穏やかな空気
放課後のざわめきのなか、悠は教室で静かに荷物をまとめていた。
ふと顔を上げると、少し離れた席で夏海が同じように帰り支度をしていた。
悠は小さく深呼吸してから夏海に声をかけた。
「あのさ、夏海さん……今日も図書室、行くよね?」
悠の問いに夏海はぱっと顔を上げると、一瞬驚いた表情を見せた後、すぐに弾むような笑顔で答えた。
「うん、もちろん! 行く行く。……ていうか悠くん、ちゃんと誘ってくれるんだね」
夏海は少しからかうように笑う。
悠は一瞬だけ視線を泳がせたが、すぐに照れを隠すように答えた。
「いや、誘うっていうか……昨日、そういう話になったから」
夏海は小さく笑いながら荷物を持って立ち上がると、軽く悠の背中を叩いた。
「あはは、ありがと!じゃあ一緒に行こ」
悠は夏海の屈託ない明るさに、どこかくすぐったいような気持ちになった。
一緒に教室を出て、小走りになる夏海の後を追って、図書室へ向かった。
図書室の扉を開くと、まだ咲の姿はなかった。
室内はしんと静まり返っていて、開け放たれた窓から微かな風が入り込んでいる。
悠は昨日と同じ窓際の席へと足を進め、静かに腰を下ろした。
すると夏海は、ごく当たり前のように、悠の隣に腰掛ける。
昨日も同じように隣に座ったのに、女子がすぐ横にいるというだけで、妙に落ち着かなかった。
ちらりと視界に入る制服のスカートの裾や、ページをめくる夏海の指先が気になってしまう。
(俺だけかな、こんなこと考えてるの……)
妙にそわそわする自分の感情に、悠はふっと息を吐いた。
ふたりが席についてから、数分もしないうちのことだった。
静かな図書室の扉がそっと開く音がして、咲がゆっくりと入ってきた。
咲はすぐにふたりを見つけ、柔らかい笑みを浮かべた。
「ごめん、ちょっと遅くなっちゃった」
そう小声で言いながら、咲は悠の正面にいつものように静かに腰を下ろした。
向かい側で悠と夏海が並んで座っているのを目にして、咲は心が小さくざわつくのを感じた。
(……まあ、昨日と同じ場所に座るよね)
咲は心の中で小さく呟き、胸の奥に生まれかけたその小さな感情をまた静かに押し込めた。
「咲ちゃん、来てくれてよかったー!来なかったらどうしようかと思った」
夏海がいたずらっぽく笑って小さく話しかける。咲はそれに軽く微笑み返した。
「そんなことないよ。昨日、ちゃんと約束したもん」
夏海はその言葉に満足そうにうなずいて、それから目の前のノートに視線を落とした。
三人はしばらく、それぞれに静かに勉強を始めた。
時折聞こえるノートをめくる音、ペン先が紙を走る音だけが、小さく響いている。
その静かな時間のなかで、ふと咲が顔を上げて悠に小さく問いかけた。
「あの……日向くん、数学で、よくわからないところがあったんだけど」
悠は咲のノートを覗き込みながら答える。
「ああ、そこね。公式を当てはめるの、苦労するよね」
悠は手に持ったペンの尻で、咲のノートを指し示して解説した。
咲は「あっ、そっか。ありがとう」と小さく声をあげ、小さな笑みを浮かべてノートに書き込んだ。
それからまた静かに自分の作業に戻る。
そしてまた、不意に悠が咲に話しかける。
「そういや前、藤音さんがスマホの充電が失敗したって言ってたじゃん」
「うん。朝起きたらスマホの電源切れちゃってて、アラーム鳴らなくて……」
「それ、俺も今日やっちゃった。アラームは鳴ってくれたけど、朝の時点で残り10%」
「え……電池、持ったの?」
「うん、モバイルバッテリーあるし、少し充電できたからなんとか。見て。」
そう言って、悠はスマホの画面を咲に向けた。ロック画面には、どこかの夕暮れの景色が映っている。
「残り1%。でも昼からずっと1%なんだよね」
「……日向くんのスマホって、ずいぶん頑張るんだね」
「どうなんだろう……本当はもっと行けるのに『もう駄目です、1%です』って弱音吐いてるだけな気もして……」
ふたりのささやくような話し声。口元をそっと抑え、小さく笑う咲。その仕草も、図書室の静けさにやわらかく溶けていった。
「……」
気がつくと、夏海はペンを止めて、ふたりのやりとりをじっと見つめていた。
いつもの自分の世界は、もっと賑やかで、笑い声や話し声が絶えない。
でも、窓辺の淡い光のなかで、静かに言葉を交わすふたりの時間には、
言葉にならないほどの穏やかさが満ちていた。
ただその光景を眺めているだけで、胸の奥が少し温かくなるのを感じた。
悠がふと夏海の様子に気づいて顔を向けた。
「あ、夏海さん、ごめん。うるさかったよね」
悠の穏やかな問いかけに、咲も少し申し訳なさそうに目を向けた。
「あ……ううん、大丈夫。なんか見ちゃっててごめん」
夏海は慌てて手をひらひらさせた。
その様子に、悠と咲は顔を見合わせてから、柔らかく笑った。
つられるように、夏海も笑みがこぼれた。




