ある日の午後の授業
教室の窓の外を、体育の掛け声が風に流されていく。
午後の陽が、教室の隅をゆっくりと照らしながら移動していく。
食後の眠気を、国語教師・秋の声が、静かに増幅させていた。
黒板の前に立つ秋は、今日も特別なことはしない。
いつも通りの語り口。けれど、その中に、耳に残る言葉をそっと混ぜてくる。
「“言葉にならないもの”を、書くにはどうすればいいでしょうか?」
静かな教室に、秋の声だけがすっと響いていた。
「悲しい、嬉しい、楽しい──
そういう名前がついている感情は、比較的書きやすいかもしれません。
でも、名前のない気持ちは、少しだけ書きにくい。
それでも、そういう気持ちこそ、私たちは残しておきたくなることがあります」
秋は教卓に置かれた薄い詩集を手に取って、少しだけ笑った。
「たとえば、うちの妻が気に入っているこちらの詩集もそうです。
“何か”が伝わってくるけど、うまく説明できない言葉たち。
それでも、読んだ人の中にはその”何か”が残るようにできているんです」
「図書室に置いてありますので、よかったら手に取ってみてください」
教室の前列、咲はノートを取っていた。
彼女のペンの動きは静かで、でも確かだった。
「言葉にならないものは、描写で残す。
光、風の音、手のひらの感触──
それだけで"何か"が伝わることもあります」
教室の窓際の中ほど、悠は、睡魔が近づいてきているのを感じながら、窓の外を見ていた。
でも耳はちゃんと秋の声を拾っていた。
「……そういうの、あるのかもな」と、心の中でぽつりと思っただけだった。
「“うまく書こう”としなくていいんです。
“残しておきたい”と思ったその感覚が、もう書く理由になるから」
教室の空気が、少しだけ深くなる。
誰も声は出さないけれど、秋の言葉が、静かに午後の教室にしみ込んでいった。
悠も咲も、まだお互いの存在は意識していない。
けれどその日、ふたりは同じ言葉を、同じ時間に聞いていた。