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隻眼の女辺境伯は、虐げられた伯爵子息を不器用に愛でる

作者: 春樹凜
掲載日:2026/04/21



 ジゼル・アステラルは、執務机に広げられた羊皮紙の山を前に、もう何度目か分からないため息を吐く。

 戦場では一度も感じなかった種類の疲弊が、じわじわと首の後ろに溜まっていく。


 ジゼルはもともと、名もなき平民の娘だった。

 身分も後ろ盾も持たず、ただ剣の才だけを頼りに軍へ志願し、気づけば最前線に立っていた。


 隣国との長きにわたる戦争において、彼女は幾度もの激戦を生き延び、数えきれないほどの敵を屠った。

 その苛烈な戦いぶりはやがて敵味方問わず知れ渡り、『隻眼の死神』という二つ名が戦場を駆け巡るようになった。


 左目を失ったのは、味方の兵士をかばった時のことだ。

 盾になって受けた傷だったが、その後も彼女の剣が止まることはなかった。


 そして戦争が終わり、王家から下賜されたのがこのアステラル辺境伯領と、アステラルの姓だった。

 

 かつて隣国に占領され、長年にわたる苛烈な搾取によって骨の髄まで疲弊しきったこの土地を、ジゼルは半年前から治めている。


 戦場で剣を振るうことなら何年でもできる。

 だが、荒れた農地、朽ちかけたインフラ、領民たちの澱んだ目に、いつまでも終わらないこの山積みの書類……。

 これらを前にすると、ジゼルは自分がひどく場違いな場所に立っているような気がした。


 税収の見込みを立てろと言われても、そもそも何をどう計算すればいいのか分からない。

 近隣の貴族から届く挨拶状にどう返せばいいのかも分からない。

 分からないことだらけの中で、ジゼルがかろうじてできることといえば、領内に残っているらしい隣国残党の掃討くらいのものだった。


 それはできる。

 それだけは、誰よりもできる自信がある。

 むしろそれしかできない。


 だが剣をいくら振ったところで、書類は片付かない。

 ジゼルの能力を知る王家から、補佐役の使用人は何人か送られたものの、重要な案件はやはりジゼルが確認するしかない。

 領主の決裁権は、ジゼルにしか持てないのだ。 

 

 けれど、紙とにらめっこする日々ももう終わりだ。

 間もなく来るはずの婿が、その辺りを補ってくれることをジゼルは期待していた。 


 ――この縁談は、王家の差配によるものだった。

 ジゼルが賜ったアステラル辺境領を安定させるため、内政・外交・商業に長けていると言われるヴェルナン伯爵家と婚姻で結びつけるという政略的な一手だ。


 婿本人の能力よりも、ヴェルナン家という家と縁続きになることで、その金と人脈を辺境領に流す。 

 それが王家の狙いだった。


 ジゼルへの恩着せなどではない。

 国境防衛を安定させたい王家の、極めて合理的な判断である。


 ジゼルもそれは承知していた。

 承知した上で、期待していた。 


  婿として名前が挙がったのは、ヴェルナン伯爵家の次男、セオドア・ヴェルナン。

  社交界の華をつまみ食いして回るイケメンだという噂は耳に入っていたが、そんなことはどうでもよかった。


 ヴェルナン家の跡取りであるマックスは、対外においても社交においても申し分のない当主候補と言われていた。 

 そこにセオドアが補佐として加わることで、伯爵領はさらに盤石に運営されているという評判だった。


 そのセオドアが来るなら、内政を任せられる。

 それだけが重要だった。

 

 顔がよかろうが悪かろうが、女遊びが激しかろうが、書類を片付けて領地を回してくれるなら何でもいい。


 だが実際は――。


 ジゼルは思考を途切れさせ、深くため息をついた。


 羊皮紙の端がくしゃりと歪む。

 つい強く握りすぎてしまった。


 補佐役であり家令でもあるマニッシュが、一体何枚紙を犠牲にするのかと言わんばかりにジゼルに苦い表情を向けている。

  

 力を加減するのは、どうも昔から苦手なのだ。

 そのくらいは大目に見てくれてもよかろうと思いながら、ジゼルは無言で羊皮紙を伸ばす。


 その時、扉を軽くノックする音がした。


「失礼いたします、ジゼル様。ヴェルナン家よりお客様がお着きになりました」


 侍女頭のマリアの声に、ジゼルは立ち上がった。 

 重い腰を上げる、というのはこういうことを言うのだろうと思いながら。


 廊下を歩きながら、ジゼルは改めて経緯を頭の中で整理した。


 本来ならセオドアが来るはずだった。

 しかし彼には不治の病が見つかり、戦後処理も終わっていない辺境の地への婿入りは医師の見立てからも難しいとヴェルナン家は言った。


 それ自体は筋の通った話だ。

 ただ、噂というのは耳の早いもので、王都ではその病は方便ではないかと囁かれているとも聞く。


 真偽のほどはわからないが、いずれにせよジゼルには関係のない話だった。


 しかし、王命は覆らなかった。

 王家はセオドア個人の辞退こそ認めたものの、婚姻そのものを取り下げることは認めなかった。


 要するに王家にとっては、ヴェルナン家と縁続きになりさえすればそれでいい。

 誰になろうと構わないということだ。 


 そしてヴェルナン家から代わりに送られてくることになったのが、三男のブルーノ・ヴェルナンである。


 伯爵家の厄介者、というのがもっぱらの評判だった。

 庶子で、無能で、女遊びはセオドアに輪をかけて激しいと言われている。

 手を出して捨てた平民の女性は星の数ほどいると聞く。


 紹介状に書かれた一文はあまりにも素っ気なく、特筆すべき能力なし、という言葉がやけにはっきりと目に焼きついた。

 

 ヴェルナン家にとってこれは厄介事の押し付けで、自分はそれを受け取る側になったのだと、内心で吐き捨てた。

 

 ジゼルの頭に、ひとつの顔が浮かぶ。

 この領地を賜った日、にやにやしながら言っていた悪友の顔だ。


『いい婿を紹介してやるから楽しみにしとけ』


 フレッド。

 戦場を共に駆け抜け、幾度も死線をくぐり抜けた相手。

 肩書きは王子だが、ジゼルにとっては対等な悪友以外の何者でもない。

 その男が、あの時確かにそう言っていた。 


 どのあたりを楽しみにしとけというのか。

 今すぐあのにやけ面に一発食らわせてやりたい、とジゼルは心の内で毒づいた。


 だが拒否権はない。

 何度もいう。

 これは王命だ。


 ジゼルは玄関へと続く最後の廊下を曲がり、扉の前で足を止めた。


 使用人が扉を開ける。


 と、光が差し込む玄関に、一人の青年が立っていた。


 ジゼルは目を見張る。

 理由は、彼が噂に違わぬ放蕩息子ぶりだったから――ではない。


 目の前にいたのは、栄養失調だといわんばかりにがりがりに痩せ、目に光のない虚ろな青年だった。

 ジゼルの五つ下の十七と聞いていたが、もっと下に見える。

 まだ子供のようではないか、とジゼルは思った。


 茶色の髪は手入れされた様子もなく、粗末な旅装束はその細い体にひどく不釣り合いだった。

 立っているだけで精一杯というふうに、玄関の柱にわずかに寄りかかっている。


 戦場で補給物資が途絶え、飢餓で苦しみながら痩せ細っていく仲間たちを、ジゼルは何度も見てきた。

 それでもまだ、あの者たちの方が体格はましだった。


 女遊びが激しい、と紹介状には書いてあったが。


 ――これのどこにその気力があるというのか。


 ジゼルは思わず傍らに立つ使用人と顔を見合わせた。




○○○○




「名を問うていいか」


 ジゼルの言葉に、青年はわずかに間を置いてから、掠れた声で答えた。


「……ブルーノ・ヴェルナンです」


 本人に間違いなかった。


 傍らに控えていたマリアが小声で付け加える。

 伯爵家の紋章入りの馬車の御者も、確かにそう言っていたと。

 そしてその馬車は、ブルーノを玄関前に降ろすが早いか、振り返りもせずに走り去っていったらしい。


 ジゼルは思わず顔を歪めて舌打ちをした。

 無能を押しつけられたからという苛立ちからではない。

 荷物を届けるような真似をしおって、とヴェルナン家への怒りが一瞬込み上げたが、途端にブルーノがびくっと表情を強張らせた。


 すかさずマリアから耳打ちされる。


「ジゼル様、その顔は威圧しております」


 それに呼応するように、マニッシュも静かに頷いた。


「……あー、その、お前に怒っているわけではない。気にするな」


 ジゼルは慌てて表情を和らげようと、笑顔というやつを作ろうとした。 

 我ながらなかなかの出来だと思っていたのだが、ブルーノの顔は変わらない。


 するとマリアが助け舟を出すように、すかさず口を添える。


「ジゼル様のお顔は普段からこうですので、お気になさらず」

「おい」


 助けに見せかけた、ジゼルへの攻撃に他ならない。


 ジゼルはギロリとマリアを見た。

 マリアは動じず、にこりともせず、ただ真顔でそう言っていた。


「一言多くないか」

「事実でございますので」

「私はお前の雇用主だぞ。少しは主人を立てようという気はないのか」

「事実でございますので」


 ……二度言った。


 マニッシュは何も言わなかったが、ただ柔らかく微笑んでいた。

 その笑顔が、マリアの言う通りだと雄弁に語っていた。


 隻眼の死神と呼ばれ、戦場では敵味方問わず恐れられたこのジゼルが、なぜ屋敷の使用人たちには一向に通じないのか。

 その筆頭がこの二人であることは、もはや疑いようもなかった。


「……まったく」


 ジゼルが低く唸ったその時、小さな音が聞こえた。


 ブルーノが、笑っていた。

 声にならないほど小さな、しかし確かな笑みだった。

 すぐに気づいたのか、はっとしたように口元を押さえる。


「す、すみません」

「気にしなくていい」


 ジゼルはそう言いながら、内心でほっと息をついた。

 笑えるだけ、よかった。


 無能を押し付けられたという苛立ちも、気づけばどこかへ消えていた。

 それよりも今は、目の前のブルーノをどうにかしなければならない。


 改めてまじまじと見れば見るほど、ひどい有様だった。

 風が吹けば折れそうな細い腕、青白い顔色、虚ろな目。


 戦場に放り込まれようものなら一瞬で死ぬ。

 いや、戦場でなくとも、このまま辺境の厳しい冬を迎えたら無事に越せるかどうかも怪しい。


 まず飯だ、とジゼルは思った。

 飯を食わせて、風呂に入れる。

 それだけだ。

 単純な話だ。


 単純なはずだった。


「食え」


 ジゼルは厨房から運ばせた料理を、どんと卓に並べた。

 パンに、スープに、肉の煮込みに肉を炙ったものに肉を焼いたもの。


「肉を食えば何とかなる。食って食って食いまくれ」


 とにかく食わせなければという一心で、皿を次々と押しつけようとしたところで、マリアに腕を掴まれた。


「ジゼル様、お待ちください」

「なぜだ。飯を食わせるだけだろう」

「この方の状態を見てください。いきなりこれだけの量を食べれば、体が悲鳴を上げます。まずは薄い粥から始めなければなりません」


 ジゼルは眉をひそめた。

 粥とは、あの水っぽいやつか。

 あんなもので腹が膨れるとは到底思えないが、マリアの目は本気だった。

 たおやかな見た目で、自分とさほど年の離れていないマリアだが、ジゼルはいつも逆らえない。


 渋々引き下がり、粥を用意させる。


 ブルーノは卓の前に座ったまま、この一連のやり取りを黙って見ていた。

 先ほどは小さな笑みを見せたものの、今の彼の表情は読めなかった。


 困惑しているような、何かを警戒しているような、それでいて何も感じていないような、奇妙な無表情だった。


 粥が運ばれてくると、ブルーノはゆっくりと匙を手に取った。

 口に運び、飲み込む。

 それだけの動作が、ひどくぎこちなかった。


 しかも数口食べたところで、匙が止まった。


「……もう、大丈夫です」

「大丈夫なわけがあるか。まだ半分も食っていないだろう」


 マリアがジゼルの袖を引いた。

 小声で言う。


「胃が小さくなりすぎているんです。無理に食べさせると戻してしまいます。今日はこれで十分です」


 十分なはずがない、とジゼルは思った。

 しかし口には出さなかった。

 代わりに腕を組み、不満を全身で表現しながらも黙って引き下がった。


 次に風呂だ、とジゼルは思った。


「風呂に入れ。私が背中を流してやる」


 しかし、今度はマニッシュが即座に立ちはだかった。


「なりません」

「なぜだ」

「ジゼル様の膂力で背中をこすれば、皮膚が剥げます」


 ジゼルは自分の手を見た。

 長年剣を握り、戦場を駆け抜けてきた手だ。

 確かに、加減というものが得意ではないことは自覚しているが。


「加減する」

「本当にできますか? ……先週ダメにした羊皮紙の枚数を覚えておいでで?」

「……任せる」


 剣ならばともかく、口では生涯敵う気がしない相手だ。

 マニッシュにも、ジゼルは静かに敗北した。


 使用人たちにブルーノを任せ、ジゼルは廊下でひとり腕を組んで待った。


 それにしても、あれは一体どういうわけだ。

 女遊びが激しい無能の庶子と聞いていた。

 しかし実際に現れたのは、まともに食事も取れない、風呂も自分では入れないような青年だった。


 あの細さは、一朝一夕でなるものではない。

 長い時間をかけて、少しずつ削られてきた体だ。


 ジゼルは壁に背を預け、天井を見上げた。

 厄介事を押し付けられた、などという感想は、もうどこにもなかった。


 風呂から上がったブルーノは、確かに幾分かましになっていた。

 清潔になり、用意した新しい服に袖を通したその姿は、先ほどよりも人の色をしていた。

 それでも顔色は白く、目の下には濃い隈が刻まれている。


「部屋に案内する。休め」


 ジゼルがそう言うと、ブルーノは微かに首を横に振った。


「……お気遣いなく。廊下の端で構いません。外でも」

「は?」

「こんな立派な部屋は、自分には」


 ジゼルはブルーノの顔を見た。

 冗談を言っている様子はまるでなかった。

 廊下の端でも外でも、本気でそれでいいと思っている目だった。


 ジゼルは二秒ほど黙った後、ブルーノの襟首を強引にひっつかみかけ――すかさずマニッシュに睨まれたので横抱きに変更し――用意しておいた客室へと連れていった。


「わっ」

「いいから寝ろ」


 天蓋付きのベッドに、問答無用で放り込む。

 ブルーノはふかふかの寝具の中に沈み、戸惑ったように目をしばたたかせた。


「で、でも」

「でもはない」


 とジゼルは腕を組んだ。


「眠れないなら子守唄でも歌ってやる。それとも私の戦果でも寝物語に語ってやろうか」


 傍らに控えていたマリアが、そっと口を挟んだ。


「ジゼル様の戦果は、安らかに眠るには刺激が強いかと存じます」

「面白いだろう」

「面白うございます。ただ眠れるかどうかは別の話で」


 ジゼルが言い返そうとしたとき、ブルーノが掠れた声で言った。


「……聞かせてください」


 ジゼルは少し驚いて、ブルーノを見た。

 疲れ果てた顔で、それでも小さく、聞かせてほしいと言っていた。


「そうか」


 ジゼルは椅子を引き寄せ、ベッドの傍らに腰を下ろした。

 マリアが苦笑いしながら部屋の端に退く。


 最初は小さな声で語り始めた。

 隣国との最初の交戦のこと、仲間たちのこと、戦場の夜明けがどんな色をしていたか。


 しかし話しているうちに、だんだんと熱が入り、声が大きくなっていく。


「あの戦いは本当に壮絶で、右から崩されたところを立て直したあの采配は我ながら見事だったと思うのだが、しかしそれよりも何よりもあの場面は――」


 と立ち上がりかけた時、マリアの視線に気づいた。


 てっきりうるさすぎるとでも注意されるのかと思いきや、マリアの視線の先を辿ると……。


 いつの間に、ブルーノは健やかな寝息を立てて眠っていた。

 ふかふかの寝具に半ば沈みながら、顔の力が抜けて、穏やかな寝顔をしている。

 安堵したような顔は、起きている時よりもさらに幼く見える。


 ジゼルは立ち上がりかけた姿勢のまま、しばらくその顔を見ていたが、やがてマリアを伴い静かに部屋を出た。


 廊下に出ると、マニッシュと、彼とともに風呂の世話をした使用人のダンが待っていた。

 二人の顔は、心なしか硬かった。


「別の部屋で話を聞こう」


 ジゼルは三人の使用人を引き連れ、隣の小部屋へ移り、扉を閉める。


「気づいたことを話せ」


 まずマリアが口を開いた。


「食事についてです。あの方の胃と腸の状態から見て、日常的に満足な食事を与えられていなかったことは間違いないかと思います。今日だけの話ではなく、長い年月をかけてああなっています」


 ジゼルは黙って聞いた。


「それから、お顔立ちですが……現ヴェルナン伯爵様とよく似ておられます。庶子とは伺っておりましたが、血筋は確かなのだろうと」

「続けろ」


 ダンが躊躇いがちに口を開く。


「体に、傷と痣がございました。古いものも、比較的新しいものも。不自然な場所に、不自然な形で」


 ジゼルの眉間に、静かに皺が寄った。


「これは、その……転んだとか、ぶつけたとかいう類のものではないと思います。おそらくは、肉体的にいたぶられていたかと」


 彼女の怒りに半ば恐怖心を感じた表情を浮かべながらも、ダンははっきりと言葉にした。

 部屋に沈黙が落ちる。


 ジゼルは何も言わなかった。

 しかし拳が、静かに握られていた。


「ジゼル様」


 マニッシュが小声で言った。


「分かっている」


 ヴェルナン家がブルーノのあの状態を把握していなかった、とは思えない。

 もし本当に知らなかったのだとしても、それはそれで問題だ。


 腹は立っている。

 正直に言えば、今すぐ馬を飛ばしてヴェルナン家に怒鳴り込みたいくらいには。

 しかしそれをしたところで、彼の何かが変わるわけではない。


「今は、ブルーノの体と安全が先だ」


 ジゼルは言った。


「事情については、本人が話すまで触れるな。こちらからは聞かない。いいな」


 三人が頷く。


「それから、食事は少量ずつ、回数を増やして出してやれ。部屋は今のままでいい。廊下でいいなどと言い出しても、聞かなくていい。……あと」


 ジゼルは少し間を置いた。


「何かあればどんな小さなことでも構わん。すぐに私に知らせろ」

「かしこまりました」


 マニッシュがそう返答すると、他の二人も心得たとばかりにもう一度、深く頷いた。




◯◯◯◯




 ブルーノが来て、半月が経った。


 食事はまだ人並みとはいかない。

 それでも、あの日の乳飲み子ほどの量から、今では三歳児ほどには食べられるようになっていた。


 果物も少しずつなら口にできるし、スープなら椀に半分は飲める。

 顔色も、あの青白さから幾分か血の気が戻ってきた。

 体調も悪くなさそうだ。


 女遊びが激しいという噂については、来てすぐに嘘だとわかった。

 そういう気配は微塵もない。

 屋敷の女性使用人に目を向けることもなければ、色めいた素振りもまったくない。

 一体どこからそんな噂が立ったのかと首を傾げるほどだった。


 ジゼルはひそかに人を走らせ、ヴェルナン伯爵家についての情報を集めさせていた。

 使いはまだ戻っていないが、そのうち帰ってくるだろう。


 ブルーノに対しては、端から何も求めるつもりはなかった。

 あれだけ衰弱していた人間に実務も何もあったものではない。

 とりあえず食わせて、休ませて、体を作ることが先だ。


 伯爵家に帰すつもりは毛頭なかった。

 あの家に戻すくらいなら、ここに置いておく方がよほどいいとジゼルは思っていた。


 食い扶持の一人や二人、どうってことはない。

 名目上は婿だが、そういう義務を今のあの体に求めるつもりは毛頭なかった。

 元気でいてくれれば、それで十分だ。 


 だが、内政はやはり自分が何とかするしかない。


 隣国がこの地を治めていた頃、送り込まれた統治者は苛烈な搾取の一言で、重税に加えて食料・家畜・労働力までを根こそぎ徴収していた。


 ジゼルが奪還した時、領地の記録は散逸し、引き継ぎはほとんど機能していなかった。

 その上、前の担当者が残した台帳は、そのまま使えるような代物ではない。

 数字が合うたびに別の箇所がおかしくなる。


 いっそ最初から書き直した方が早いかもしれないと腹を括り、ジゼルが今年度の租税台帳と格闘していると。


「あの」


 ジゼルは台帳から顔を上げる。

 執務室の扉口に、ブルーノが立っていた。


「僕にも、手伝わせてもらえませんか」


 しかしジゼルは即座に断る。 


「休んでいろ。まだ体調は万全ではなかろう」

「ジゼル様やここの皆さんによくしてもらっていますので、もう平気です」

「だめだ。戦場でも、自分は大丈夫だと言い張った兵士ほど翌朝動けなくなるものだ。体の過信は禁物だ」

「……僕は婿としてここへ来ました。何もしないわけには」

「気にするな」


 ジゼルは台帳に目を戻した。


「お前には特に何も期待していない。役目がどうとか気にしなくていい」


 ……一瞬、間があいた。


 ジゼルが顔を上げると、ブルーノの表情が曇っていた。

 目線が、わずかに床に落ちている。


 しまった、と思った。


 気を遣う必要はない、という意図からの発言だった。

 しかしそれが伝わっていないのは、ブルーノの顔を見れば一目瞭然だ。


「……待て、そういう意味では」

「いえ」


 静かな声だった。


「っ……僕が役立たずなのは、分かっております」


 微塵も分かっていない顔だった。

 ジゼルは口を開いたが、言葉が出なかった。


 フレッドがいれば、この言葉足らずさに今頃笑い転げているだろうと、場違いなことを思った。


 ここで、二人のやり取りを見ていたマニッシュが、深いため息をついた。


「ジゼル様が仰りたいのは、役に立てないから何も求めないということではなく、体調が戻るまでは何も求めないということかと存じます」


 絶妙な助け舟だった。

 戦場でも、こういう男がいた。

 怒号と混乱の中、一言で場を収めてしまう人間が。

 あの時の伍長に少し似ているな、とジゼルはすかさず頷いた。


 ブルーノは目を丸くしたあと、肩の力がすうっと抜けるように、小さく息をついた。


「お心遣いは、ありがたいです」

「だから気にせず、庭を散策するなり、菓子でもつまんだりしておけば……」

「ですが」


 ブルーノの声が、ジゼルの台詞を遮った。

 そして彼の声音がわずかに変わった。


「それでも、させてください」


 懇願、というやつだろうか。

 細い指が扉の縁をそっと掴んでいる。


 ジゼルは断ろうとした。

 実際、口を開きかけた。


 しかしその時、ブルーノの目がわずかに揺れ、今にも泣き出してしまいそうだった。

 いや、実際に泣くかもしれない。


 ジゼルは天を仰ぐ。

 戦場で怒号が飛んでも眉一つ動かさなかった自分が、泣きそうな顔一つで敗北するとは思っていなかった。


 しかし涙というのは、昔から苦手だ。

 どうにも参る。

 隻眼になった時でさえそうだった。

 名誉の負傷だ、仲間の命には代えられないと言っても、助けた兵士に泣かれて泣かれて、宥めるのに半刻かかった。

 あの時の疲労感が、今も鮮明に蘇る。

 

 先に白旗を揚げたのはジゼルの方だった。


「……少しだけだ。疲れたらすぐに言え」


 そう言うと、ブルーノは嬉しそうに頬を緩めて頷いた。


 結果、ジゼルは目を見張ることになった。

 ブルーノは書類の山の前に座るなり、慣れた手つきで仕分けを始めた。

 何を優先すべきか、何を後回しにできるか、どの問題がどの問題と繋がっているか。

 彼の動きには迷いがない。


 ジゼルが三日かけて読んでも手を付けられなかった税収の書類を、ブルーノは半刻もかからず整理してみせた。


 それだけではない。


「この農地の区画ですが、まず水路を直すことが先決です。水が通れば来季の収穫が変わります」

「そうなのか」

「それからこの近隣貴族への返書ですが、ここはこう返した方が角が立ちません」

「なぜ分かる」

「この家は三代前からこういう文面を好みます」


 ジゼルは何も言えなかった。


 さらに半月が経った。

 ブルーノの体が回復するにつれて、仕事をさばく速さも上がっていった。

 顔に少しずつ肉がつき、目の隈が薄れ、虚ろだった瞳にわずかな光が戻り始めた。

 それに比例するように、書類の山が目に見えて減っていった。


 ……無能と聞いていた。

 特筆すべき能力なし、と紹介状にも書いてあった。

 だが、これは一体どういうことだ、とジゼルは思った。


 そこへ、ヴェルナン伯爵領へ遣わせていた使いが戻ってきた。


 中庭にいるブルーノの後ろ姿を確かめてから、ジゼルは執務室に使いの者を呼び入れた。


 報告によると、ブルーノが辺境領に来て以来、ヴェルナン伯爵領の内政がどうも回っていないらしい、という噂が立っているという。


 不可解なことに、有能と名高い長男マックスも、その補佐として定評あるセオドアも、ちゃんと揃っているにもかかわらずだ。

 原因の一端としては、セオドアが病に臥せっており、満足に書類を片付けられないのも関係しているようだ。


 本当に病だったのかと、ジゼルは驚く。

 てっきり縁談を断るための方便だと思っていた。


 が、さらに話を聞くと、そう言いながらもセオドアは、派手な噂が立たないようにか、平民の娘たちと夜な夜な遊びに繰り出しているという話もあるという。

 ……では、やはり不治の病とやらも、真偽が怪しいということになる。

 

 それにしても有能なマックスがいるのなら、多少時間がかかったとしてもそこまで仕事が滞るはずがない。

 父親は実務面での才に乏しいことが知れ渡っており、母親は社交に明け暮れていてそちらの力にもなれないらしい。

 

 使いの者が退出した後、部屋にはジゼルの他に、マニッシュとマリアが残った。


「可能性の域は出ませんが、ブルーノ様のあの能力といい、伯爵領を実際に回していたのは……」


 ジゼルは低く唸る。

 マニッシュが言葉にしなくても、言いたいことは分かった。


「実質ブルーノ様が実務を担当しておいでだったのでしょう」


 マニッシュがあえてぼかした続きを、しかしマリアがなんの躊躇もなく踏み越え、あっさりと口にした。


 おそらくは、彼女の言う通りであろう。

 そうでなければ、放蕩息子と噂で貴族と何の繋がりも持たないブルーノが、三代前の貴族家の文面の癖など知っているはずがない。

 水路と農地の関係を、なぜあれほど即座に見抜ける。


 直接本人に聞けば早い話だ、とも思った。

 だが、無理に問い詰めるのは違う気がした。

 まだそういう話ができる段階ではない、とどこかで感じていた。


 ジゼルは窓の外に目をやった。

 中庭で、ブルーノが領地の地図を広げて何かを書き込んでいる。

 まだまだ細い体で、休めと言ったにもかかわらず、真剣な顔で、ただ黙々と働いていた。




◯◯◯◯




 ブルーノは、最初の頃は何をされても恐縮しっぱなしだった。


 食事を出されれば恐れ多いと言い、話しかけられれば申し訳なさそうに縮こまった。

 ジゼルの優しさをどう受け取ればいいかわからない、という顔をずっとしていた。


 彼の体躯から察するに、今まで誰にもそうされてこなかったのだろう。

 急に慣れろという方がおかしい。


 だから急かさなかった。

 ただ、他の人に接するのと同じように接した。

 

 飯を食え、休め、無理はするな。

 それだけを繰り返した。


 三ヶ月経ち、ブルーノは恐縮しなくなっていた。


 ジゼルが何かを差し出せば、素直にありがとうございますと受け取るようになっていた。

 それだけのことだが、十分だった。


 長年押し込めてきたものが溶け始めているのだと、ジゼルには分かった。

 言葉にはならないが、目を見れば分かる。

 あの虚ろが、少しずつ埋まっている。


 そして今。

 いつの間にかブルーノが執務室で書類を捌き、交渉文を書き、領地の問題を一つずつ整理していく役割を担うようになっていた。


 一方でジゼルは剣を腰に、領内の巡回と残党の掃討に出る。

 帰ってきたジゼルが戦況を報告し、ブルーノがそれを踏まえて次の手を考える。


 このやり方は、驚くほど噛み合っていた。


 ブルーノの体は、着実に人並みの体格に近づいていた。


 顔色が人の色になり、頬に薄く肉がついてきた。

 茶色の髪も、手入れをすればなかなか艶がある。

 整えられた顔立ちは、よく見れば悪くない。


 食事も、時間が許すならば一緒に取るようになっていた。

 最初はブルーノが恐縮して「そんな、自分はジゼル様の後で」と言い張ったが、ジゼルが「うるさい、一緒に食え」と一蹴してからはそれが当たり前になった。


 ブルーノが食べられる量は少しずつ増えていき、今ではジゼルの半分ほどは平らげるところまで来ていた。


 ある日、ジゼルがうっかり口にした。


「せめて私と同じ量まで食べられるようになってほしいものだ」


 間髪入れず、側にいたマリアが返す。


「ジゼル様と同量というのは、並の人間には熊と同じ食卓に着けと言っているようなものでございます」


 ジゼルは言い返せなかった。

 ブルーノは思わずといったように笑っていた。

 しかし、ジゼルは不快には思わなかった。


 夜は、戦果の続きを話すのが習慣になっていた。


「それでその後どうなったんですか、あの砦の話」


 ブルーノはベッドの上で膝を抱え、目を輝かせていた。

 来た当初の虚ろな目が嘘のようだった。


「ああ、あれか」


 ジゼルは椅子に腰を下ろし、腕を組んだ。


「私が五人連れて崖を登ったんだが、その崖が」


 語り始めると止まらなかった。

 ジゼル自身、戦場の話をこれほど熱心に聞いてくれる人間と話したことが、この屋敷にはいないからかもしれない。


 ブルーノは相槌を打ち、時々質問を挟み、目を丸くしたり、息を呑んだりしながら聞いていた。

 ブルーノの熱心な眼差しに引っ張られるように、声に力が入る。 

 立ち上がって、興奮が蘇って身振り手振りが加わっていた。


 気づけば……ブルーノが眠っていた。


 毎回そうだ。

 いつも決まって、ジゼルが最も熱の入ったところで、静かに眠る。

 ジゼルは苦笑いしながら声を収め、ブルーノをベッドに横たえて毛布をかけてやった。


 ある時、まだ眠る前のブルーノがぽつりと言った。


「ジゼル様の声は、安心します」

「私の声がか?」

「はい」


 ジゼルは少し考えた。

 自分の声といえば、戦場で怒号を飛ばし、敵を凍り付かせ、味方の士気を上げるために使ってきた声だ。

 部下からもマリアからも、うるさいと言われたこともある。


「……人生とは、分からんものだな」


 呟いた時には、もうブルーノは眠っていた。




◯◯◯◯




 彼と過ごしていく中で、分かってきたことがある。


 ブルーノは、頑固だった。


 穏やかな顔をして、物腰も柔らかで、声も優しげだ。

 しかし一度これだと決めたことは、なかなか曲げない。


 特に、ジゼルの甘いところを見つけた時がそうだった。


「ジゼル様、この近隣貴族への対応ですが、もう少し丁寧に返書を出した方がいいと思います。このままでは角が立ちます」

「そんな細かいことを気にする必要があるか?」

「あります」


 にこりともせず、静かに、しかし確実に言い切る。


「…… そうか」


 ジゼルはううむと唸りながら、素直に書き直した。


 また別の日には、領民への布告の文面を丸ごと書き直させられた。

 ブルーノが甘いと思ったところを、彼は迷わず指摘してきた。

 遠慮はあるが、一切引かない。


 なぜ自分の周りには、こうも一筋縄でいかない人間ばかりが集まるのだろう。

 たじたじになりながら、それでもジゼルは毎回素直に言うことを聞いた。

 悔しいが、毎回正しかった。


 そして彼が来てから半年。

 アステラル辺境領は、目に見えて変わり始めていた。


 どこから手をつければいいかも分からなかった台帳が、今では一目で領地全体の収支が見渡せるように整理されていた。


 税収の滞りがどの村でどれほど出ているか、どこに手を打てば改善できるか、ブルーノは一枚の図にまとめてジゼルに見せた。


「これを見れば分かります」


 そう言われた時、ジゼルは返す言葉がなかった。


 治安も変わった。

 ジゼルが地道に続けてきた残党の掃討が実を結び始め、夜に人が出歩けなかった村で、夕暮れ時に子供の声が聞こえるようになった。


 しかし、住民に怯えられるのは相変わらずだった。 

 掃討に出るたびに、すれ違う住民が目を伏せる。

 子供は親の後ろに隠れる。


 悪意があるわけではないのは分かっている。

 それでも、自分が守ろうとしている人間に怖がられ続けるのは、どうにも居心地が悪かった。

 恩を着せたいわけではないが、もう少し打ち解けたい。


 試しに、兵たちと打ち解ける時に有効だった手を使ってみた。

 豪快に笑い、肩を叩き、酒を酌み交わす。

 兵相手なら大抵それで距離が縮まった。


 しかし翌日、ジゼルが肩を叩いた男が脱臼していたことが判明した。


 原因は、どうやらジゼルの力加減らしかった。  

 男は「気にしないでほしい」と言ってくれた。

 しかしその一件はあっという間に広まり、気づけば力が強くて危ない辺境伯という噂が領内に定着していた。 


 ……出発点より遠ざかった気がした。


 ある夜、ジゼルはブルーノに話した。


「領民に怯えられっぱなしだ。どうすればいい」 

 

 ブルーノはしばらく考えてから答えた。


「ジゼル様の凛々しい顔つきは、素晴らしいと思います。ですが……もう少し柔らかい表情を心がけると、住民の方も近づきやすくなるかもしれません。ジゼル様は、とても優しい方です。きっと皆さん分かってくれます」


 ジゼルは試してみた。


 が、最初はむしろ逆効果だった。

 背が高く、がっしりとした体格で、しかも隻眼だ。

 そこへ血まみれで巡回から戻った状態で笑いかけたところ、子供が火がついたように泣いた。   


 そのことをブルーノに伝えたら、言葉を選ぶようにゆっくりと言った。


「……ええっと敵を一刀両断して血まみれの状態で笑ったら、そうなります」

「そうか」

「タイミングが大事だと思います」 


 以来、ジゼルはタイミングを計るようにした。


 すると、巡回に出るジゼルに、以前は怯えた目を向けていた住民たちが、今では会釈を返すようになったではないか。


 隻眼の死神、という噂はまだ消えていないだろう。

 しかしその死神が自分たちを守っていると、少しずつ分かってもらえたのかもしれなかった。

 何より、住民の顔が変わった。


 占領期の疲弊が染みついた、あの重たい沈黙が薄れている。

 市場に人が戻り、子供が走り回り、老人が井戸端で話をする。

 その顔には一様に笑みが浮かんでいる。


 彼らの笑顔に、ジゼルは、よく笑うようになったブルーノを見た時と同じように穏やかな気持ちで満たされた。


 次に変わったのは、水路だった。

 ブルーノが農地の区画を調べ直し、優先順位をつけて修繕を進めた結果、長年詰まったままだった水路が通り始めた。

 水が流れた翌朝、その水路の脇に住む老農夫が、ジゼルの巡回に頭を下げた。


「おかげさまで、久しぶりに畑に水が届きました」


 皺だらけの顔に、はっきりと安堵の色があった。

 ジゼルは、彼らに正しく伝えた。


 状況を変えたのは、ブルーノだと。


「では、ブルーノ様に感謝の気持ちをお伝えくださいませ」

「承知した」


 彼らの言葉を伝えると、ブルーノは恥ずかしそうに俯いたが、口元が緩んでいるのをジゼルは見逃さなかった。


 近隣貴族との関係も、じわじわと変わっていた。

 ブルーノが丁寧に返書を重ね、角の立たない言葉を選び続けた結果、以前は冷淡だった隣領の当主から、共同での水利整備を打診する書状が届いた。


 ジゼルにはその書状の意味するところが最初よく分からなかったが、ブルーノが「これは脈があります」と静かに目を細めた。


 まだ豊かとは言えない。

 癒えぬ傷も残っている。

 それでも、確かに息をし始めていた。


 巡回から戻ったジゼルが屋敷に入ると、ブルーノが執務室で書類に向かっていた。

 相変わらず細い背中だったが、来た当初の、今にも折れそうなあの頼りなさはもうない。


 ジゼルはしばらく、その後ろ姿を眺めた。

 もうブルーノのことを無能な人間だと思う者は、この領地には一人もいなかった。




◯◯◯◯




 ――ヴェルナン伯爵家は、表向きには盤石な名家だった。


 王都に近い土地を治める中堅貴族であり、長男マックスは有能な跡取りで、次男セオドアはそのマックスを支える有能な補佐。

 兄弟二人で盤石に運営される優良な貴族家、というのが外からの見え方だった。


 しかし実態は、王家に致命的な弱みを握られた家だった。

 隣国との戦争中、現当主の実弟が隣国のスパイに篭絡され、王国軍の補給路に関する機密情報を漏洩させた。

 内偵によって発覚し、当主の弟はすでに人知れず処刑されている。


 王家の意向でこの事実は公表されず、ヴェルナン家自体は連帯責任での処刑を免れた。

 しかし王家はその証拠を今も密かに保持している。


 ヴェルナン家はずっと、その証拠の上で存続してきた。

 故に、アステラル辺境伯と婚姻せよという王命を拒否することはできなかった。


 そして家の内側には、もう一つの実態があった。

 マックスは全くもって有能ではなかった。

 彼の実務を支えていたのは次男のセオドア、というのがヴェルナン家の中では共通認識だった。


 そのセオドアもまた、実務の全てをブルーノに丸投げし、その手柄を自分のものとして家族に伝えていた。

 

 セオドアがブルーノに目をつけたのは、ずいぶん昔のことだ。

 父親が気まぐれに手を付けた使用人の子供だったブルーノは、母親が亡くなった際、正妻の強い反発によって屋敷への立ち入りを拒否された。

 結果、誰も責任を取らないまま、ブルーノは屋敷の外れの粗末な小屋に移された。

 使用人もつけられず、最低限の食事だけが運ばれてくる生活が、それからずっと続いた。

 

 セオドアがその小屋を訪れたのは、最初は純粋な暇つぶしと、兄ばかり優遇されることへの鬱憤晴らしだった。


 ぶってみても何の反応も見せず、面白みのないブルーノだったが、自分よりも哀れな彼を見て少しだけ溜飲が下った。

 

 ある時、試しに家庭教師の課題をやらせたら、全部できていた。

 それだけのことで、セオドアはブルーノを使うことに決めた。

 ブルーノはこなすことで少し良い食事がもらえたから、従い続けた。


 彼を使っていることが露見しないよう、セオドアは手も打った。  

 ブルーノは無能だという噂を自ら流し、近づく者が出ないようにした。  


 また、平民の娘たちと遊ぶ際には自分の名ではなくブルーノの名を使った。  

 おかげでブルーノには、会ったこともない女性たちとの噂が積み重なっていった。


 ――三重の丸投げ構造が、セオドア以外、誰にも気づかれないまま成立していた。


 セオドアはブルーノが有能だと思ったことは一度もない。

 自分がうまく使ってやっているだけだと、ずっと思っていた。

 だからブルーノが辺境に発った時も、さして気に留めなかった。

 あんな役立たずを辺境に押し付けられるなら、むしろ好都合だとさえ思っていた。


 最初は誰も気づかなかった。

 マックスはセオドアがやると思っていた。

 セオドアは、やればできると思っていた。


 ――やってみたら、できなかった。


 数字が合わない。

 優先順位が分からない。

 どの問題がどの問題と繋がっているのかが、まるで見えない。

 セオドアは苛立ちながら何度も書類をめくったが、どこから手をつければいいかすら分からなかった。


 おかしい、と思った。

 自分はずっとこれをやってきたはずだ。


 しかし正確には、やってきたのは自分ではなかった。

 ブルーノがやっていた。

 セオドアはただ、完成したものに目を通してマックスに渡していただけだった。


 それに気づいた時、セオドアは書類を机に叩きつけた。


 それからセオドアは体調が思わしくないと言い張り、仮病で乗り切ろうとした。  

 不治の病は建前のつもりだったが、本当に臥せっているように見えるセオドアに、家族も呆れながらも表向きの言い訳には使えると黙認していた。  

 おかげで書類が滞っていても、しばらくは誤魔化すことができた。  


 しかしそんな状態でも、女遊びはやめられなかった。  

 家族の目を盗んで夜な夜な街に繰り出す日々が続いた。  


 そしてある日、その姿を家の者に見られた。


 数日後、病人のはずが夜の街を歩いていたという話とともに、セオドアは家族の前に呼び出された。


 ここまできたら、言い逃れは不可能だった。

 セオドアは観念して白状した。  

 これまでの功績は、全てブルーノのものだった、と。 


 マックスの顔が、みるみる赤くなり、拳が上がる。 

 その腕を止めたのは、父親のギリスだった。


「待てマックス。顔を叩くのはまずい」 


 穏やかな声で、顔には笑みすら浮かんでいた。


「セオドアにはまだ使い道がある」 


 セオドアはその声を、物心ついた頃からよく知っていた。

 逆らえない声だ、といつも思っていた。


 ギリスはセオドアに向き直り、にこやかに言った。


「辺境に行ってこい、セオドア。ブルーノと立場を取り替えてくるんだ」

「……待ってください、俺は不治の病になっていると発表されてて」

「治ったことにしろ」 


 ギリスは笑顔のまま続けた。


「幸い、あの二人はまだ婚約期間中だ。今ならまだ婚約者の変更が間に合う。お前のその顔を存分に活かして、あの女辺境伯を籠絡してこい。お前なら容易いだろう」


 顔には自信がある。

 デビュタントの場に現れた可憐な少女から、火遊び目的の淑女まで、セオドアが甘い微笑みを浮かべて耳元で囁けば、誰しもがその美貌に酔いしれセオドアの方に体を寄せる。


「何度もお前の尻拭いをしてやったろう。その恩を今返すんだ」

「……」


 ギリスの言葉は事実だった。

 遊びだと伝えていたにもかかわらず、後ろから刺されかけたことが何度あったことか。

 

 だが、冗談じゃない。 

 相手は隻眼の死神と呼ばれ、戦場で敵を屠り続けた女だ。

 社交界にも顔を出さず、笑わず、武骨なだけの辺境伯。


 「……嫌だ」 


 思わず口に出すと、ギリスの笑みが少しだけ変わった。

 笑顔のまま、ただ温度だけが消えた。


「以前もお前はそう言ったな。だが今回は拒否することは認めない。逆らうなら、その自慢の顔がどうなっても知らないぞ」


 静かな声だったが、冗談ではないと分かった。


「……分かりました」 


 しかし腹の中では、苛立ちが渦巻いている。


 こうなったのはブルーノのせいだ、とセオドアは思った。

 あの役立たずが、なぜか急に役立つ場所に行ってしまったせいだ。


 道中、馬車の揺れの中でずっとそのことを考えていた。

 景色が王都から遠ざかるにつれ、気持ちも暗くなっていった。


 アステラル辺境領は、思ったより遠かった。

 辺境の地だ、それも仕方ない。

 王都のように煌びやかな夜会もなければ、飛び交う蝶のように可憐で美しい女性もいない。


 馬車が屋敷の前に止る。

 セオドアは馬車を降り、外套を整えた。


 ……来てしまったものは仕方ない。

 ここで逃げれば、伯爵家は間違いなく取り潰しになる。

 それなら、切り替えるしかない。


 どうせ田舎の武骨な女だ。

 うまく言いくるめて、自分に惚れさせ、言うことを聞かせてしまえばいい。 

 自分の顔と話術があれば、大抵のことは何とかなってきたのだから。




○○○○




 その日、アステラル辺境領に見慣れない馬車が現れた。

 掲げられている紋章は、ヴェルナン家のものだという。


 マニッシュから報告を受けたジゼルは眉をひそめ、執務室を出た。

 何の用だ、と思いながら玄関へ向かう廊下を歩いていると、対応をしていたマリアがやってきた。


「相手はヴェルナン家の次男、セオドア様でございます」

「……あの、不治の病と噂の男か?」

「はい。どうやらご病気が治られたとかで」


 ジゼルは鼻を鳴らした。

 ずいぶんと都合のいい病だ。


「追い払いますか。それとも斬りつけますか」

「その二択はなんだ」


 ジゼルは呆れながら答えた。


「相手をするしかあるまい。どこに通した」

「訪問の意思も告げずに突然いらっしゃいましたので、玄関の外でお待ちいただいております」

「……よし」


 涼しい顔でそう答えたマリアに、ジゼルは頷いた。

 それで十分だ。


「ブルーノは今どこにいる」


 すかさずマニッシュが答えた。


「奥の書庫にこもっております」


 好都合だ、とジゼルは思った。  


 セオドアの顔を見て、ブルーノがどんな顔をするか分からない。  

 あの家でどんな扱いを受けてきたかは、体の傷が物語っていた。

 誰が犯人かははっきりとは分かっていないが、ろくな男でないことは確かだ。


 厄介な話は、ブルーノが出てくる前に自分が片をつける。


「最短で終わらせるぞ」


 ジゼルは急ぎ、玄関へ向かった。


 扉を開けると、そこに立っていたのは確かに噂に違わない美青年だった。

 整った目鼻立ち、柔らかそうな金色の髪、社交界で磨かれた立ち居振る舞い。

 並の女性なら思わず見惚れるかもしれないが、ジゼルにはどうでもいい。


 しかし今その美青年は、外で待たされた怒りで顔を赤くしていた。


「いい加減にしろ、この俺を外で待たせるとはどういうつもりだ! 俺は本来辺境伯の夫になるはずだった男だぞ! さっさと中に案内して……」

「お前がセオドアか」


 わめきたてる男にジゼルがそう言いながら現れると、セオドアは何かを言いかけ、そして固まった。


 初めて戦場に出た新兵が、目の前に敵の大将が現れた時の顔だ、とジゼルは思った。


 それにしても、彼の顔にはブルーノの面影が見て取れる。

 このような男と半分しか血がつながっていないはいえ兄弟とは、ブルーノも不憫なものだとそんな感想を抱く。


 こんなふうに思考が横道に逸れるのは、目の前のセオドアが一向に用件を言わないせいである。  


 ジゼルは元来短気な性格だ。  

 そういえばマリアがもう一つ選択肢を言っていたな、と思い出しながら、無意識に剣の柄へ手が伸びかけた。


 その動きを見て、ようやくセオドアが口を開いた。


「こ、これは、これは。ジゼル・アステラル辺境伯閣下でいらっしゃいますか!? お噂はかねがね。しかしお噂は本当のことを伝えていなかったようだ。……まさかこれほどお美しい方とは」


 は?

 ジゼルは思いっきり顔を歪める。  

 なんだこいつ。


 すると、後ろに控えていたマリアが、小さくため息をついて呟いた。


「……本当に、もったいないことでございます」

「左様で」


 マニッシュが静かに同意して続ける。


「隻眼の辺境伯、戦場上がりの武人で、現在は辺境伯領の統治で忙しく、社交界には出ぬ女傑。噂だけ聞けばそれで全てのように思われますが、実際にお顔を拝見した方は、皆今のセオドア様と同じ顔をなさいます」


 ジゼルは訳が分からず、目を瞬かせることしかできなかった。

 確かに、初対面の人間は大抵こういう反応を見せる。

 だが。


「てっきり私の顔を怖がっているのかと思っていたが」

「否定は致しませんが、それだけではございません」


 マリアの言葉は相変わらず辛辣だった。

 そこは少しくらい否定しろと内心でジゼルは思ったが、続けて語られるマリアの台詞で、それどころではなくなってしまった。


「ジゼル様の黒髪は緩やかに波打ち、まるで濡れた黒絹のように艶めいて、眼帯のない方の深いガーネット色の瞳とひとたび目が合えば、逸らすのは容易ではありません。隻眼であることすら、その美貌を損なうどころか、むしろ際立たせております。武人としての威圧感はございますが、それでも、あるいはそれゆえに、ジゼル・アステラル辺境伯は圧倒的な美しさを誇っているのでございます」


 ……鳥肌が立った。  

 面と向かって延々と己の顔を品評されるというのは、戦場のどんな修羅場よりも居心地が悪かった。  


 まして、相手はあのマリアだ。

 引いた目でマリアを見ていると、ジゼルの戸惑いを読み取ったマニッシュが口を添えた。


「嘘は申しておりません。その証拠が、先ほどから一言も喋れなくなっておられるセオドア様でございます」

「うるさい」


 これ以上考えるのが面倒になり、ジゼルは二人を一言で黙らせ、セオドアに向き直った。


「さっさと用件を言え」


 ジゼルの一睨みにも動じず、よく練られた笑顔でセオドアは言った。


「ご挨拶が遅れました。私、ヴェルナン伯爵家次男のセオドアと申します。此度は弟が大変なご迷惑を……いや、それより」


 セオドアは一歩前に出た。

 声の調子が変わる。


「閣下、僭越ながら申し上げます。私の病は、ありがたいことに癒えました。つきましては、改めて閣下のお傍に上がりたいと思っております。弟の代わりと言っては何ですが、いや、弟などではなく私自身として。閣下のような方の伴侶には、私の方がふさわしいかと」


 玄関に沈黙が落ちる。

 ジゼルは、セオドアを見ると、分かりやすく眉寄せ、短く答えた。


「帰れ」

「え」

「お前に用はない。帰れ」


 セオドアの笑顔が揺れた。


「あの、か、閣下、私はヴェルナン家の次男で、先ほど申し上げた通り病も癒えており、改めてご縁をいただきたいと」

「聞こえなかったか」


 ジゼルの声が、一段低くなる。

 戦場で弱き者に手を出した敵兵を叱責する時と同じ声だ。


「用はないと言った。私にはすでにブルーノがいる。お前に来てもらう理由がない。さっさと門を出ろ」

「し、しかし帰るわけにはいかないのです! アレを返していただかないと、我が家は――」

「アレ?」


 ジゼルの眉が、ぴくりと動く。


「今、アレと言ったか」


 セオドアがジゼルの冷気をまとう怒りに気づいたのか、口をつぐんだ。  


 そう、ジゼルは猛烈に怒っていた。

 ブルーノは物ではない。

 決してアレ呼ばわりされる人間ではないのだ。


 だが、正式な誓約書がない以上、ヴェルナン家がブルーノの代わりにセオドアを寄越したところで、法的には拒める立場にない。

 

 即座に籍を入れなかったのは、ブルーノが遠慮し続けていたからだ。

 自分などがと、いつもそう言って首を横に振った。

 ジゼルはその度に焦れながらも、急かすことができずにいた。


 どうすべきかと考えていると、そこへ、廊下の奥から足音がした。


「ジゼル様、それに……セオドア、様」


 書庫にいたはずのブルーノだった。  

 騒ぎを聞きつけたのか、それとも偶然か。  


 玄関に出てきた彼は、セオドアの顔を見た瞬間、わずかに体を強張らせる。

 同時にセオドアの顔に、にたりとした嫌な笑みが張り付く。

 長年染みついた反応だ、とジゼルは思った。

 搾取する者とされる者の構図が、そこにはあった。


 そしてセオドアはその隙を見逃さなかった。


「おい、ブルーノ、戻って来い! 今まさにヴェルナン家がお前を必要としている。家族としてお前が求められているんだ、光栄なことだろう!?」


 ブルーノの瞳が揺れる。  

 戻るべきか、という迷いが、その目にはっきりと浮かんでいた。


 ジゼルはそれを見た瞬間、もう十分だと思った。  

 そして剣の柄に手をかける。  

 死体の処理は後で考えればいい。


 しかしその前に、やはり意思を確認しておきたいとジゼルはブルーノの方を向いた。


「ブルーノ。お前はどうしたい」


 帰したくない気持ちは当然ある。

 戻りたい、と言われてしまえばそれまでだ。

 今のジゼルには止めることができない。

 

 おそらく帰りたくないと思っている、とジゼルは考えている。

 だが、直接的な言葉を、まだ一度もブルーノからは聞いたことがなかった。


 だからこそ、今、聞いておきたい。


 ブルーノは俯いた。  

 細い肩が、かすかに震えていた。


 しばらく間があった後、ブルーノはゆっくりと顔を上げた。

 そして、か細いながらも、迷いない声で告げた。


「……許されるなら、僕は……ここに、いたいです。この領地に、お屋敷に、ジゼル様の、おそばに」


 ジゼルは満面の笑みで頷いた。


「よし,分かった!」


 その願いを叶えよう。

 ジゼルは、振り向きもせずにマニッシュに言った。


「婚姻誓約書を持ってこい」

「はい、こちらに」


 マニッシュはどこからともなく、すでに書類を取り出していた。  

 いつでも出せるように持ち歩いていたらしい。

 何とも有能な男だ、とジゼルは思った。


 書類を受け取り、その場で自分の名を署名した。  

 次にブルーノに差し出す。


「サインしろ」


 まずいと気づいたらしいセオドアが一歩踏み出す。


 しかし、ジゼルの目にはまるでのんびり歩く牛のような速度に見えた。

 ジゼルは即座に間合いを詰め、セオドアを床に組み伏せ、その上に腰を下ろす。  

 ぎゃがぁぁ!? と謎の悲鳴を上げつつ身動きが取れないのを確かめてから、ブルーノの方を見た。


 ブルーノはわずかに躊躇いを見せたものの、覚悟を決めた顔で署名した。

 それをマリアがすかさず書類を受け取り、外套を羽織る。


「教会へ参ります。最短で十分もあれば認められるはずです」

「この時間だと、まだあのものぐさ神父は寝てるんじゃないか?」

「ジゼル様が剣を片手に乗り込みます前に叩き起こすのも、また慈悲かと」


 マリアは淡々と答えて、即座に屋敷から出て行った。

 扉が閉まると同時に、床のセオドアが絶望の声で呻いた。


「これでお前の出る幕はなくなった。終わりだな」


 ジゼルは立ち上がり、セオドアを見下ろした。


 セオドアはしばらく床に転がったまま動かなかったが、どうすることもできないと悟ると、ゆっくりと立ち上がり、肩を落として出て行った。




○○○○




 セオドアが去った後、玄関に静寂が戻った。


 ブルーノはしばらくその場に立ったまま、何かを整理するように俯いていた。  

 それからゆっくりと口を開いた。


「……話しても、いいですか」


 場所を移動すべきかと思ったが、空気を呼んだのかいつの間にかマニッシュの姿が消えていた。

 だからジゼルは短く答えた。


「ああ、聞こう」


 ブルーノは、ぽつりぽつりと語り始めた。


 母が亡くなった後、屋敷の外れの小屋でこれまでずっと一人で生活していたこと。


 使用人も、まともな食事もなかったこと。


 セオドアがやってきて、服で見ないところを殴ったり蹴ったりするようになったこと。


 ただ一人、不憫に思ってくれた使用人の一人が、こっそり食べ物や書物を与えてくれたこと。


 セオドアがある日を境に、仕事を押し付けるようになったこと。


 こなせばマシな食事がもらえたから、従い続けたこと。


「その頃には助けてくれた使用人も退職してしまって。だけどもらった書物があったから勉強ができたし、ある意味セオドア様のおかげで、僕は食事を取り、生き延びられました」


 逃げることも、考えることも、いつの間にかできなくなっていた。

 

 思考が鈍って、生きているのか死んでいるのか分からないような日々だったと、ブルーノは温度のない声で言った。


「ここに来ることになった時も、正直何も感じませんでした。どこに行っても同じだと思っていたので。でも、違いました」


 ブルーノはジゼルを見た。

 その瞳には、確かな熱がこもっている。


「ジゼル様も、マリアさんも、マニッシュさんも、みんなが優しくしてくれた。だから、ここにいたいと思いました。 自分の能力が役に立てるなら、役に立ちたいと思いました」

「そうか」

「……っ、僕は、本当に、ここにてもいいんですか?」


 これまでずっと搾取されてばかりの人生を歩んでいたブルーノが、おそらく初めて自分の意志で望んだのだろう。

 ここにいることを。


 しかしおかしなことを聞くものだ。

 先ほど署名までしたのだ。

 既にブルーノは、いや、あんな紙切れなどなくたって、とっくの前からブルーノはこの屋敷の一員だ。


 ジゼルの中では、少なくとも、そうだった。


「お前はこれで名実ともに私の婿だろうが。お前の居場所は、ここだ」


 そう言えば、ブルーノがわずかに潤んだ瞳でジゼルを見上げる。


 ……やはり他人のこういう顔は苦手だ。

 しかし、これ以上ブルーノになんと声をかけてやったらいいか、ジゼルには見当がつかなかった。


 だから言葉にする代わりに、ジゼルはブルーノの肩をばんと叩く。


「安心しろ、お前は誰にも渡さん」


 と、ブルーノがうっと呻いた。


「す、すみません、少し、肩が」

「あ、すまん」


 ジゼルは慌てた。

 力加減というものは、相変わらず苦手だ。

 これではブルーノが、肩を脱臼した領民の二の舞になってしまう。


 しかしブルーノは肩を押さえながらも、それでも小さく笑った。


「では僕は、まずジゼル様に負けないよう体を鍛えるところから始めますね。例えばジゼル様が倒れても簡単に支えられるほどには」

「目標が高すぎるぞ」


 なにぜジゼルはブルーノの十センチ以上は身長が高く、おまけに見えないところもしっかりと筋肉がついているため、見た目以上に重い。

 けれどブルーノは、腕をまくると細腕をぐっと曲げる。

 力コブの一つも出ていなかったが、彼は気にせず言った。


「目標は高く設定しないと」

「ならば期待しておこう」


 そう答えたら、ブルーノは嬉しそうに返事を返した。




○○○○




 ジゼルはブルーノを正式な伴侶として迎えたことを王家へ報告した。

 近隣貴族への挨拶状も、ブルーノが整えた文面で滞りなく済んだ。


 王家からの正式な書面とは別に、フレッドからも手紙が届いた。


『予想通りブルーノが来たようで、そして君も彼を気に入ったようで何よりだ。改めて礼を言う』


 簡単に略すと、このような内容だった。

 読みながら、ジゼルは眉をひそめる。  

 予想通り、という言葉が引っかかった。

 あと、あの男に礼を言われる筋合いはない。


 ブルーノには見せず、こっそりマニッシュに手紙を渡した。

 マニッシュはしばらく黙って読み、それからゆっくりと口を開いた。


「王家はおそらく、最初からこうなると踏んでいたのかと存じます。セオドア様が断ると見越した上で、あえてああいう形を取った。ヴェルナン家の内情まで完全には把握していなかったとしても、流れは読んでいたのでしょう」


 ヴェルナン家が王家に弱みを握られていることは、ブルーノからすでに聞いていた。  

 一族郎党を処刑すればブルーノも巻き添えになる。  

 かといって放置すれば領地が傾く。  

 ブルーノを助け出そうにも、さすがに王家も介入しがたい案件だ。


 だからこういう形を選んだのか、とジゼルはようやく腑に落ちた。


 もっとも、手紙にそこまで直接書いてあったわけではない。  

 しかしフレッドの性格は、戦場で嫌というほど目にしてきた。  

 あいつは昔から、食えない男だった。


 それはそれとして、フレッドにはやはり一発入れておかねばならない。

 近々王都で社交界があり、次はちゃんと顔を出せと言われている。

 その時でいいか。


 とはいえ、社交界は気が重い。

 面倒だし、できれば行きたくない。


 しかしブルーノからは、


「礼儀作法には自信がありませんが、頑張ってジゼル様をエスコートします!」


 と、緊張を滲ませながらも決意に満ちた顔で言われてしまい、行きたくないと駄々をこねにくかった。


「……ああ、頑張ろう」


 結局そう答えるしかなかった。

 マリアの方をちらりと見ると、ドレスの選び買いがあるという顔をしていた。  

 ……やはり面倒だ、と思った。


 その後、アステラル辺境領の人々は、半年前から領地を立て直してくれた青年が正式に辺境伯の伴侶になることを、ごく自然に受け入れた。


 結婚したといっても、特に何かが変わったわけではない。  

 

 新婚の夫婦がするようなことは、まだ先の話だ。

 それよりも領地の完全な安定が先だとジゼルは思っていたし、何よりブルーノにはまだ肉をひたすら食わせて健康にさせることが先決だった。

 

 いずれそういう時が来るだろうが、今はまだ早い。

 まず健康な体作りだ。


 ヴェルナン伯爵家については、その後しばらくして、内政が立ち行かなくなったという話が王都から流れてきた。  

 政務が滞り、あちこちで歪みが出始めているという。  

 おそらく王家はこれを機に伯爵家を潰すつもりだろう。


 ブルーノへの仕打ちを考えれば、生温い決着になりそうなことに腹立たしく思う。

 が、よくよく考えれば王家にはフレッドがいる。

 それならそう簡単に事を済まさないだろうと推測できた。


 あの男は、敵を斬るより先に逃げ道を塞ぐことを好んだ。

 追い詰めて、じわじわと干上がらせる。

 戦場でそれを何度も目にしてきたジゼルには、想像がついた。

 そう簡単に逃がしはしないだろう。 

 すでに自滅していく者に、わざわざ剣を抜く理由はなかった。


 ジゼルはふんと鼻を鳴らして次の書類に目を移し、ふと窓の外を見つめる。


 窓の外では、アステラルの春が続いていた。

 荒れていた農地に、少しずつ緑が戻り始めている。

 去年まではあれほど殺伐としていた景色が、今はどこか柔らかく見えた。


 と、隣の机で書類に目を通していたブルーノが、ふと顔を上げた。


「ジゼル様」

「なんだ」

「今夜も昨日の続きを聞かせてもらえますか」


 ジゼルは書類から目を上げ、少しの間ブルーノを見た。

 それから、口の端を上げた。


「ああ、聞かせてやる。今夜こそ最後まで起きていられるか」

「……努力します」


 どうせ途中で眠るだろう、とジゼルは思った。

 それでも構わない。


 これから二人で過ごす時間は、まだまだたくさんあるのだから。



お読みいただきありがとうございます、

6月くらいに中編で、完結させてどばっと続きあげる予定です。

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― 新着の感想 ―
辺境伯家の面々のやり取り(ブルーノを含めた4人)がとても良かったです。 特にマニッシュとマリアに負けるジゼルの関係性が、辺境伯になってからのものとは思えない程のアットホーム感が面白かったです。 ジゼ…
ちょいちょい面白くて‥‥ とても面白くて良きお話でした ブルーノ君が救われて本当に良かった! マリアの 「追い払いますか、それとも斬りつけますか」 の、2択がとてもツボり笑ってしまった (≧∇≦)ブヒ…
ハッピーエンド良い話でした。 連載とか続編で読みたいです。
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