6.親愛なる少女
――親愛なるメアリ
これを読んでいる時、僕はもうこの世から去ろうとしているのだろうね。何故か不思議と死と言うものが怖くないから、僕はきっと大丈夫だ。けれど、残される君のことはとても酷く心配している。
君はとびっきりの寂しがり屋だ。誰かの温もりを求めずにはいられない。それが出来なかったから、今まで随分と心の中では泣いてきたのだろう。
僕のせいでまた君を悲しませてしまうのは耐え難いことだが、どうか安心してほしい。僕の弟は、真っ直ぐな気質の、心の温かい男だ。曲がったことが大嫌いで、面倒見の良いお人好しだ。あれが生まれた時から隣で見てきている僕が保証しよう。君も短い時間だけれど、弟と共に暮らして少しは感じるものがあっただろう。それは真実だよ。君を大事にしてくれる。ずっと大切にしてくれる。少し説教臭いところは大目に見てあげてくれ。君が心配でしょうがないだけだから。
君は言ったね、家族が欲しいと。体温のある手の平が恋しいと。
だから約束しよう、メアリ。僕は君に家族を与える。代わりに君は、ニコラスを愛してやってくれ。君の思う方法で構わないから、ニコラスが寂しくならないように、そんなことを考える暇すら与えないように。僕と君の大事な家族を心から愛してやってくれ。
それが僕の願いで、君に捧げる祈りだ。どうか末永く幸せに。 ジェラルド・メッサーナ――
「――義姉さん……ッ」
ぎゅっと握り締める手紙を不器用に折り畳み、潤んだ目元を袖で拭う。次の瞬間には勇ましく顔を上げて、リビングを飛び出していた。周囲に向けて大きく声を張り上げる。
「誰か! 誰かいないか!」
騎士団の制服に着替え直し剣を腰に携えると、早足で屋敷の外に出る。
「坊ちゃん! こちらに!」
馬丁がニコラスの愛馬を傍まで連れてきていた。すぐにひらりと腰掛けて、背の毛並みを撫でつつ呼びかける。
「いいか、マティアス。メアリ義姉さんの気配を辿れ――どうあっても」
愛馬は躊躇わずに駆け出した。ニコラスの気持ちを受け継ぐように、駿足ひらめかせて畦道を突っ切っていく。
使用人たちも表に出てきて、たちまち遠くなっていくニコラスに声援を送る。
「頑張れー、坊ちゃーん!」
「負けるなー、坊ちゃん!」
「愛こそ全てよ、坊ちゃん!」
*
北方の関所へと続く険しい崖路を、一両の馬車がゆっくりと進んでいく。
乗り込んでからずっと黙り込んだままのメアリの左隣に座るジークベルトは、訝しげな横目を向けた。
「血も涙もない氷姫――そう畏怖されるお前がする顔ではないな」
視線を交わさず、窓の景色を見続けるメアリは淡々と返す。
「……南国の陽気にあてられたのよ。のぼせて、舞い上がって、焼け爛れて……胸が痛いわ」
すっかり覇気のない様子に、ジークベルトは苦々しくため息をついていた。
「メッサーナ家は噂通りの女殺しか……。兄弟揃って油断ならんな」
急に、馬車が立ち止まってしまった。崖路の果ての、視界に小さく映る関所から、国境を超えようとする馬車が立て続けに一直線に並んで渋滞を起こしている。
「どうした」
御者に尋ねてみると、困ったように眉を下げた。
「何でも、関所の方で密輸に引っかかった旅団がいるらしくって、騎士団が検問を行ってるらしいんでさあ」
「……こんな時にか。ついてないな」
ジークベルトは気に食わなく鼻を鳴らすと、馬車から降りて関所を見上げる。
「くだらんことに付き合っている時間はない。役人に直談判してくる」
関所へ一人歩いて向かってしまい、馬車には項垂れるメアリだけが残された。窓の緑溢れる景色をぼんやり見続けながら、つい独りごちる。
「身一つで出てきちゃったわね……ここに来た時みたく」
寒そうに両腕で身体をさすると、ふと思い出したと目を瞬かせた。
「手紙……持ってこれば良かったかしら。でも別にいいか、真実じゃないし……」
――義姉さん。
信じていたかった純粋な微笑みが脳裏に浮かんで、胸の痛みを堪えるように膝を抱え込む。
後方から、猛々しく馬を走らせる音が響き――「義姉さん!」と険しい声まで聞こえる。
「幻聴とか……どれだけ女々しいの、氷姫のくせに」
「――義姉さん!」
今度こそはっきり聞こえて、メアリはハッと身体を震わせた。すぐさま馬車から降りて後方へ駆け出す。足場の悪い崖路の先に、馬で駆け付けるニコラスの姿があった。
「ニコラス……!」
「義姉さん!」
泣き出しそうな表情のメアリをニコラスも見定めたが、突如馬をその場で立ち止まらせる。メアリの進行を拒むように、その目前に大剣を抜いたジークベルトが立ちはだかったのだ。
「随分と姑息な手を使うな、弱味噌」
ニコラスも剣を抜いて構える。
「メッサーナ家の力を甘く見るな。都市の中は私の庭と同然だ。囲うのは容易いッ!」
巨大な背中で前方を塞がれたメアリは、ジークベルトの服を掴んだ。
「ちょっと、刃傷沙汰はやめなさいって言っているでしょう!?」
「弱味噌はやる気のようだぞ。俺を越えなければお前はやれない、そう言い渡してあるからな」
「何を血迷ったこと言ってるの! あんたが本気出したら一個師団ぐらいワケないでしょ!?」
「……命を賭しても構わないと――そう思わせるものがあなたにあるのです、メアリ義姉さん」
ニコラスは一歩前に進む。
「あなたはワガママでお転婆で、どうしようもなく手のかかる困ったお嬢さんです。けれど、私や屋敷の皆にも分け隔てなく優しく接し、誰しもの心に花を添えてくれる素敵な女性だ。そのまっさらで温かい光はあまりに目映くて、私には耐え難かった。非力な己も許せなかった」
「ニコラス……」
瞠目するメアリを、ニコラスは悔しそうに、けれど熱っぽく見つめる。
「あなたの孤独に気付けなかった自分など、地獄に落としたい。……あなたの悲しむ顔は見たくない。兄さんに願ったように、その寂しさを一人抱えずに、私に分け与えてほしいのです。私だって、あなたの心を温かさだけで満たしたいのです」
否応なく聞き取ったジークベルトは、げんなりした表情をしていた。
「……歯の浮く台詞を、良く恥ずかしげもなくつらつらと言えるな」
ニコラスは軽く駆け出した。
「好ましい女性へ真実を伝えることに、躊躇う理由などありはしないッ!」
「これだから頭にめでたい花が咲いているのだと言っているッ!」
ジークベルトも距離を詰めようとして足を強く踏み出す。瞬間、メアリの深緑の瞳が爛々と見開かれた。
「神よ――我が祈りに応えよ。どうか血に飢える獣の牙を、全て隈なく抜き取らんことを」
落雷が落ち、男たちの剣が一切の形残ることなく粉砕される。武器を葬られ、一瞬呆気に取られる男たちにメアリが早足で近寄ると、それぞれの頬に平手を打った。
「双方ともやめよ。争いなど何も生まぬぞ、この愚か者共が」
「ね、義姉さん……」
ニコラスはたちまちしゅんと肩を下げた。ジークベルトが神妙に眉をひそめる。
「――それがガーランド一族の奥義、白百合の祈りか?」
「それはエマに訊くが良い。お前が護るべきはわらわでなく、宗主である彼女なのだから」
凛と言い放ち、ジークベルトの腰元にある懐剣を手早く持ち出す。ポニーテールにして背に降りる長い髪へ刃を当てると、その根元から容赦なく切り落とした。
「ね、え……ッ!?」
「おい、どういうつもりだ」
男たちは、再び唖然とメアリを見下ろした。
銀の太い髪束を簡単に結い紐で括り直しながら、肩上で不揃いに髪軽くするメアリは涼しい表情だ。
「神の花嫁になる資格はね、長い髪の女性であることなの。こんなナリで北に帰ったって、世話焼き婆たちのひんしゅくを買うだけね」
少し愉快そうに言ってから、ジークベルトに髪束を手渡す。
「……エマに伝えてちょうだい。メアリ=リリーはもういないのだと。お前の姉は、南の陽気にあてられて熱死したのだと」
「――ガーランド家を裏切るということか」
「それはエマの判断すること。宗主は何もかも自分で判断し、決断しなければならない。その覚悟をもって臨むものなのよ。あなただってそうでしょう、ジークベルト・フォン・クラム」
ジークベルトは大層深々と、大きなため息をついた。
「言い得て妙だな。……不本意ではあるが、致し方なく煙に巻かれてやる」
銀の滑らかな髪束は、布袋の中へと大事に仕舞われていった。
「義姉さん……なんてことを……義姉さん……」
ニコラスが表情を青ざめ、身体全体を震わせているのをメアリが呆れた表情で見やった。
「髪ぐらいで大げさねえ。すぐ伸びるわよ、こんなの」
「髪は女性の命なのですよ!? それを躊躇いなく、あっさりと!」
「だから命を突き出してやったじゃない。首はさすがにあげられないけど、手ぶらでコイツ帰す訳にもいかないし、見事な折衷案じゃない?」
けろりとした表情で明るく笑うメアリに、ニコラスは頭を抱えるのだった。
「義姉さん……、本当にもう、いい加減にしてくださいっ!」
*
こうしてメアリは、再びメッサーナ家の一員となった。屋敷の使用人たちにも涙ぐまれて歓迎され、お祭り騒ぎは三日三晩と続いた。
少女の髪が肩下まで伸びた頃、北の最果て――ガーランド家から使いの者がやって来る。受け取った手紙を、屋敷のガーデンテラスにてニコラスに披露してくれる。
「『弱音を吐いてごめんなさい。姉さんみたいに強くはないけど、頑張ってみる』――要約すると、まあそんな感じね。あたしだって、別に強くないんだけれど」
ベンチに座ってそう呟くメアリを、ニコラスが隣で優しく微笑む。
「義姉さんは充分お強いですよ。色々と、諸々に」
「含みがあるわねえ」
「でも、寂しがり屋なのも知っています」
「……へへ、バレちゃったわね」
気恥ずかしそうに、けれど嬉しそうにニコラスの肩にこつんと顔を傾ける。その無邪気な仕草に、ニコラスは苦笑を浮かべるしかない。
「妙齢の女性が気安くそんな真似をなさらないように」
「ニコラスだからしてるんだもん」
「……その意味は男に都合良く解釈されるのだと、少しはご自覚を」
言ってすぐさま、小さな額に音を立てて唇を落とす。続けて頬と、白く細い指先にさえも。相違なく、真なる愛しさが伝わるようにと。
「……へ、……え?」
深緑の瞳を零れ落ちそうなほど見開いて、メアリは何度も瞬く。何が起きたのか分からないと困惑する少女を、ニコラスは唇の触れ合いそうな間近で窺う。
天使のように清廉で端正な面立ちが、いつになく艶と笑った。
「ふ、いつまでお可愛いつもりですか?」
「ニ、ニコラス……!?」
顔全体を真っ赤に染め上げる少女は、やっと思い知る。女殺しと謳われるメッサーナ一族。彼もまた間違いなく、その伊達男の一人なのだと。
彼は熱宿る瞳に甘さを滲ませ、世の乙女が膝から崩れ落ちる声音を嬉々と囁いた。
「いい加減にしてくださいね、親愛なるメアリ?」