それでも、前へ③
今日もお母さんの声で目が覚めた。
昨日より少し早い時間に声をかけてくれて、ご飯を食べる余裕があった。
「疲れたら塾は休んでも良いからね」
お母さんは心配してくれているのだろう。
「大丈夫だよ、大げさだなあ」
私は笑いながら答えた。嬉しかったけれど、甘えるわけにはいかなかった。
自分のためにも頑張りたかった。
その日の学校の授業中、私は抗えない眠気に飲み込まれていた。
眠らないように何とか先生の話を聞こうと前を向くが、努力もむなしく、意識は振り子の玉のように行ったり来たりを繰り返していた。
その振り子は、急に「藤音さん」と呼ばれて、現実側に大きく振れたところで止まった。
「この問題の答えは?」
いつの間にか先生に指名されていた。
眠気は一瞬で吹き飛んだが、頭は完全に空白になり、時間が止まったようだった。
周囲の目がこちらを向いていた。首筋から背中まで、全身から汗が噴き出すような感覚に襲われる。
問題ってどれのことだろう、と思ったら、隣の子が目配せして「黒板」と小さくつぶやいてくれた。
黒板に問題が書いてあった。文章に下線が引いてあり、AからCまでの選択肢が用意されている。
しかし、突然のことで頭が真っ白な私は答えられず「……わかりません」と言うしかなかった。
先生はすぐに他の人を指名した。
そのタイミングで頭が回りだし、すぐに答えがAだとわかった。何も難しくない、基本的な問題だった。
指名された生徒は「Aです」と事も無げに答えた。
「正解」先生は淡々と解説を始める。
そして、「これが解けないと、他の問題も解けないからな」と続けた。
教室全体に言っているはずなのに、まるで私一人に向けての言葉のように聞こえた。
膝の上の手に力が入り、手のひらに爪が食いこむ。痛みは気にならなかった。
話を聞いていなかった私がダメなのはわかっている。だけど、悔しかった。
休み時間になったとき、隣の子がそっと私のほうを見て、小声で言った。
「さっきはごめん、答えを教えられたらよかったね」
私は首を横に振って、かすかに笑った。
「ううん、ありがとう。助かったよ」
悔しさで固まった気持ちが、少しだけほぐれた気がした。
放課後に塾で受けたテストの結果は、思ったよりも伸びていなかった。
解ける箇所は増えてきたのに、模試と同じ密度のテストでは、今度は時間が足りなかった。
帰り道、ずっと頭の中はぐるぐると渦巻いていた。
こんなペースで本当に受かるのだろうか。
努力しても結果が出ないなら、続ける意味があるのだろうか。
私には、桜ヶ丘大学は手が届かない場所なのかもしれない。
弱った心に、現実は容赦なく、諦めることを提案してくる。
もう、諦めて楽になりたい。
そう考えてしまう瞬間があり、心も体も疲れているのが自分でもよく分かった。
帰り道の途中、公園のベンチに腰を下ろした。
カバンを置いて、重さから少しの間でも離れたかった。
街灯はあるものの、夜の公園は暗く、ベンチはひんやりとしている。
秋も深い夜の冷たい風が通り抜けていき、頭をすーっと冷やしていく。
ふと、ベンチの横の空席を見つめた。
日向くんとオープンキャンパスへ行ったあの日、一緒に座ったベンチを思い出す。
あの日は暑い夏の午後だった。
風で揺れる水面のそば、木漏れ日の差すあたたかいベンチ。
私の隣には、日向くんが座っていた。
『一緒に来よう』
そのときの声が、今も胸の奥に残っている。
きっと日向くんは受かるだろう。そして、私も一緒に受かることを望んでくれている。
小さくなっていた心の灯が、再び灯ったような気がした。
諦めるのはいつだってできる。
だから、今はもう少しだけ、諦めたくなかった。
私は立ち上がり、カバンを肩にかけて帰り道を歩いて行った。




