1/105
プロローグ 静かな始まり
高校2年になって、まだ日が浅い春の午後。
藤音 咲は、お気に入りの窓際の席に座り、ノートに静かにペンを走らせていた。
図書室の午後は、いつもと変わらず静かだった。
カーテンが、風のかたちを教えていた。
誰かのページをめくる音が遠く聞こえていた。
ふと、入口近くでかすかな物音がした。
それに続いて、小さな声が。
「あっ……」
本が一冊、床に落ちた。
その横に、男子生徒がしゃがみこんでいた。
咲は、彼を知っていた。
同じクラスの日向 悠。あまり話したことはないけれど、ときどき図書室で見かける人。
彼は急ぐことなく、本をやさしく拾い上げた。
そして、指先でそっとほこりを払った。
その動きは、声のない「ごめんね」みたいだった。
咲は、気づかれないように視線を逸らした。
けれど、心のどこかに、その一瞬が静かに残った。
誰に向けたわけでもない仕草。
でも、それを見た自分の胸に、ふわりとあたたかいものがともった。
それが始まりだった。
名前のない灯のようなものが、咲のなかに、そっと根をおろした。