在の存在値:68
サロンに、深い沈黙が落ちた。
澪は息を吐いた。
身体中の力が抜け、倒れそうになる。蓮司が支えた。
「大丈夫ですか」
「はい」
「存在値、安定しています」
蓮司の声にも、わずかに安堵が混じっていた。
響子が澪に近づき、今度はためらわずに抱きしめた。
ぎこちない抱擁だった。
けれど、朝には決して得られなかったものだった。
「ごめんなさい」
母が言った。
「忘れて、ごめんなさい」
澪は首を振った。
「お母様のせいではありません」
「それでも、あなたを見て怖がった」
「怖かったのは、私も同じです」
母の腕に力がこもる。
美咲も隣で泣いている。
蓮司は少し離れた場所に立っていた。父はサロンの入口で、誰とも目を合わせずに立っている。
家族は戻った。
完全ではない。
歪み、傷つき、欠けている。
それでも、澪の名前はこの部屋に戻った。
そのとき、父の端末に着信が入った。
宗一郎は画面を見て、顔をこわばらせた。
蓮司が気づく。
「誰からですか」
父は答えない。
だが、画面に表示された名前が、澪にも見えた。
津島篤史。
父は通話に出なかった。
端末は鳴り続ける。
まるで、この家に戻りかけた澪の名前を、もう一度外へ引きずり出そうとしているかのように。
蓮司が低く言った。
「向こうも本気で動きます」
澪は母の腕の中で、画面を見つめた。
存在値六十八。
戻り始めた。
だからこそ、次はもっと強く奪いに来る。
澪は母から離れた。
「お父様」
宗一郎がこちらを見る。
「もう、私を家の中だけの問題にはできません」
父は何も言わなかった。
「正式に異議申立てをします。存在管理庁にも、世間にも、私が消されたことを明らかにします」
美咲が涙を拭い、頷いた。
「私も証言する」
響子も言った。
「私も」
佐伯が小さく手を上げた。
「私も、覚えていることをお話しします」
蓮司は澪の隣に立った。
「私も証言します。承認ログの不正についても」
澪は父を見た。
「お父様は、どうしますか」
宗一郎は長い沈黙のあと、目を逸らした。
「家は、終わる」
「終わるのは、家ではありません」
澪は静かに言った。
「嘘です」
父は答えなかった。
端末の着信が切れた。
その直後、メッセージが届く。
宗一郎の画面に、短い文字が浮かんだ。
予定通り、披露会で最終統合を行います。
対象者の再上昇は想定内です。
美咲様の後継者認証を急いでください。
澪はその文面を読んだ。
披露会。
美咲と蓮司の婚約披露会。
そこで、澪の存在値を完全に美咲へ統合する予定だった。
母が口元を押さえた。
美咲は震えながら言った。
「そんなもの、やらない」
父は苦しげに目を閉じた。
「もう止められない」
「止めます」
澪は言った。
全員が澪を見る。
「披露会を、逆に使います」
蓮司の目が鋭くなった。
「公の場で、存在証明を行うということですか」
「はい」
「危険です。向こうもその場で最終統合を狙ってくる」
「だからこそです。家族も、関係者も、ホテルも、記録も、全部集まる。私が消された証拠を、一番多くの人に見せられる場所です」
澪は、自分の声がはっきりしていることに気づいた。
もう、追い出された娘ではない。
自分の名前を取り戻し始めた人間の声だった。
「父が用意した舞台なら、その舞台で私が名乗ります」
蓮司はしばらく澪を見つめた。
そして、頷いた。
「準備が必要です」
「します」
美咲が言った。
「私も協力する。披露会は予定通り開く。でも、そこでお姉様の証拠を出す」
響子も頷いた。
「私が招待客を止めます」
佐伯が言った。
「古いアルバムを探します。処分されていなければ、奥様の部屋の奥に」
澪は皆を見た。
線が繋がっていく。
母。妹。婚約者。使用人。式場。紙。曲。傷跡。
そのすべてが、澪を支えている。
父だけが、その輪の外に立っていた。
澪は彼に背を向けなかった。
ただ、静かに告げた。
「お父様。私は、あなたに覚えていてもらうためだけに戻るわけではありません」
宗一郎は顔を上げた。
「私が私として生きるために戻ります」
父の表情が揺れた。
だが、澪はもうその揺れに縋らなかった。
夜は深い。
けれど、サロンの窓の外には、うっすらと朝の気配があった。
澪は自分の手を見た。
母に触れられた頬がまだ熱い。美咲に握られた指がまだ痛い。蓮司に支えられた腕に、彼の手の感触が残っている。
私は、ここにいる。
その感覚は、今までよりもはっきりしていた。
そして、澪は初めて思った。
取り戻すだけでは足りない。
自分を消そうとした仕組みそのものを、白日の下に晒さなければならない。
白石すみれが言った言葉が蘇る。
戻った場所から、こちら側を見なさい。
見えなかったことにしないで。
澪は頷いた。
もう、見えなかったことにはしない。
自分のために。
美咲のために。
地下で名前を書き続けていた人たちのために。
そして、まだ誰にも名前を呼ばれず、どこかで消えかけている人たちのために。
有栖川澪は、消えない。
第六章 披露会の朝
有栖川家の朝は、いつも静かに始まる。
古い洋館の壁を、薄い朝日が白く撫でる。廊下の奥では、佐伯がカーテンを開ける音がする。厨房からは湯を沸かす音が聞こえ、庭では植木の葉が風に擦れる。昔から変わらない朝だった。
だが、その朝の中にいる人間だけが、何もかも変わっていた。
澪は、客間のソファで目を覚ました。
自室には戻らなかった。正確には、戻れなかった。澪の部屋はすでに「空き部屋」として整理されており、服も手帳も写真も消えていた。昨夜、母は「あなたの部屋を元に戻しましょう」と言ったが、澪は首を振った。
部屋はあとでいい。
今は、自分の存在を先に戻さなければならない。
隣の椅子には、蓮司が座ったまま眠っていた。背を壁につけ、腕を組んでいる。眠りは浅いらしく、澪が身じろぎすると、すぐに目を開けた。
「起きましたか」
「はい。蓮司さんは寝ました?」
「少し」
「その姿勢で?」
「問題ありません」
「問題あります」
澪がそう言うと、蓮司は一瞬、何かを思い出すような顔をした。
「以前にも、そう言われた気がします」
「言いました。何度も」
「どんな時に」
「仕事が忙しいとき、あなたは椅子で仮眠を取る癖がありました。私はいつも、首を痛めるから横になってくださいと言いました」
「私は何と答えましたか」
「問題ありません、と」
蓮司は沈黙した。
それから、わずかに口元を緩めた。
「進歩がありませんね」
「思い出したのではなく、繰り返しただけかもしれません」
「それでも、あなたらしいです」
澪はそう言って、窓の外を見た。
朝の光は穏やかだった。昨日、自分がこの家から追い出されたことが嘘のように見える。だが、ソファの上で眠り、借り物の服を着て、存在管理ポータルの数字を確認している現実が、すべてを物語っていた。
現在の存在値:69
昨夜のサロンで六十八まで戻り、その後、母と美咲が澪の名前を何度も呼んでくれたことで、ひとつだけ上がった。だが、蓮司によれば、これはまだ不安定な数字だった。
家族の認識が戻ったことで大きく回復した。けれど、正式な記録では、まだ澪は美咲に統合されたままだ。システム上の矛盾が解消されない限り、再補正は何度でも発生する。
そして、最終統合の場として予定されている婚約披露会が、今日の午後に迫っていた。
美咲と蓮司の婚約披露会。
正確には、澪から奪われた婚約関係を、美咲のものとして確定させるための儀式。
父は、招待客に中止の連絡を入れようとしなかった。
母が「今すぐ中止すべきです」と言ったとき、宗一郎は静かに首を振った。
「中止すれば、かえって疑われる」
それは事実だった。
有栖川家の人脈、蓮司の職場関係者、親族、父の取引先。招待客は少なくない。直前に中止すれば、何が起きたのかと探られる。存在管理庁も動くだろう。父はもう止められないと繰り返した。
澪は、それを逆に利用することにした。
披露会を中止しない。
むしろ、開く。
その場で、有栖川澪が消された証拠を出す。
父が用意した舞台を、父の嘘を壊す舞台に変える。
大胆すぎる計画だった。危険も大きい。だが、澪にはもう、静かに手続きを待つつもりはなかった。
扉がノックされた。
佐伯が入ってくる。
「お嬢様、奥様がお呼びです」
お嬢様。
その呼び方は、昨夜から少しずつ自然になっていた。最初は佐伯自身も戸惑っていたが、今朝には声に確かさが戻りつつある。
澪は立ち上がった。
「母は?」
「サロンにいらっしゃいます。美咲様も」
「父は?」
「書斎です」
佐伯の顔が曇った。
「昨夜から、どなたかと何度もお電話を」
蓮司が立ち上がる。
「津島ですか」
「お名前までは。ただ、存在管理庁の方のようでした」
やはり。
父はまだ、津島と繋がっている。いや、切れるはずがない。父だけでは、この規模の処理を動かせない。背後には存在管理庁の制度監査室、そして津島篤史がいる。
披露会は、単なる家族の問題ではない。
制度が、澪をもう一度消すための場でもある。
サロンに入ると、母と美咲がテーブルの前に座っていた。
テーブルには古いアルバムや封筒、写真、手紙が積まれている。母の目は赤く腫れていた。ほとんど眠っていないのだろう。美咲も同じだった。
だが、二人とも顔を上げると、澪を見た。
見知らぬ女を見る目ではない。
家族を見る目だった。
「澪」
母が呼んだ。
その一言だけで、澪の胸は熱くなった。
「お母様」
「少し、見つけました」
母はアルバムを開いた。
そこには、幼い澪と美咲が写っていた。
澪は息を呑んだ。
昨日、廊下の写真からは自分だけが消えていた。家族写真も、美咲だけになっていた。だが、このアルバムには澪がいる。少し色褪せているが、確かにいる。
庭で美咲の手を引いている写真。ピアノの発表会で、姉妹で並んでいる写真。母の誕生日に、花束を持って立っている写真。
澪はそっと写真に触れた。
「残っていたんですね」
「私の古い私物の奥にありました。表のアルバムは全部差し替えられていたけれど、これは……たぶん、私がしまい込んで忘れていたもの」
母の声は震えていた。
「ごめんなさい。あなたを忘れていた上に、あなたの写真を、こんな場所に」
「謝らないでください」
「謝らせて」
響子は目を伏せた。
「私は、母親だったのに」
その言葉には、昨夜より深い重みがあった。
記憶が戻るということは、愛情だけが戻るわけではない。忘れていた間に犯した罪悪感も、戻ってくる。母は今、澪を忘れていた自分自身と向き合っている。
澪は母の手に、自分の手を重ねた。
「お母様も消されていたんです。私を娘として見る権利を」
母は首を振った。
「それでも、私はあなたを怖がった」
「私も怖かったです」
「澪」
「でも、今はここにいます」
母は涙を拭い、頷いた。
美咲が封筒を差し出した。
「これも見つけた」
中には、澪宛ての手紙が入っていた。美咲の字だ。幼い字で、「おねえさまへ」と書いてある。
澪は封筒を開いた。
おねえさまへ
ピアノのはっぴょうかいで、てをつないでくれてありがとう。
みさきは、おねえさまがいるから、こわくありません。
字は歪んでいた。ところどころ平仮名が間違っている。だが、それは間違いなく、美咲が小学生の頃に書いた手紙だった。
澪は言葉が出なかった。
美咲は俯いたまま言った。
「読んでも、最初は意味がわからなかった。誰に書いた手紙なのか、自分でもわからなかった。でも、見ていたら、少しずつ戻ってきた」
「美咲」
「お姉様が舞台袖で手を握ってくれた。私、怖くて泣きそうだった。お姉様は、自分の手も冷たかったのに、ずっと握っていてくれた」
美咲の目から涙が落ちた。
「なのに、私はその手を離した」
「あなたが離したんじゃない」
「でも、私はお姉様の場所に立っていた」
「それはこれから正せます」
蓮司が静かに言った。
美咲は彼を見た。
その視線には、昨日までの婚約者を見るような甘さはなかった。もっと複雑な、申し訳なさと痛みが混じっていた。
「蓮司さん」
「はい」
「私は、あなたの婚約者ではなかったんですね」
蓮司は少し間を置いた。
「現行記録上は、あなたが婚約者です」
「そういう答え方をしないでください」
美咲の声には、泣きそうな怒りがあった。
「私は、あなたの婚約者ではなかったんですね」
蓮司は美咲を正面から見た。
「はい。少なくとも、本来の関係ではありません」
美咲は目を閉じた。
その頬に涙が伝った。
「よかった」
澪は驚いた。
「美咲?」
「変だと思っていたんです。蓮司さんは優しい。でも、私を見ているのに、時々、私じゃない誰かを見ている気がした。私は幸せなはずなのに、どこか落ち着かなかった。たぶん、私のものじゃなかったから」
美咲は澪を見た。
「お姉様から奪ったものだったから」
澪の胸が痛んだ。
美咲がこれほど傷つく必要はない。そう思う一方で、彼女がそれを自覚しなければ、澪の場所は戻らない。二人の痛みは別々でありながら、同じ書類で繋がれていた。
「美咲」
澪は言った。
「今日、あなたにお願いしたいことがあります」
「何でもする」
「披露会に出てください」
美咲は顔を上げた。
「私が?」
「はい。蓮司さんの隣に立ってください」
母が驚いたように澪を見た。
「澪、それは」
「その場で、あなたの口から言ってほしいんです。自分は本来の婚約者ではない、と。私から奪った関係だった、と」
美咲は蒼白になった。
それは残酷な頼みだった。
招待客の前で、自分の幸せが偽物だったと認める。父に用意された立場を、自分の口で否定する。美咲にとって、それは公開処刑に近い。
澪も、それを理解していた。
「嫌なら、無理にとは言いません」
「やります」
美咲は即答した。
澪は息を呑んだ。
「美咲」
「やります。やらせてください」
美咲は手紙を握りしめた。
「私は、お姉様の人生を着たまま、これ以上立っていたくありません」
その言葉は、プロット上の決意ではなく、美咲自身の痛みから出たものだった。
母が美咲の肩に手を置いた。
「あなたも傷つくわ」
「もう傷ついています」
美咲は涙を拭った。
「でも、今度は自分で選びます」
蓮司が頷いた。
「では、披露会の流れを確認しましょう」
彼はテーブルに紙を広げた。
婚約披露会は午後二時から。会場はホテル椿山グランテラスの鳳凰の間。招待客は約百二十名。最初に父の挨拶。その後、美咲と蓮司の紹介、婚約記念品の披露、乾杯、歓談。中盤に映像上映が予定されている。
その映像は、本来なら美咲と蓮司の幼少期や出会い、婚約までをまとめたものだった。
だが、そのデータはまだ父の管理下にある。
「この映像枠を使います」
澪が言った。
「証拠を流すんですね」
蓮司が確認する。
「はい。式場の申込書の筆圧痕、古いアルバム、手紙、母の証言、美咲の証言、蓮司さんの承認ログ。それから、私自身の存在管理ポータルの推移」
母が不安げに言った。
「そんなデータを会場で流せるの?」
「ホテルの映像担当に差し替えを依頼します」
蓮司が言った。
「ただし、通常の依頼では父上に連絡が行くでしょう」
「では、どうやって」
「美咲さんから依頼してください」
全員の視線が美咲に集まる。
蓮司は続けた。
「現行記録上、披露会の主役は美咲さんです。映像内容の最終確認という名目なら、ホテル側は応じる可能性が高い。父上に確認を入れる前に、差し替えだけはできるかもしれません」
美咲は頷いた。
「やります」
「ただ、存在管理庁側も監視しているはずです。差し替えに気づかれれば、事前に止められます」
「なら、直前に差し替えるしかない」
澪は言った。
「上映の直前」
「危険です」
「安全な方法は、もう残っていません」
蓮司は否定しなかった。
澪はアルバムの写真をスマートフォンで撮影し、紙の手紙も記録した。美咲は自分のスマートフォンに、昨夜から思い出したことを音声で録音した。
「私は、有栖川美咲です。私には、姉がいました。名前は有栖川澪です」
最初、美咲の声は震えていた。
だが、録音を繰り返すうちに、少しずつ強くなった。
「私は、姉の存在値を譲り受ける書類に署名しました。その意味を知りませんでした。でも、結果として、姉から家族関係と婚約関係を奪いました。私は、それを返したい」
母も録音した。
「私は有栖川響子です。昨夜、私は有栖川澪を娘として認識しました。幼少期の傷跡、私だけが知る曲、古い写真。彼女は私の娘です」
母の声は、最初こそ震えていたが、最後には母らしい硬さを取り戻していた。
佐伯も呼ばれた。
彼女は古い写真を何枚も持ってきた。澪が料理の手伝いをしている写真。庭で美咲の髪を結んでいる写真。佐伯が澪の誕生日に焼いたケーキの前で笑っている写真。
「お嬢様は、いらっしゃいました」
佐伯は録音に向かって言った。
「私は、忘れていました。でも、思い出しました。有栖川家には、澪お嬢様がいらっしゃいました」
それらの声を聞くたび、澪の存在値は少しずつ上がった。
七十。
七十三。
七十五。
数字は回復している。
しかし、蓮司は険しい顔をしていた。
「なぜ、そんな顔を?」
澪が尋ねると、彼は端末を見せた。
存在構造矛盾指数:上昇中
最終統合処理:待機状態
対象譲渡先:有栖川美咲
統合予定時刻:本日 14:40
澪は画面を見つめた。
「十四時四十分」
「披露会の映像上映予定時刻です」
蓮司が言った。
「向こうも同じ時間を狙っている」
美咲が唇を噛んだ。
「その時間に、私に完全統合するつもりなんですね」
「おそらく」
「私が拒否したら?」
「手続き上、譲渡先の同意撤回があれば止められる可能性があります。ただし、父上の家族代表者権限と、庁側の特別適正化処理が優先されると、単独では弱い」
母が冷たい声で言った。
「つまり、家族が全員で拒否すればいいのね」
「はい。強い材料になります」
響子は立ち上がった。
「宗一郎に署名させます」
「お母様」
「父親の署名があれば一番強いのでしょう」
「でも、お父様が応じるとは」
「応じさせます」
母の声は低かった。
有栖川響子という人は、普段は感情を表に出さない。だが、怒ったときの静けさは父に似ていた。いや、父よりも怖いかもしれない。父の怒りは支配のためのものだが、母の怒りは守るものを見つけた人間のものだった。
母は一人で書斎へ向かった。
澪も追おうとしたが、蓮司が止めた。
「今は、お母様に任せましょう」
「でも」
「夫婦でしか話せないことがあります」
澪は廊下を見つめた。
書斎の扉が閉まる音がした。
しばらく、何も聞こえなかった。
やがて、母の声がした。
低い。だが、はっきりしている。
「あなたは、私から娘を奪ったのです」
父の声は聞こえない。
母の声だけが続いた。
「家を守るため。体面のため。事業のため。あなたが何を言っても、私はもう聞きません。私に娘を忘れさせたことだけは、許さない」
澪は廊下に立ち尽くした。
こんな母の声を聞いたことがなかった。
母はいつも父に従っているように見えた。少なくとも、澪にはそう見えていた。有栖川家の体面を守ることに、母もまた加担してきた。澪に「長女らしく」と言ったのも、母だった。
だが、今の母は、父の側にはいない。
澪の側に立っている。
しばらくして、書斎の扉が開いた。
出てきた母の手には、一枚の紙があった。
父は扉の奥に立っていた。顔色は悪い。何かを言いたげだったが、言わなかった。
母は澪の前まで来て、紙を差し出した。
「譲渡契約撤回申立てへの同意書です」
澪は紙を見た。
そこには、有栖川響子の署名がある。
そして、有栖川宗一郎の署名もあった。
澪は父を見た。
父は目を逸らした。
「お父様が」
母は静かに言った。
「署名はしました。ただし、あの人はまだ全てを認めたわけではありません」
蓮司が紙を確認する。
「これは大きいです。家族代表者が同意撤回に署名したなら、最終統合を止める根拠になる」
「では、もう披露会は」
「いいえ」
澪は首を振った。
「開きます」
母が澪を見る。
「澪」
「署名だけでは、地下にいた人たちは救えません。私だけが戻って終わりにしたら、制度は変わらない。白石さんたちのことも、なかったことにされる」
蓮司は黙って聞いていた。
美咲も、佐伯も。
澪は続けた。
「今日の披露会で、私のことだけでなく、存在税と低存在化処理の実態を公にします」
「世間に?」
「はい」
「有栖川家は、終わるかもしれません」
母が言った。
「それでもです」
澪は答えた。
「嘘の上に残る家なら、もう残さなくていい」
その言葉に、廊下の奥で父がわずかに顔を上げた。
澪は父を見た。
「お父様。私は、家を壊したいわけではありません。でも、人を消して守る家なら、壊れるべきです」
父は何も言わなかった。
沈黙。
それが、今の父にできる唯一の返事のようだった。
午前十時。
美咲はホテルへ向かった。
名目は、披露会映像の最終確認。母も同行した。蓮司は少し遅れて別ルートで向かう。澪は表に出れば回収班に見つかる可能性が高いため、佐伯とともに屋敷に残り、証拠データの整理を続けた。
古いアルバム、手紙、式場申込書の筆圧痕写真、母と美咲と佐伯の音声、蓮司の取得した処理ログ、存在管理ポータルの画面推移。
それらを一本の映像にまとめる。
作業は蓮司が用意した簡易ソフトで行った。澪は専門家ではないが、構成は自分で決めた。
最初に、タイトル。
私は、有栖川澪です。
続いて、家族写真。幼い澪と美咲。母の証言。美咲の手紙。式場申込書の筆圧痕。関係資産譲渡契約の写真。蓮司の承認ログ。存在値の推移。
最後に、澪自身の声を入れる。
私は、家族に忘れられました。
婚約者に忘れられました。
写真から消され、記録から消され、妹に人生を譲渡されました。
これは個人の不幸ではありません。
存在を財産として扱い、人間関係を譲渡可能な資産として処理する制度の問題です。
私は、私を取り戻します。
そして、私以外の消された人たちの名前も、なかったことにはしません。
録音を終えたとき、佐伯が泣いていた。
「お嬢様、本当にお強くなられて」
「強くなったのではなく、追い詰められただけです」
「それでも、立っていらっしゃいます」
澪は画面に映る自分の名前を見た。
私は、有栖川澪です。
昨日までなら、この一文だけで泣いていたかもしれない。今も胸は震える。だが、その震えは恐怖だけではなかった。
怒りがある。
覚悟がある。
名前を奪われた人間だけが持つ、静かな熱がある。
午前十一時半。
蓮司から連絡が入った。
映像差し替えは成功。
ただし、ホテル内に庁関係者と思われる人物が複数。
津島本人も来る可能性あり。
披露会開始後、会場出入口を監視されるおそれ。
続いて、美咲からも連絡があった。
お姉様、映像は入れ替えられました。
でも、怖いです。
私、壇上でちゃんと言えるでしょうか。
澪はすぐに返信した。
怖くていい。
私も怖い。
一緒に怖がりながら言おう。
少しして、美咲から短い返事が来た。
うん。
お姉様、待ってる。
その「待ってる」という言葉に、澪は胸が詰まった。
昨日の朝、家族は澪を追い出した。
今日、美咲は澪を待っている。
たった一日で、世界はこれほど変わる。あるいは、これほど簡単に変えられてしまう。だからこそ、今日のうちに固定しなければならない。
午後一時。
澪は服を着替えた。
母が用意してくれた淡い藤色のワンピースだった。澪が本来、披露会で着る予定だったものだという。なぜ残っていたのかはわからない。母のクローゼットの奥に、カバーをかけられて残されていた。
美咲の桃色ではない。
澪が選んだ色。
鏡の前に立つと、少しだけ以前の自分に戻った気がした。
だが、完全に同じではない。
昨日までの澪なら、この服を着て、蓮司の隣に立つことだけを考えていた。母に失礼がないか。父に恥をかかせないか。美咲が退屈しないか。招待客にどう見られるか。
今は違う。
この服は、失われた婚約の象徴ではなく、奪われた名前を取り戻すための戦闘服だった。
佐伯が髪を整えてくれた。
「お嬢様、本当にお綺麗です」
「ありがとうございます」
「奥様も、きっとそうおっしゃいます」
澪は鏡越しに微笑んだ。
そのとき、部屋の扉が開いた。
父が立っていた。
佐伯が身構える。
澪も振り返った。
「何か」
宗一郎はしばらく澪を見ていた。
その目に、昨日までの冷たい否定はなかった。だが、親としての愛情が戻ったとも言い切れない。疲れた男の目だった。自分が積み上げてきたものの上に、ようやく死角を見つけてしまった人間の目。
「似合っている」
父は言った。
澪は驚いた。
幼い頃から、父は澪の服装を褒めたことなどほとんどない。似合っている、という言葉は、あまりにも遅すぎた。
「ありがとうございます」
澪は礼だけを返した。
父は一歩入ってきた。
「本当に、やるのか」
「はい」
「有栖川家は、世間の笑いものになる」
「そうかもしれません」
「私も、逮捕されるかもしれない」
「そうかもしれません」
「それでもか」
澪は父を見た。
「お父様は、私に何と言ってほしいんですか」
父は答えなかった。
「やめます、と? 家のためにもう一度消えます、と? 美咲のために、なかったことにします、と?」
「……」
「昨日までの私なら、そう言ったかもしれません」
父の顔がわずかに歪む。
「でも、もう言いません」
澪は静かに続けた。
「私は、家を守るための道具ではありません。お父様の失敗を覆い隠すための布でもありません。美咲を幸せにするための代用品でもありません」
「澪」
「私は、私です」
その言葉を、澪は父に向かって初めて言えた気がした。
父は長い沈黙のあと、低く言った。
「お前は、昔からそうだった」
「どういう意味ですか」
「聞き分けがいいように見えて、最後のところで折れない」
澪は少しだけ笑った。
「褒めていますか」
「わからん」
父は目を伏せた。
「私は、お前なら耐えられると思った」
「知っています」
「それが、一番の間違いだったのかもしれない」
澪は返事をしなかった。
謝罪ではない。父はまだ、自分の罪を最後まで認めてはいない。けれど、その言葉は、少なくとも言い訳だけではなかった。
父は扉へ向かった。
「披露会には出る」
澪は目を見開いた。
「お父様が?」
「家族代表者として出席することになっている」
「逃げないんですか」
父は扉の前で立ち止まった。
「逃げても、もう遅い」
そう言って、出ていった。
澪はしばらく、閉まった扉を見つめていた。
父が味方になったわけではない。
だが、敵としても崩れ始めている。
それが、吉と出るか凶と出るかはわからなかった。
午後一時半。
澪は屋敷を出た。
正面玄関から。
昨日、追い出された場所から、今度は自分の足で出た。佐伯が玄関で頭を下げる。
「いってらっしゃいませ、澪お嬢様」
「行ってきます」
そのやり取りだけで、存在値がひとつ上がった。
現在の存在値:76
玄関前には、蓮司が手配した車が待っていた。運転手は存在管理庁とは無関係の民間ハイヤーだという。蓮司はホテルで待機している。澪が会場へ入る直前、合流する手筈だった。
車に乗り込むと、澪は窓の外を見た。
有栖川邸が遠ざかる。
昨日は、ここから追い出されて世界が終わったと思った。今日、同じ屋敷から出て、世界に向かって名乗ろうとしている。
怖くないわけがない。
手は震えている。胸は苦しい。会場で何が起きるかわからない。津島が来るかもしれない。存在管理庁が映像を止めるかもしれない。父が最後の瞬間に裏切るかもしれない。招待客が信じてくれないかもしれない。
けれど、もう戻れない。
戻る必要もない。
ホテル椿山グランテラスが見えてきた。
白い外壁、高いガラス窓、整えられた庭。昨日、夜に忍び込んだときとは違い、今日は正面玄関に車が並んでいる。披露会の招待客らしき人々が、華やかな服装で次々と入っていく。
その中に、灰色のスーツの男がいた。
澪はすぐにわかった。
津島篤史。
彼はホテルの入口近くで、誰かと話していた。こちらに気づいたかどうかはわからない。だが、その姿を見た瞬間、澪の背筋が冷たくなった。
津島は来ている。
つまり、今日の披露会は、ただの告発の場ではない。
向こうも、ここで決着をつけるつもりだ。
車がホテルの車寄せに着いた。
ドアが開く。
澪は深く息を吸った。
自分の名前を、心の中で呼ぶ。
有栖川澪。
有栖川澪。
有栖川澪。
そして、車を降りた。
蓮司が入口の脇に立っていた。
彼は澪を見た瞬間、わずかに息を呑んだ。
「澪さん」
名前を呼ばれた。
澪は頷いた。
「来ました」
「はい」
「逃げません」
「わかっています」
蓮司は少しだけ目を細めた。
「その服」
「覚えていますか」
「断片ですが」
「春の日に、似た色を着ていました」
「はい」
「私は、綺麗だと言いましたか」
澪は首を振った。
「言いませんでした」
「そうですか」
「でも、ずっと見ていました」
蓮司は目を伏せた。
「では、今言います」
澪は驚いて彼を見た。
蓮司は真面目な顔で言った。
「綺麗です」
その言葉は、あまりにも不器用で、遅くて、けれど確かだった。
澪は泣きそうになった。
「今言うんですか」
「今思ったので」
「本当に、あなたらしい」
その短いやり取りのあと、二人は会場へ向かった。
鳳凰の間の前には、受付が設けられていた。
招待客の名簿には、有栖川澪の名前はないはずだった。だが、澪が近づくと、美咲が受付脇から飛び出してきた。
「お姉様」
美咲は淡い桃色のドレスを着ていた。本来なら、今日の主役として誰よりも幸せそうに見えるはずの服だった。だが、その顔は緊張で強張っている。
澪は美咲の手を握った。
「大丈夫?」
「全然大丈夫じゃない」
「私も」
美咲は少しだけ笑った。
「じゃあ、一緒ですね」
「うん」
美咲は蓮司を見た。
「映像は差し替え済みです。上映担当の方には、私から『直前まで父には内容を知らせないで』と頼みました」
「理由は?」
「サプライズ演出だと言いました」
蓮司は頷いた。
「自然です」
「でも、津島さんが来ています」
「見ました」
美咲は声を潜めた。
「お父様は、もう会場にいます。お母様も。お父様は何も言いません。でも、ずっと端末を見ています」
澪は会場の扉を見た。
中から、人々のざわめきが聞こえる。グラスの触れ合う音。笑い声。祝いの場特有の、明るく整えられた騒がしさ。
その中に入れば、もう後戻りはできない。
蓮司が言った。
「最終統合予定時刻は十四時四十分。映像上映開始とほぼ同時です。それまでに、会場の人々にあなたを認識させる必要があります」
「どうやって?」
「まず、美咲さんが壇上で姉の存在を示す。次に、私が証言する。映像が流れれば、会場の認識者数が一気に増える」
「映像が止められたら?」
美咲が不安そうに言う。
蓮司は答えた。
「その場合は、口頭で続けます」
澪は頷いた。
「私が名乗ります」
「危険です。統合処理が始まると、声が届きにくくなる可能性がある」
「それでも、名乗ります」
蓮司は澪を見た。
止めなかった。
「わかりました」
扉が開いた。
ホテルスタッフが頭を下げる。
「お時間でございます」
澪、美咲、蓮司は顔を見合わせた。
最初に美咲が歩き出した。
次に蓮司。
澪は少し遅れて、その後ろに続いた。
会場の光が、澪を包んだ。
鳳凰の間は、天井の高い華やかな会場だった。シャンデリアが輝き、丸テーブルには白いクロスと花が飾られている。招待客たちが拍手を送る。彼らの視線は、美咲と蓮司に集まっていた。
澪には、まだあまり向けられていない。
それでも、何人かが気づいた。
あの女性は誰だろう。
親族だろうか。
美咲さんに似ている。
有栖川家の関係者か。
視線が、少しずつ澪に触れる。
存在値が微かに動いた。
現在の存在値:77
壇上には、父と母がいた。
父は黒い礼服を着て、硬い表情で立っている。母は澪を見た瞬間、強く頷いた。
その頷きに、澪は背筋を伸ばした。
司会者がマイクを取る。
「本日は、久世蓮司様、有栖川美咲様のご婚約披露の席にお集まりいただき、誠にありがとうございます」
その紹介が、会場に響いた。
澪の胸に痛みが走る。
久世蓮司様、有栖川美咲様。
偽りの組み合わせ。
だが、今はまだそれを受け入れるしかない。壊すためには、まず形の中に入らなければならない。
父の挨拶が始まった。
宗一郎はマイクの前に立った。
会場が静まる。
「本日は、ご多忙の中、久世家、有栖川家のためにお集まりいただき、誠にありがとうございます」
声はいつも通りだった。
低く、落ち着き、よく通る。父はこういう場で失敗しない人だった。言葉を整え、間を計り、感情を見せず、聞く者に安心感を与える。
だが、澪にはわかった。
父の右手が、わずかに震えている。
「本来であれば、ここで両家の喜びを皆様と分かち合うべきところですが」
澪は顔を上げた。
父の言葉が、予定と違う。
美咲も気づいた。蓮司も。
会場がざわつく。
宗一郎は一度、目を閉じた。
「その前に、私から皆様にお伝えしなければならないことがあります」
津島が会場後方で動いた。
灰色のスーツの男たちが、数名立ち上がる。
蓮司がすぐに澪の前に出ようとした。
しかし、父は続けた。
「有栖川家には、本来、娘が二人おります」
会場が静まり返った。
澪は息を呑んだ。
父が、言った。
自分の口で。
「長女の名は、有栖川澪」
その瞬間、会場中の視線が澪に向いた。
何十、何百という視線。
驚き、疑問、好奇心、不信。
それらが一斉に澪を捉える。
スマートフォンが震えた。
現在の存在値:86
父の声は続いた。
「そして、私はその娘の存在を、手続きによって奪いました」
ざわめきが爆発した。
母が口元を押さえた。
美咲は泣きそうな顔で父を見ている。
蓮司は警戒を解かないまま、会場後方の津島を見ていた。
津島の顔から、初めて余裕が消えた。
父はマイクを握りしめた。
「家を守るためだと、私は思っていました。だが、それは言い訳です。私は、娘を家の資産として扱った」
会場は混乱している。
だが、父は止まらなかった。
止めるなら今しかないと判断したのか、津島が前へ歩き出す。
そのとき、美咲が壇上へ上がった。
「お父様」
宗一郎は娘を見る。
美咲はマイクを受け取った。
手は震えていた。
だが、声は出た。
「私は、有栖川美咲です。皆様に、聞いていただきたいことがあります」
会場はなおもざわついている。
美咲は息を吸った。
「私は今日、久世蓮司さんの婚約者としてここに立つ予定でした。でも、それは本来、私の場所ではありません」
澪は、美咲の背中を見つめた。
「本来、その場所に立つべきだったのは、私の姉、有栖川澪です」
視線が再び澪へ向く。
現在の存在値:91
美咲は涙を流しながら続けた。
「私は、姉の家族関係と婚約関係を譲り受ける書類に署名しました。その意味を知りませんでした。でも、知らなかったから許されるとは思いません。私は、姉の人生を着ていました」
蓮司が壇上へ上がる。
美咲の隣に立つ。
「久世蓮司です」
会場の一部がざわめいた。存在管理庁の職員であることを知っている者もいるのだろう。
「私は、有栖川澪さんとの関係を忘れていました。記憶曖昧化処理により、彼女に関する私的記憶を失っていました。しかし現在、断片的に記憶が戻っています。そして、私は証言します」
蓮司は澪を見た。
「私が本来、婚約していた相手は、有栖川澪さんです」
その言葉が、会場全体に落ちた。
現在の存在値:103
澪の身体が震えた。
百を超えた。
だが、その瞬間、会場の照明が一瞬ちらついた。
蓮司の端末が激しく警告音を鳴らす。
最終統合処理、開始。
譲渡先:有栖川美咲
譲渡元:有栖川澪
処理時刻:14:40
予定時刻より早い。
津島が壇上に向かって歩いてくる。
「この会は中止してください」
彼の声はよく通った。
「存在管理庁です。現在、重大な存在構造干渉が発生しています。会場内の皆様は、指示があるまで着席してください」
会場がさらに混乱する。
澪のスマートフォンが震えた。
現在の存在値:98
94
101
89
数字が乱高下する。
人々の認識が、制度の干渉で揺らいでいる。
今、映像を流さなければならない。
澪は美咲を見た。
美咲が頷く。
壇上の操作卓にいるホテルスタッフへ、合図を送った。
だが、スタッフは動かない。
灰色のスーツの男が、操作卓の前に立っていた。
止められている。
津島は冷静に言った。
「不確かな情報を上映することは、会場全体の認識汚染を引き起こします。映像は停止します」
認識汚染。
また、新しい言葉で真実を覆う。
澪の中で、何かが静かに切れた。
彼女は壇上へ向かった。
蓮司が振り返る。
「澪さん」
「大丈夫です」
大丈夫ではなかった。
足は震えている。視界は揺れている。統合処理の影響か、会場の一部が遠く見える。人々の顔がぼやける。誰が自分を見ているのか、わからなくなりかけている。
それでも、歩いた。
壇上に上がる。
マイクの前に立つ。
会場のざわめきが、波のように押し寄せる。
津島が言った。
「有栖川澪様。これ以上の発言は、あなた自身の存在構造を損ないます」
澪は彼を見た。
「私の存在を損なったのは、あなたたちです」
「あなたは制度を誤解しています」
「では、皆さんの前で説明してください」
澪は会場を見渡した。
「存在税とは何ですか。関係資産譲渡とは何ですか。家族に忘れられる権利を、誰が売買できるんですか。婚約者に選ばれていた事実を、誰が別の人に移せるんですか」
津島の表情が硬くなる。
「個別案件については」
「答えられないんですね」
澪はマイクを握った。
「なら、私が話します」
声が震えていた。
だが、届いていた。
「私は、有栖川澪です。昨日の朝、目が覚めたら、家族は私を知りませんでした。母も、父も、妹も、私を知らないと言いました。婚約者だった久世蓮司さんの隣には、妹の美咲がいました」
会場は静まり始めた。
澪は続けた。
「私は、存在税未納に伴う関係資産譲渡という手続きで、家族関係と婚約関係を妹へ移されました。写真から消え、記録から消え、名前を呼ばれなくなりました。けれど、完全には消えませんでした」
澪は胸に手を当てた。
「紙に、私の名前が残っていました。母の指が、私の傷を覚えていました。妹の手紙に、私がいました。蓮司さんの記憶に、雨の日の私が残っていました」
そのとき、会場後方から声が上がった。
「映ります!」
ホテルスタッフだった。
操作卓の前に立っていた灰色のスーツの男を、別のホテルスタッフたちが押し戻していた。母が、ホテルの責任者と何かを話している。美咲が用意したサプライズ映像という名目が効いたのかもしれない。
スクリーンが明るくなった。
映像が流れ始めた。
私は、有栖川澪です。
大きな文字が、会場に映し出される。
続いて、幼い澪と美咲の写真。
会場がどよめく。
母の証言。
美咲の手紙。
佐伯の音声。
式場申込書の筆圧痕。
関係資産譲渡契約書。
蓮司の承認ログ。
存在値の推移。
証拠が、次々と映し出される。
人々の視線が、スクリーンと澪を往復する。
現在の存在値:112
124
137
数字が上がっていく。
だが、同時に警告も出ていた。
最終統合処理、進行中。
存在構造競合。
譲渡先との分離不能リスク上昇。
美咲が壇上で膝をついた。
「美咲!」
澪は駆け寄った。
美咲は頭を押さえている。
「お姉様、私の中に、入ってくる」
「何が」
「お姉様の記憶が……私のものみたいに」
蓮司が端末を見る。
「統合処理が進んでいます。澪さんの存在値が上昇したことで、システムが強制的に美咲さんへ取り込もうとしている」
「止めるには?」
「譲渡先本人の明確な拒否が必要です。会場の認識を伴う形で」
澪は美咲の肩を支えた。
「美咲、言える?」
美咲は苦しそうに頷いた。
蓮司がマイクを差し出す。
美咲は震える手でそれを握った。
「私は」
声がかすれる。
会場が静まった。
「私は、有栖川美咲です」
美咲は顔を上げた。
「有栖川澪ではありません。お姉様の記憶も、婚約者も、家族関係も、私のものではありません」
涙が頬を伝う。
「私は、お姉様の人生を返します」
現在の存在値:151
警告音が変わった。
統合処理、競合。
譲渡先による同意撤回を検出。
家族代表者同意撤回を照合中。
蓮司が叫んだ。
「宗一郎さん、同意書を!」
父は壇上の脇で立ち尽くしていた。
全員の視線が父に集まる。
宗一郎は、長い間動かなかった。
津島が低く言った。
「有栖川宗一郎さん。ここで同意撤回を公表すれば、あなたの責任は確定します」
父は津島を見た。
それから、澪を見た。
澪は何も言わなかった。
頼まなかった。
父が何を選ぶかは、父自身が決めるべきだと思った。
宗一郎は、胸ポケットから紙を取り出した。
母が書斎で署名させた、譲渡契約撤回申立てへの同意書。
父はそれを掲げた。
「私は、有栖川宗一郎です」
声は掠れていた。
「家族代表者として、有栖川澪から有栖川美咲への関係資産譲渡を撤回します」
会場がどよめいた。
津島の顔が歪む。
「それは無効です。強要下での署名は」
父は遮った。
「強要ではない」
彼は澪を見た。
「私が、間違えた」
それは謝罪としては短すぎた。
だが、父が公の場で初めて認めた罪だった。
現在の存在値:178
スクリーンの映像が最後の場面に移る。
澪自身の声が流れる。
私は、私を取り戻します。
そして、私以外の消された人たちの名前も、なかったことにはしません。
会場の空気が変わっていた。
最初は戸惑いだった。
次は好奇心。
今は、怒りに近いざわめきがある。
招待客の中には、スマートフォンで撮影している者もいた。メッセージを打っている者もいる。誰かが「これ、まずいんじゃないか」と呟いた。別の誰かが「存在管理庁が人を消したってことか」と言った。
情報が広がり始めている。
津島はそれに気づき、灰色のスーツの男たちへ指示を出した。
「通信を止めろ」
蓮司が即座に言った。
「できません。会場は民間施設です。庁の緊急遮断権限には、令状が必要です」
「久世君」
「私は、あなた方の不正を内部告発します」
蓮司は壇上で宣言した。
「有栖川澪さんの件だけではない。関係資産譲渡、低存在化処理、記憶曖昧化、承認ログ偽装。関連記録をすべて提出します」
津島の目が、初めて本気で冷たくなった。
「自分も処分されるぞ」
「承知しています」
「キャリアも、婚約も、信用も失う」
蓮司は澪を見た。
「すでに、失ってはいけないものを失いかけました」
その言葉は、会場のざわめきの中でも、澪にははっきり届いた。
現在の存在値:190
だが、次の瞬間、澪の画面に新しい警告が出た。
存在値急上昇に伴う構造過負荷。
分離処理未完了。
譲渡先存在値の低下を検出。
澪は美咲を見た。
美咲の顔色が真っ白だった。
「美咲?」
美咲のスマートフォンが床に落ちた。
画面には、数字が表示されていた。
現在の存在値:21
澪は息を呑んだ。
美咲の存在値が下がっている。
澪が戻れば、美咲が消える。
すみれの言葉が蘇る。
存在は奪い合うものなのか。
それとも、分け合えるものなのか。
会場が揺れる中で、澪は理解した。
本当の選択は、ここからだった。
自分の存在を取り戻すために、妹を消すのか。
それとも、別の道を探すのか。
美咲は震えながら笑った。
「よかった……返せてる」
「違う」
澪は叫んだ。
「美咲、違う。あなたが消える必要はない」
「でも、これはお姉様のものだから」
「違う!」
澪の声が会場に響いた。
全員がこちらを見る。
「私が取り戻したいのは、あなたを消すことじゃない」
美咲は泣いていた。
「じゃあ、どうすればいいの」
澪は答えられなかった。
蓮司が端末を見て言った。
「分離処理です」
「分離?」
「譲渡された関係資産を澪さんへ全返還するのではなく、澪さんと美咲さんを別個の存在として再計算させる。奪還ではなく、分離」
「できますか」
「通常はできません」
「通常は?」
蓮司は津島を見た。
「制度監査室なら、例外処理権限を持っている」
全員の視線が津島へ向いた。
津島は表情を消していた。
「その権限は、重大な制度障害時にのみ使用されます」
澪は彼に向かって歩いた。
「今がそうです」
「個人的事情です」
「人が消えかけているんです」
「制度上、譲渡先の存在値低下は想定内です」
その言葉を聞いた瞬間、澪の中の怒りが冷たく澄んだ。
「想定内なら、なおさらあなたたちの責任です」
津島は答えない。
澪はマイクを握った。
「皆さん、聞いてください」
会場が静まる。
「私が戻ることで、妹の美咲が消えかけています。制度は、それを想定内だと言いました。私は、自分を取り戻したい。でも、妹を消したいわけではありません」
澪は津島を見た。
「存在を奪い合う制度そのものが間違っています」
会場から、誰かが「そうだ」と言った。
別の声が続く。
「分離処理をしろ」
「女の子を消すな」
「これは録画してるぞ」
ざわめきが圧力になっていく。
津島の端末が鳴った。彼は画面を見た。おそらく、外部への拡散が始まっている。庁内からの指示かもしれない。
蓮司が言った。
「津島さん。ここで拒否すれば、譲渡先の存在値低下を放置した記録が残ります」
母が美咲を抱きしめながら言った。
「私の娘を、二度と奪わせません」
父も、低く言った。
「分離処理をしろ」
津島は父を見た。
「あなたに命令権はありません」
「なら、責任だけ負わせるつもりか」
宗一郎の声が荒くなる。
「私を利用したのはあなたたちだ。家を守れると囁き、澪を担保にできると教え、手続きは合法だと言った。今さら私だけの罪にするな」
会場がどよめく。
父の告白は、澪にとっても初めて聞くものだった。
宗一郎は、津島たちに誘導されていた。
もちろん、だからといって父の罪は消えない。署名したのは父だ。澪を資産として差し出したのも父だ。
だが、制度は父の弱さを利用した。
個人の罪と制度の罪が、ここで重なった。
津島は長く沈黙した。
やがて、端末を操作した。
「一時分離処理を申請します。ただし、これは暫定措置です」
「今すぐ」
蓮司が言う。
「わかっています」
津島は不本意そうに、美咲の端末と澪の存在管理ポータルを同期させた。蓮司も横から処理を確認する。
画面に表示が出る。
関係資産分離処理
譲渡元:有栖川澪
譲渡先:有栖川美咲
分離区分:暫定独立再計算
家族関係:両存在者へ再配分
婚約関係:未確定
社会信用:再審査
記憶関連性:自然回復優先
澪は画面を見つめた。
婚約関係:未確定。
蓮司との関係は、まだ戻らない。
だが、美咲が消えるよりはいい。
美咲の存在値が、少しずつ戻り始めた。
21
34
49
62
美咲は母の腕の中で、涙を流していた。
「お姉様」
「美咲」
「私、いる?」
「いる」
澪は美咲を抱きしめた。
「あなたは、ここにいる」
美咲は泣きながら頷いた。
澪の存在値は、少し下がった。
190から、162へ。
それでもいい。
奪い返すのではない。
分けて、立つ。
それが澪の選んだ答えだった。
会場のスクリーンには、まだ証拠映像の最後の画面が映っていた。
私は、有栖川澪です。
澪はその文字を見上げた。
自分は戻った。
完全ではない。これから法的な争いも、世間の騒ぎも、庁の追及も待っている。蓮司との関係も白紙に戻った。父との関係も、元には戻らない。
それでも、昨日の朝とは違う。
家族は澪を見ている。
会場の人々も澪を見ている。
そして今、社会が澪を見始めている。
津島は灰色のスーツの男たちに囲まれながら、何かの連絡を受けていた。表情は険しい。もう、すべてを隠し通すことはできないと悟っているのかもしれない。
蓮司が澪の隣に来た。
「終わっていません」
「わかっています」
「でも、大きく動きました」
「はい」
澪は美咲の手を握り、母の手も握った。
父は少し離れた場所に立っている。
澪は彼に視線を向けた。
父は、深く頭を下げた。
誰に向けてかはわからない。
澪にか。
美咲にか。
母にか。
会場の人々にか。
それとも、自分が壊したものすべてにか。
許すには、まだ遠い。
けれど、見ないふりはしなかった。
それだけは、澪の中に留めた。
会場のざわめきは、まだ収まらない。
招待客たちはスマートフォンを掲げ、誰かに連絡し、ホテルスタッフは対応に追われている。存在管理庁の職員たちは、もはや全員を止められない。
情報は広がっていく。
澪の名前も、広がっていく。
その広がりが怖くもあった。けれど、今は必要だった。
地下で名前を書き続けていた人たちに、この声が届くかもしれない。
白い帽子の女にも。
澪は心の中で、すみれの名前を呼んだ。
白石すみれさん。
私は、戻りました。
でも、まだ終わりません。
壇上に立つ澪の耳に、会場のざわめきとは別の音が届いた。
自分の鼓動だった。
昨日までは、消えないために必死でその音を聞いていた。
今は違う。
この鼓動を使って、次へ進む。
有栖川澪は、もう誰かに覚えてもらうだけの存在ではない。
誰かを覚え、誰かの名前を呼び返す側に立つのだ。
第七章 ゼロではない朝
その日の夕方、有栖川澪の名前は、初めて澪の知らない場所で呼ばれた。
誰かが撮影した披露会の映像は、会場を出るより先にネットへ流れた。最初は短い動画だった。壇上で美咲が「本来、その場所に立つべきだったのは、私の姉、有栖川澪です」と告げる場面。次に、蓮司が「私が本来、婚約していた相手は、有栖川澪さんです」と証言する場面。そして、澪がマイクを握り、「私は、有栖川澪です」と名乗る場面。
映像は数分で拡散した。
存在税。
低存在化処理。
関係資産譲渡。
家族に忘れられる制度。
婚約者に忘れられる処理。
有栖川澪という、消されかけた女。
言葉だけを並べれば、どれも現実味がなかった。都市伝説のようであり、陰謀論のようでもあった。だが、映像の中で澪は泣いていなかった。叫んでもいなかった。恐怖に震えながらも、はっきりと自分の名前を名乗っていた。
その姿が、見た者の疑いを少しずつ削った。
何より、人々は薄々知っていたのだ。
この国では、存在というものが、いつの間にか数字で扱われていることを。
存在税は誰もが知っている。通知は毎年届く。社会信用、家族関係、職業上の影響力、資産規模、婚姻関係、扶養関係。それらをもとに存在値が算出され、税額が決まる。表向きは、社会的影響力の大きい人間ほど公共コストを負担するという仕組みだった。
多くの人は、それ以上を知らなかった。
いや、知ろうとしなかった。
存在値が低い人間が、窓口で不便を強いられること。家族関係が書類上で解除されること。認識されにくくなる人々がいること。そういう噂は、誰もが一度は耳にしたことがある。けれど、日常は忙しい。自分の存在値が安定している間、人は他人が消える仕組みを深く考えない。
澪もそうだった。
だから、映像が広がるにつれ、人々は自分の中にあった薄い不安に名前を与えられたように反応した。
これは本当なのか。
自分の家族にも起こるのか。
存在値が下がると、何が起きるのか。
低存在化された人間は、今どこにいるのか。
存在管理庁は何を隠しているのか。
そして、有栖川澪とは誰なのか。
澪の存在値は、会場を出たあとも上がり続けた。
百九十。
二百三十。
三百。
五百。
だが、それは幸福な数字ではなかった。
スマートフォンの画面に表示される値が増えるたび、澪は自分が社会の目に晒されていくのを感じた。忘れられる恐怖とは違う。今度は、知らない人々に知られすぎる恐怖だった。
名前を奪われるのも怖い。
だが、名前だけが勝手に広がっていくのもまた、怖い。
披露会場は混乱の中で解散した。
ホテル側は「会場内の緊急事態」として招待客を別室へ誘導し、存在管理庁の職員たちは事態を収拾しようとした。だが、すでに遅かった。映像は複数の招待客によって保存され、外へ流れていた。ホテルの通信を一時的に制限しようとした動きもあったが、蓮司がホテル側に強く抗議し、会場にいた弁護士や記者関係者が騒ぎ始めたことで、強制停止はできなかった。
津島篤史は、最後まで表情を崩さなかった。
だが、彼が会場を出るとき、灰色のスーツの男たちが彼を囲んだ。その中には、存在管理庁の別部署の職員も混ざっていた。澪には詳しいことはわからない。ただ、津島がもはや一方的に命令する側ではなくなったことだけは見て取れた。
蓮司は言った。
「制度監査室の独断にするつもりでしょう」
「独断?」
「庁全体の問題ではなく、津島さんたち一部職員の不正として処理する。そのほうが、組織は守れる」
「それで終わるんですか」
「終わらせてはいけません」
蓮司の声には、これまでにない硬さがあった。
「私が知っている限り、同じような処理は他にもあります。有栖川家だけではない。白石すみれさんの件も、おそらく同じ構造です」
「白石さんは」
澪は、会場の喧騒の中で、地下に残った白い帽子の女を思い出した。
披露会の間、すみれからの連絡はなかった。旧地下連絡通路から逃げられたのか、回収班に捕まったのか。確かめる方法もない。
澪は何度かメッセージを送った。
返事はない。
その沈黙が、胸の奥に重く沈んでいた。
ホテルの控室には、澪、美咲、母、蓮司、そして父が集まっていた。
誰もすぐには帰ろうとしなかった。帰る場所があるのかもわからなかった。有栖川邸はすでに報道関係者に囲まれているらしい。父の端末には、取引先や親族からの着信が鳴り続けていた。母の端末にも、友人たちからの連絡が殺到している。美咲はスマートフォンの通知を切り、ただ両手でカップを包み込んでいた。
彼女の存在値は、八十一まで回復していた。
分離処理が成功したのだ。
だが、美咲はまだ震えていた。
「私、本当に残っている?」
何度もそう聞いた。
そのたびに、澪は答えた。
「いるよ」
「お姉様から、まだ何か取っていない?」
「取っていない」
「本当に?」
「本当」
美咲は頷くが、しばらくするとまた不安そうに澪を見る。
無理もなかった。
一度、他人の人生を着せられた人間は、自分の輪郭さえ疑うようになるのだろう。今の美咲は、澪のものを返した喜びより、自分が自分であることへの不安のほうが大きいようだった。
母はそんな美咲の肩を抱いた。
「あなたは美咲よ」
「でも、お母様」
「澪も私の娘。あなたも私の娘。それは、奪い合うものではなかったの」
母の声は静かだった。
美咲は母の肩に顔を伏せた。
澪はその姿を見ながら、胸の奥が少し痛むのを感じた。
母の腕の中にいる美咲。
子どもの頃から、よく見た光景だった。美咲は泣くのが上手だった。正確には、我慢しない子だった。母も父も、泣く美咲には手を伸ばした。澪はそれを少し離れた場所から見ていた。
羨ましかった。
自分は我慢できる子だと言われた。だから、我慢した。泣かず、怒らず、困らせず、長女らしく振る舞った。気づけば、澪自身もそういう自分を選んでいた。
そして父は、その我慢強さを利用した。
だが今、美咲を見ても、以前のような嫉妬だけではなかった。もちろん、何もなかったように許せるわけではない。美咲の隣に蓮司が立っていた光景は、まだ心に刺さっている。招待状の「新婦 有栖川美咲」という文字も忘れられない。
それでも、美咲が消えずに済んだことに、澪は心から安堵していた。
自分を取り戻すことが、妹を失うことにならなくてよかった。
それだけは、確かだった。
父は部屋の隅に立っていた。
椅子には座らない。誰とも目を合わせない。礼服のまま、窓の外を見ている。控室の窓からは、ホテルの庭と、その向こうに集まる報道陣の影が見えた。
宗一郎の背中は、昨日より小さく見えた。
澪はしばらく迷ったあと、父のそばへ行った。
「お父様」
宗一郎は振り返らない。
「私は、まだあなたを許していません」
「当然だ」
父の声は低かった。
「これからも、簡単には許せないと思います」
「それでいい」
「でも、今日、名前を呼んでくれたことと、公の場で認めてくれたことは、覚えておきます」
父の肩が、わずかに動いた。
「私は、自分を守ろうとしただけだ」
「それでもです」
「澪」
父はようやく振り返った。
その顔には、疲労が深く刻まれていた。父もまた、この一日で何かを失ったのだろう。社会的信用、家の体面、父としての威厳。そして、自分が正しいと思い込むための言い訳。
「お前は、私が思っていたより強かった」
澪は首を振った。
「違います」
「違う?」
「私は、強かったのではありません。ずっと弱いまま、強いことにされていただけです」
父は黙った。
「でも、今は、自分で立つことにしました」
それは、父に向けた言葉であると同時に、自分自身への確認でもあった。
父は目を伏せた。
「私は、警察に行くことになるかもしれない」
「はい」
「有栖川家も、どうなるかわからない」
「はい」
「お前は、それでいいのか」
澪は窓の外を見た。
ホテルの庭には、夕方の光が落ちている。数時間前まで披露会の華やかな舞台だった場所が、今は騒ぎの中心になっている。ニュースカー、報道カメラ、ホテルスタッフ、庁の職員。美しかった庭は、現実の重さを隠せなくなっていた。
「よくはありません」
澪は言った。
「よくはないけれど、仕方ありません。嘘の上に立っていたものは、一度崩れるしかない」
「厳しいな」
「お父様に似たのかもしれません」
父は、少しだけ目を見開いた。
澪は微笑まなかった。
それは冗談ではなく、事実だった。
澪の中には父に似た部分がある。頑固さ。最後の線を譲らないところ。正しさを求めるときに冷たくなるところ。認めたくなくても、それはある。
だからこそ、澪は父と同じ過ちをしないと決めなければならなかった。
人を守るために、人を消してはいけない。
どれほど正当な理由があるように見えても。
控室の扉がノックされた。
ホテルスタッフが顔を出す。
「久世様、内閣府の方が」
蓮司が立ち上がった。
現れたのは、津島ではなかった。
五十代くらいの女性だった。紺のスーツを着て、髪を後ろでまとめている。表情は硬いが、津島のような冷たさはない。彼女は蓮司を見ると、名刺を差し出した。
「内閣府存在管理庁、総務監察局の三枝です」
蓮司の顔がわずかに変わった。
「総務監察局」
「今回の件について、庁内調査を開始します。久世審査官にも、聴取に応じていただきます」
「承知しました」
三枝は澪へ視線を向けた。
「有栖川澪さんですね」
澪は頷いた。
「はい」
名前を呼ばれた。
それだけで、まだ胸の奥が反応する。
「あなたには、庁として正式に保護措置を」
澪はすぐに言った。
「保護という言葉は使わないでください」
三枝は一瞬、言葉を止めた。
「失礼しました」
「私は、保護されたいのではありません。消された事実を調査してほしいんです」
「そのために来ました」
「白石すみれさんを探してください」
三枝の表情がわずかに動く。
「白石すみれ」
「低存在化処理された元監査員です。彼女は地下の連絡通路で、消えかけた人たちを助けていました。回収班が来て、その後連絡が取れません」
三枝は少しの間、澪を見つめた。
「白石氏については、こちらでも記録を確認します」
「記録だけではなく、人として探してください」
澪の声は強くなっていた。
「名前が記録に残っていない人たちもいます。子どももいました。水沢ひなという女の子です。佐野香代子さんという女性も。名前を忘れないために、カードを首から下げていました」
三枝は無言で手帳を開いた。
紙の手帳だった。
澪はそれを見た瞬間、少しだけ信頼した。
三枝は名前を書き留めた。
白石すみれ。
水沢ひな。
佐野香代子。
「確認します」
「確認では足りません」
「捜索します」
三枝は言い直した。
澪は頷いた。
「お願いします」
三枝は母、美咲、父にも聴取への協力を求めた。父は拒まなかった。美咲は震えながらも「話します」と答えた。母は、写真と手紙を証拠として提出すると申し出た。佐伯も、家にある古い記録を整理すると言った。
控室の空気は、少しずつ現実へ戻っていった。
劇的な告発のあとには、地味な手続きが待っている。
聴取。
証拠提出。
記録保全。
報道対応。
法的手続き。
異議申立て。
調査委員会。
物語なら、一度の告発で世界が変わるのかもしれない。
だが、現実はそうではない。
世界は簡単には変わらない。
それでも、変わる入口までは開いた。
その日の夜、澪は有栖川邸には戻らなかった。
報道陣が集まっていることもあったが、それ以上に、あの家で眠る気になれなかった。母と美咲はホテルに部屋を取り、澪も同じフロアの別室に泊まることになった。父は三枝たちとともに庁の聴取へ向かった。蓮司も同行した。
「蓮司さん」
ホテルの廊下で、澪は彼を呼び止めた。
蓮司は足を止める。
「はい」
「あなたも、処分されるんですか」
「可能性はあります」
「承認ログの件で?」
「それもあります。記憶曖昧化同意書に署名しているのは事実です。私自身も、どこまで知っていて、どこから操作されたのかを明らかにする必要があります」
「怖くないんですか」
蓮司は少し考えた。
「怖いです」
その答えが、澪には意外だった。
「あなたも怖いと言うんですね」
「言います」
「昔はあまり言いませんでした」
「そうですか」
「はい。だから、今のほうが少し人間らしいです」
蓮司は困ったように微笑んだ。
「それは良い変化でしょうか」
「たぶん」
少しの沈黙。
ホテルの廊下には、柔らかい照明が灯っている。遠くでエレベーターの到着音が鳴った。外ではまだ報道陣が騒いでいるはずなのに、この廊下だけは静かだった。
蓮司が口を開いた。
「澪さん」
「はい」
「私は、あなたとの婚約関係をまだ完全には思い出していません」
澪は頷いた。
「はい」
「思い出した断片はあります。雨の日。桜。紅茶。あなたが私の服についた花びらを取ったこと。ですが、それだけです」
「はい」
「だから、今ここで、元に戻りたいとは言えません」
胸が痛んだ。
けれど、澪はその痛みを受け止めた。
それは、必要な言葉だった。
澪もまた、同じことを感じていた。
蓮司が思い出してくれたことは嬉しい。名前を呼んでくれたことも、証言してくれたことも、支えてくれたことも、すべて澪を救った。だが、だからといって昨日までの傷が消えるわけではない。彼の名前は、澪を消した書類に残っている。記憶曖昧化に同意した書類にも。
愛していた人だからこそ、簡単には戻れない。
「私も、すぐには戻れません」
澪は言った。
「あなたを信じたいと思う気持ちはあります。でも、怖い気持ちもあります。あなたに忘れられたときのことを、まだ覚えています」
「はい」
「あなたが私を知らないと言った顔を、忘れられません」
「……はい」
蓮司は目を伏せた。
澪は続けた。
「だから、婚約は一度、白紙にしたいです」
蓮司は静かに頷いた。
「わかりました」
「嫌ですか」
「嫌です」
澪は少し驚いた。
蓮司は顔を上げた。
「ですが、当然だと思います」
「正直ですね」
「今は、そうしたいと思っています」
「良いことです」
澪は、少しだけ笑った。
涙が出そうだった。
蓮司もわずかに微笑んだ。
「では、もう一度、知るところから始めてもいいですか」
「知る?」
「あなたの好きなもの。苦手なもの。昔のこと。今のこと。私が忘れたことを、あなたが許せる範囲で、もう一度教えてください」
澪は胸の奥が熱くなるのを感じた。
それは、元に戻るという言葉よりも、ずっと誠実に響いた。
「時間がかかります」
「はい」
「途中で怒るかもしれません」
「はい」
「泣くかもしれません」
「はい」
「あなたを責めるかもしれません」
「受け止めます」
「受け止めきれなかったら?」
「その時は、怒られます」
澪は笑ってしまった。
「本当に、あなたは」
言葉を途中で止める。
あなたらしい。
そう言いかけたが、今は少し違うと思った。
今の蓮司は、澪の知っている蓮司であり、知らない蓮司でもある。記憶を失い、罪を背負い、怖いと言うようになった蓮司。過去と同じではない。
それなら、澪も同じだ。
昨日までの澪ではない。
家族に忘れられ、存在を奪われ、名乗り返した澪。
二人とも変わった。
なら、戻るのではなく、始めるしかない。
「では、最初に一つ」
澪は言った。
「私は、アールグレイが苦手です」
蓮司は真剣に頷いた。
「覚えます」
「ダージリンは好きです」
「はい」
「でも、最近はほうじ茶も好きです」
「それは知りませんでした」
「今、教えました」
蓮司は少しだけ笑った。
「覚えます」
その言葉は、澪にとって、告白よりも大切に思えた。
覚えます。
消された澪にとって、それは愛に近い言葉だった。
翌朝、澪はホテルの部屋で目を覚ました。
カーテンの隙間から、白い光が入っている。
最初にしたことは、スマートフォンを見ることだった。
存在管理ポータル。
有栖川澪
現在の存在値:284
昨日の夜から、少し下がっていた。
一時的な注目が落ち着いたのだろう。だが、もう十二ではない。十四でもない。誰にも見えなくなる数字ではない。
澪は画面をしばらく見つめた。
高い数字だから安心するのではない。
ゼロではないこと。
それが大事なのだと思った。
部屋のドアをノックする音がした。
母だった。
その後ろに美咲もいる。二人とも寝不足の顔をしていたが、昨夜よりは落ち着いていた。
「おはよう、澪」
母が言った。
「おはよう、お母様」
美咲も小さく手を振る。
「おはよう、お姉様」
「おはよう、美咲」
ただの朝の挨拶だった。
それだけで、澪の中に何かが戻る。
三人でホテルの朝食を取った。
ぎこちない時間だった。母は何度も澪の顔を見た。確認するように。美咲は、自分の記憶が本当に自分のものか確かめるように、幼い頃の話を少しずつした。
「お姉様、私が七歳のとき、ピアノの発表会で泣いたの、覚えてる?」
「覚えてる。舞台袖で、手が冷たかった」
「お姉様も冷たかった」
「緊張していたから」
「お姉様も緊張していたのに、私だけ慰めてもらってた」
「私はお姉様だから」
そう言ったあと、澪は自分で少し笑った。
お姉様だから。
その言葉に縛られてきた。だが、今、美咲が澪を姉として呼ぶことは、澪を縛るものではなかった。失われた関係を結び直す言葉だった。
母が静かに聞いていた。
そして、ぽつりと言った。
「私は、あなたに我慢させすぎたのね」
澪はフォークを置いた。
「そうかもしれません」
母はその答えに傷ついたようだったが、逃げなかった。
「ごめんなさい」
「すぐには、大丈夫と言えません」
「ええ」
「でも、これから言えるようになるかもしれません」
母は頷いた。
「待ちます」
その言葉もまた、澪には必要だった。
午前十時、三枝から連絡が入った。
白石すみれが見つかった。
澪はその知らせを聞いた瞬間、立ち上がった。
すみれは、旧地下連絡通路のさらに奥、使われていない保守室で発見されたという。回収班から逃れるために、存在値の低い人々を逃がしたあと、自分は別の経路へ誘導していたらしい。怪我はあるが、命に別状はない。
水沢ひなも、佐野香代子も無事だった。
澪は力が抜けて、椅子に座り込んだ。
「よかった」
声が震えた。
すみれの存在値は、発見時点で二だったという。
二。
あと少しで、誰にも認識されなくなる数字だった。
三枝は電話口で言った。
「現在、医療機関と庁の監察部門が共同で対応しています。ただ、彼女たちの存在回復には時間がかかります」
「会えますか」
「今すぐは難しいですが、白石さんから伝言があります」
「伝言?」
「『戻ったなら、こちら側を見る約束を忘れないで』と」
澪は目を閉じた。
すみれらしい言葉だった。
「忘れません」
澪は答えた。
「絶対に」
その日の午後、存在管理庁は緊急会見を開いた。
会見では、関係資産譲渡処理に関する不適切運用があったこと、制度監査室の一部職員が承認ログの不正利用に関与した疑いがあること、低存在化処理の実態について第三者委員会を設置することが発表された。
言葉は慎重だった。
人を消したとは言わない。
記憶を奪ったとも言わない。
存在を譲渡したとも、はっきりとは言わない。
だが、隠しきれなかった。
記者から質問が飛ぶ。
「有栖川澪さんの件は、制度による人権侵害ではないのですか」
「低存在化された人々は、全国に何人いるのですか」
「家族関係や婚約関係を本人同意なく譲渡できる仕組みは、現在も稼働しているのですか」
「存在値が低下した人々への救済措置は」
会見場の映像を見ながら、澪は思った。
世界はすぐには変わらない。
けれど、質問が生まれた。
昨日まではなかった質問だ。
それだけでも、始まりだった。
父は、その日遅くに帰ってきた。
逮捕はされなかった。少なくとも、今すぐには。ただし、事情聴取は続く。事業上の不正や存在税の滞納、関係資産譲渡契約の申請経緯についても調べられるという。
父はホテルのロビーで澪に会うと、深く頭を下げた。
人目がある場所だった。
澪は驚いた。
父は体面を何より気にする人だった。その父が、ロビーで娘に頭を下げている。
「すまなかった」
その言葉は短かった。
きっと、十分ではない。
父がしたことは、その一言で消えるものではない。澪は忘れないだろう。家族に知らないと言われた朝を。婚約者の隣に妹がいた光景を。存在値十二の画面を。自分の部屋から痕跡が消えていたことを。
だが、謝罪を受け取らないことと、謝罪がなかったことにすることは違う。
澪は静かに言った。
「今は、受け取ります」
父は顔を上げた。
「許すという意味ではありません」
「わかっている」
「これから、全部話してください。私にしたことも、制度から何を持ちかけられたのかも、誰が関わったのかも」
「話す」
「美咲にも、お母様にも」
「話す」
「そして、逃げないでください」
父は疲れた目で頷いた。
「逃げない」
その言葉が本当かどうかは、これからわかる。
澪はもう、父の言葉だけを信じる娘ではなかった。
それでも、父が逃げないと言ったことは覚えておこうと思った。
数日が過ぎた。
世界は騒がしかった。
報道は続き、ネットでは有栖川家への批判と同情、存在管理庁への怒り、陰謀論、便乗する噂が入り混じった。澪のもとにも取材依頼が殺到した。顔も名前も知らない人たちから、応援の言葉も、心ない言葉も届いた。
存在値は高くなった。
だが、澪はそれを素直に喜べなかった。
知られることと、理解されることは違う。
多くの人が澪の名前を知った。けれど、澪という人間を知っているわけではない。映像の中の「消された令嬢」として見ている人もいれば、制度批判の象徴として扱う人もいる。中には、有栖川家の内輪揉めだと片づける人もいた。
それでも、澪は発信を続けた。
最初に出した文章は短かった。
私は、有栖川澪です。
私の存在は戻りつつあります。
けれど、まだ戻れていない人がいます。
低存在化された人々への救済と、関係資産譲渡制度の検証を求めます。
私の名前だけでなく、消されかけた人たちの名前を見つけてください。
その文章は拡散された。
数日後、匿名の投稿がいくつも現れた。
母が父を忘れた。
施設に入れられた祖父の記録が消えている。
別れた夫が子どもとの関係を解除していた。
会社の内部告発者が、翌日から誰にも認識されなくなった。
婚約破棄のあと、相手の名前が写真から消えた。
真偽はわからない。
だが、声が上がり始めた。
澪は、それらの声を読むたびに、地下で見たカードを思い出した。
水沢ひな。
お母さんはまだ私を探しているはず。
佐野香代子。
娘の名前は千春。
白石すみれ。
名前を何度も書いたノート。
一人ひとりに、名前がある。
数字だけではない。
一か月後、澪は小さな事務所を借りた。
有栖川家の資金は使わなかった。母が「援助させて」と言ったが、澪は断った。代わりに、弁護士や支援団体、元存在管理庁職員、報道関係者の協力を得た。
事務所の名前は、迷った末にこうした。
存在回復支援室 ゼロではない
看板は小さかった。
白い板に、黒い文字。
その横に、すみれが教えてくれた印を描いた。
丸の中に、点が一つ。
ゼロではない印。
開設の日、最初に来たのは白石すみれだった。
彼女は白い帽子をかぶっていなかった。
代わりに、髪を短く切り、杖をついていた。頬はこけ、以前よりずっと痩せている。それでも、目の奥の強さは変わっていなかった。
「地上に事務所を作るなんて、ずいぶん偉くなったわね」
すみれは開口一番そう言った。
澪は笑った。
「おかげさまで」
「皮肉よ」
「わかっています」
すみれは事務所の中を見回した。
机が三つ。相談用の椅子。紙のファイルを保管する棚。録音機。スキャナー。壁には、手書きで「名前を教えてください」と貼ってある。
「悪くないわ」
「褒めていますか」
「今のところは」
澪はすみれを椅子へ案内した。
「白石さんの存在値は?」
「二十八」
「上がりましたね」
「あなたのせいで、少し有名になったから」
「すみません」
「謝らないで。利用するためにあなたを助けたのだから」
すみれは淡々と言った。
「あなたが戻れば、前例になる。私は最初からそれを狙っていた」
「知っています」
「怒らないの?」
「少しは。でも、助けてもらったことも事実です」
「単純じゃなくなったわね」
「この数日で」
すみれは小さく笑った。
「いいことよ。単純な被害者でいられるうちは、まだ安全だから」
澪は彼女の言葉を受け止めた。
自分は被害者だ。
それは間違いない。
だが、被害者であるだけでは、これから先へ進めない。怒りも、悲しみも、恐怖も持ったまま、誰かの名前を拾い上げる側に立たなければならない。
事務所の扉が開いた。
水沢ひなが母親らしき女性に手を引かれて入ってきた。母親は泣き腫らした目をしている。ひなは澪を見ると、小さく手を振った。
「お姉さん」
「ひなちゃん」
「お母さん、いた」
ひなは誇らしげに言った。
母親が泣きながら頭を下げる。
「ありがとうございます。娘を、見つけてくださって」
澪は首を振った。
「私は、名前を聞いただけです」
「でも、聞いてくれました」
その言葉に、澪は胸が詰まった。
聞く。
見る。
名前を呼ぶ。
人の存在を支える行為は、思っていたよりずっと単純だった。
それなのに、この社会はそれを複雑な制度に変え、数字にし、税にし、契約にし、譲渡可能な資産にした。
だからこそ、澪は単純なところから始めることにした。
名前を聞く。
紙に書く。
声に出して呼ぶ。
そこからだ。
午後には、佐野香代子も来た。
彼女は娘の千春と再会したばかりで、まだ記憶が不安定だと言った。首から下げたカードは新しくなっていた。
佐野香代子
存在値:19
娘の名前は千春
今日、澪さんに会う
「今日の予定まで書くんですか」
澪が尋ねると、香代子は笑った。
「忘れたくないことが増えたので」
その笑顔を見て、澪は泣きそうになった。
夕方、蓮司が事務所に来た。
彼は存在管理庁を辞めていた。
正確には、依願退職の手続き中だという。調査には協力し続けるが、職員として残ることはしないと決めたらしい。
「生活は大丈夫なんですか」
澪が尋ねると、蓮司は真面目に答えた。
「当面は貯金があります」
「そういう意味ではなく」
「では、どういう意味ですか」
「……いえ、あなたらしいです」
蓮司は小さく首を傾げた。
以前なら、その仕草を見て澪は笑っていただろう。
今も、少し笑った。
ただし、胸の痛みはまだ残っている。
蓮司との婚約は正式に白紙になった。美咲との婚約記録も取り消された。三人の関係は、制度上いったん未確定になっている。
それでよかった。
白紙は、喪失ではない。
新しく書くための余白でもある。
蓮司は紙袋を差し出した。
「開設祝いです」
「何ですか」
「ダージリンです」
澪は中を見て、思わず笑った。
「覚えていたんですね」
「覚えました」
その言葉に、胸の奥があたたかくなった。
「ありがとうございます」
「それと、ほうじ茶も」
紙袋の奥に、もう一つ小さな包みがあった。
澪はそれを見て、しばらく黙った。
そして、言った。
「よくできました」
蓮司は真面目な顔で頷いた。
「ありがとうございます」
「褒められ慣れていないんですか」
「そうかもしれません」
二人は少し笑った。
その笑いは、過去に戻る笑いではなかった。
今ここから始まる、小さな笑いだった。
夜になり、事務所に一人残った澪は、机の上にノートを開いた。
白石すみれが使っていたものに似た、分厚いノートだった。
一頁目に、自分の名前を書く。
有栖川澪。
ゆっくり、丁寧に。
もう一度書く。
有栖川澪。
存在値は高くなった。家族も思い出した。世間も知った。紙の記録も戻りつつある。それでも、澪は書いた。
誰かに覚えてもらうためではない。
自分が自分を忘れないために。
次の行に、美咲の名前を書く。
有栖川美咲。
その下に、母の名前。
有栖川響子。
父の名前も書いた。
有栖川宗一郎。
少し迷ったが、消さなかった。
罪を犯した人間の名前も、なかったことにはしない。
その下に、久世蓮司。
白石すみれ。
水沢ひな。
佐野香代子。
千春。
名前が増えていく。
ノートの上に、いくつもの存在が並ぶ。
澪はペンを置き、窓の外を見た。
街は夜の光に満ちている。
そのどこかに、まだ名前を呼ばれていない人がいる。誰かに忘れられ、自分でも自分を疑い、存在値の数字を見つめながら消えかけている人がいる。
全部を救えるとは思っていない。
それでも、ゼロではない。
一人が一人の名前を呼ぶだけで、世界はわずかに変わる。
翌朝、澪は事務所の小さなソファで目を覚ました。
窓の外は、薄い青色だった。
あの朝と同じように、頬は冷たかった。けれど、涙ではなかった。開けた窓から入った朝の空気が、肌を冷やしていただけだった。
スマートフォンを見る。
存在管理ポータルには、こう表示されていた。
有栖川澪
現在の存在値:1
澪は一瞬、息を止めた。
数字が、また落ちたのかと思った。
だが、よく見ると、その下に小さな文字があった。
個人基礎存在値:1
社会認識値:算定停止中
関係資産:再審査中
暫定独立存在者として登録されています。
蓮司に聞かなければ正確な意味はわからない。
ただ、澪にはその数字が不思議と怖くなかった。
たった一。
けれど、ゼロではない。
社会の認識や家族の記憶や報道の注目がどう変わっても、最後に残る一点。自分が自分を存在として認める、最小の単位。
澪はノートを開いた。
有栖川澪。
昨日書いた名前が、そこにある。
紙の上に、筆圧が残っている。
澪は声に出した。
「私は、有栖川澪」
部屋には誰もいなかった。
だから、その声を聞いたのは澪だけだった。
それでよかった。
誰かに聞かせるためではない。自分が忘れないために言ったのだ。
窓の外で、朝の光が少しずつ強くなる。
澪は立ち上がり、事務所の扉を開けた。
廊下には、まだ誰もいない。けれど、今日は誰かが来るだろう。名前を忘れかけた人。忘れられた人を探す人。制度の中で迷子になった人。自分の存在を証明する紙を探している人。
澪はその人たちの名前を聞く。
紙に書く。
声に出して呼ぶ。
それだけで救えるとは思わない。
でも、そこから始める。
扉の外に、朝の空気が広がっていた。
その空気の中で、澪の声は小さかった。
けれど、確かに重さを持っていた。
了




