八月の灯りの中で
夜の空気に、焼けた醤油の匂いが漂っていた。
遠くからは太鼓の音が響いてくる。
神社の道には風に揺れる紙の提灯が列になって吊るされていた。
ずらりと並んだ屋台の前をたくさんの人が歩いていた。
あちこちから笑い声やはしゃぎ声が重なり合い、それが途切れることなく、茜色の空が夜にうつろいゆく下で、夏の賑わいが広がっていく。
悠は、Tシャツに黒いエプロン、綿パン姿で屋台に立っていた。
売っているのは焼き鳥とたこ焼き。
調理は奥のコンロ前で大人が担当し、悠はもっぱら受け渡しと会計の担当だった。
「はい、焼き鳥三本ですね、ありがとうございます」
「たこ焼きはもう少しかかります、すみません」
次々に流れる客と商品のやりとり。
忙しいけれど、考える余地がなくて、それがむしろ心地よかった。
額ににじんだ汗を拭っていると、横からやわらかい声が聞こえた。
「日向くん、手際いいから助かるよ」
店主がたこ焼きを焼きながら笑顔で言った。
悠は「いえ、まだまだです」とだけ返して、客のほうへと向き直った。
ふと、人ごみの向こうに見知った姿が見えた。
髪をまとめて淡い色の浴衣を着た少女を、夜の明かりがほのかに照らしていた。
一瞬でわかった。
咲だった。
その横には彼女の友達らしき子が一緒にいて、楽しげに笑っていた。
こちらには気づいていないと思ったが、咲の視線がわずかに悠に向けられたような気がした。
だけどすぐに友達のほうに向きなおり、そのまま通り過ぎていった。
やっぱり、気のせいだったのかもしれない。
でも、少しだけ、期待してしまっていた。
悠は目の前の客の会計をこなしつつも、浴衣姿の咲が頭の中からなかなか消えなかった。
しばらくすると、別の見覚えのある人影が悠の屋台に近づいてきた。
「あ、先生。いらっしゃい、です」
秋が立っていた。
となりには、同じくらいの年齢の女性がいた。
初めて見たけど、多分、奥さんなのだろう。
私服姿の秋は、いつもの授業のときよりもどこかやわらかく見えた。
秋がゆっくりと微笑む。
「こんばんは、日向さん。大変そうですね……」
「いえ。これはこれで満喫してます。何か頼みますか?たこ焼きと焼き鳥とありますよ」
秋は隣の女性と言葉を交わし、焼き鳥を二本頼んだ。
悠が焼き鳥を包んでいると、連れの女性に「彼、私の学校の生徒で図書室によく来てて」と
教えているようだった。
秋は、焼き鳥の包みを受け取って、「ありがとうございます。では、頑張ってくださいね」とだけ言い残し、静かに去っていった。
いつもと変わらない秋の様子に、悠はなんだか落ち着いた。
屋台に並ぶ客足がひと段落したころ、悠はたこ焼きを舟皿に詰めていた。
その時、
「すみません、たこ焼き、ひとつください」
聞き覚えのある声に、悠は顔を上げた。
そこには、さっき通り過ぎていった浴衣姿があった。
「あ、藤音さん」
つい、笑みがこぼれた。
「やっぱり、日向くんだったんだ。さっき気づいたんだけど、忙しそうだったから」
咲は、手に小さな巾着袋を持っていた。浴衣と合うような、素朴だけど、統一感のあるデザインだった。
さっきの友達らしき子はいなかった。咲ひとりで買いに来たのだろう。
「今は落ち着いたから大丈夫。たこ焼きだね」
「うん。もうちょっと回るから簡単につまみたいなって」
「じゃあ、熱いやつ入れとくね」
舟皿を手にとって、たこ焼きの中から出来立てで形のいいものを選んだ。
ついでにおまけを一つ。
手際よくたこ焼きを袋詰めする悠を見ながら、咲はぽつりとつぶやいた。
「……浴衣、変じゃない?」
「いや、似合ってるよ」
悠は余計な間を置かずにそう言ってしまい、「しまった」と思った。
背中に感じた汗は、夏の熱気のせいだけじゃないと分かった。
それでも、咲は「ありがとう」とだけ返して、小さく笑った。
「……はい、どうぞ」
悠は照れくささを必死に隠しながら、たこ焼きを入れた袋を咲に渡した。
「ありがとう。……暑いけど、がんばってね」
咲は、たこ焼きを受け取ると手を振って、人ごみの中へと戻っていった。
悠は、咲の後ろ姿の揺れる帯に、やけに目を奪われていた。
そのとき、夜空に花火が咲いて、思わず見上げた。
色とりどりの花火が、次々に打ち上げられていく。
花火に向けていた視線を、咲の後ろ姿があったところに戻したが、すでに姿はなかった。
道行く人々は、足を止めて空を見上げていた。
肩車されている小さな子供も花火を見て手足をパタパタと動かしてはしゃいでいた。
上がり続ける花火の淡い光は、人々の顔や浴衣を照らし、祭りの夜を幻想的な色に染め上げていた。
悠の前には、もう次の客が並んでいた。
手際よく客をさばきながらも、頭の中には、浴衣姿の咲がずっと残っていた。




