蝉の運命 10
― 音のない世界だった
僕は彼女と手を繋いでいた。
でも、彼女はさっきまで一緒だった彼女じゃなく、4年前の彼女だ。
髪が肩までで切りそろえられ、ふっくらとした頬が印象的だった。
僕はドキドキした。
初めて女の子を触りたいと思っていた。
そのくせ触れている指先がこそばくて、どうしていいかわからない。
何かを話していた。
彼女は楽しそうだ。
足元に水の流れを感じた。
そこでようやく、僕らは川に足だけを曝し座っている事を知った。
僕は焦っていた。
何かを怖がっていた。
テレビの音のボリュームを上げたように、不意に声が僕の耳に飛び込んできた。
「私が空蝉だったから」
彼女はそう言うと、僕のもう一方の手をとって蝉の抜け殻を載せた。
ウツセミ……空蝉。
そうだ、空蝉って蝉の抜け殻の事だったんだ!
僕はその抜け殻を見て、泣いていた。
「どうして、アヤメなの?」
僕の意識のない所で僕の唇が動く。
彼女は困ったような顔をして、その抜け殻を見つめていた。
「逃げようよ! 僕は嫌だ!」
彼女は首を横に振った。
その手には、無数の痣が見えた。
「いいの。これでパパは喜んでくれてるから」
「あんな奴、パパでもなんでもない!」
「いいの!」
彼女は声を荒げると目を伏せた。
「……どうせ、何があっても私は忘れちゃうから」
彼女は独り言のようにそう零すと、顔をあげた。
今の僕にはその意味がまだわからない。でも、この声を聞いている僕にはわかっていたようで、何にも言えなかった。
アヤメはそんな僕を助けを求めるような眼で見つめていた。でも、僕が慰めの言葉すら探せないでいるのを察すると、小さく息をつき、こう言った。
「でも、翼君を忘れちゃうのは、嫌だなぁ」
彼女は泣きながら笑っていた。
笑って、唇を噛むと握っていた僕の手を爪が食い込むほどに握りしめた。
正面から彼女は僕を見据える。
僕は息苦しいほど哀しくて、寂しくて、でもどうしようもできなくて……。
「ね、翼君の記憶の中には、私はいる?」
「いるよ! いっぱいいるよ!」
そうだ、僕の中には、この時、病気の父さんの事や光達のことなんか微塵もなかった。あったのは、彼女と過ごした時間と、この名前のわからない感情だけだ。
アヤメは目を細めると手を放し、両手で僕の頬を包んだ。
そして、じっと僕の瞳の奥を覗く。
「初めての空蝉としての力で、翼君の記憶を貰ってもいいかな?そしたら、もしかしたら私、皆の事、私の事、翼君の事も覚えてられるかもしれない」
僕は一瞬たじろいだ。それは彼女が怖かったというより、未知の体験への戸惑いだ。でも、でも、それと同じ、いや、それ以上に僕は彼女を失いたくなくて……。
「でも、そしたら僕は君の事忘れちゃうの? 嫌だよ」
アヤメの瞳が一瞬潤んだ。
長い睫毛が動揺に揺れている。
「私も始めてだからわかんない。でも、でもね……」
アヤメは顔をあげた。その頬が見てわかるほどに紅潮している。
「初めてのキスは、好きな子としたい」
今度は僕が視線を反らす番だった。
でも、その気持ちは僕も同じで……。
僕は手の中の蝉の抜け殻を見つめた。
空っぽの中身は空に飛び立ってしまう。彼女の役目は、蝉の抜け殻……空蝉なんだ。じゃ、彼女の記憶はどこに行っちゃうんだ?
僕はそんな事を考えていたようだ。
顔を上げると、こうささやいた。
「じゃ、その代わり、君の記憶を僕にちょうだい。そしたら、君の思い出を、僕が守っていける。もしかしたら、僕は君を覚えていられるかもしれない」
「翼君……」
アヤメの頬に一筋の雫が零れ落ちた。
僕は蝉の抜け殻を手放すと、彼女がそうしている様に彼女の頬を僕の両手で包み込んだ。
「私が翼君で、翼君が私」
僕は頷く。
「僕がアヤメで、アヤメが僕。だから……ずっと忘れない」
アヤメが頷いた。
そして、僕たちは引きあいながら、そっと初めてのキスをした。
蝉の短い命を燃やすような『泣き』声が、世界を包み込んでいった。




