灯のかけら
高校2年になって、まだ日が浅い春の午後。夕方の図書室。
斜めに差し込む陽射しが、棚や机に淡く色をつけていた。
日向 悠は借りた本を返却しに来ていた。
図書室の静けさには、ただ静かなだけじゃない「余白」のようなものがある気がした。
そのなかに身を置いていると、少しだけ呼吸が深くなるようだった。
返却棚には、前に来た誰かが無造作に置いていった本がいくつも重なっていた。
ページの角がわずかに折れたもの、背表紙が片方だけ斜めに浮いているもの。
悠はそれらをそっと整えてから、自分の本を一番上に置いた。
その時、棚の縁から本が一冊、滑り落ちた。
「あっ……」
悠はそのまましゃがみ込み、本を拾い上げた。
ページの角が少し折れていた。
綺麗だった表紙には、うっすら白いほこりがついてしまった。
指先で、そっとそれを払う。
心の中で「汚しちゃってごめん」と本に謝った。
ふと顔を上げると、
窓際の席に座っている女子生徒がいた。
同じクラスの藤音 咲。でもほとんど話したことはない。
咲とほんの一瞬だけ目が合った気がしたが、
すぐに彼女は手元へ視線を戻していた。
悠はその場を離れ、棚に並ぶ本の背表紙をなんとなく追った。
特別に読みたい本があったわけではないけれど、
心が引っかかるタイトルがないか確かめていた。
そのとき、悠の視線は再び、窓際の咲の席へと向いた。
咲は、開いた文庫本をゆっくりとめくっていた。
その途中、ページの端に、細く裂けた箇所があるのを見つけたようだった。
小さな破れ。
誰かの指が引っかかったのか、それとも時間のせいか──
そのままでも読める。気づかず通り過ぎる人も多いだろう。
けれど咲は、迷いなく自分のカバンからテープを取り出した。
破れた部分を、指先でそっとなでるように押さえながら、
透けるフィルムをまっすぐにあてていく。
動作は静かで、丁寧だった。
でも、そこには「気づいたから触れた」ような優しさがあった。
悠は、声もなくその柔らかな手つきに目を奪われた。
誰にも頼まれていない。けれど、そうせずにはいられない手つき。
本が“もの”ではなく、誰かの時間のように扱われている気がした。
咲は修復を終えると、テープの端を軽く押さえたまま、ほんの一瞬だけ目を細めた。
まるで、何かに「もう大丈夫」と言うような──
そんな、静かな間。
悠はそれ以上何をすることもなく、静かに図書室をあとにした。
でも、その優しい手つきだけが、帰り際まで胸に残っていた。