5.大事に出来ない少女
リビングにて振る舞われたウィスキーを片手に、ジークベルトはニコラスに向き合って問う。
「何だ、お前は呑まないのか」
視線の先の、ニコラスの手元にはビスケットと紅茶のみが置いてあった。
「寝酒は身体によろしくありません」
「は、真面目か。もしくは下戸か?」
「うるさいですよ」
「図星か」
一睨みしても、ジークベルトはくつくつと喉奥で笑うだけだった。
腕を組んでいるニコラスの指先が苛立たしくトントンと揺れ動いている。
「それでお話とは?」
「単刀直入に言う。メアリをガーランド家に戻るよう説得してくれ」
「何故私があなたの言うことを聞かなければならないのです」
「あの娘は、神の花嫁――ガーランドの姫だ。厄介なことに巻き込まれたくなければ、手を引けと言っている」
ニコラスは不可解そうに片眉をひそめた。ジークベルトはグラスを傾けて一口含むと、切れ長の目を伏せがちにする。
「王家が崩壊して早数十年……威光は陰り、王家に連なる一族の力は衰えつつある。ガーランド家も、我がクラム家も然りだ。メッサーナ家はかろうじて裕福な状態を保ってはいるが、いずれは同じ道を辿るだろう」
「つまり、何が言いたいのですか」
「ガーランド一族を狙う輩が、いつ何処から湧いてくるともしれない。この街は巨万の富が集まるが、比例して貪り喰らおうとする下劣な俗物も多い」
「義姉さんは私が守りますよ、問題ありません」
「お前の脆弱な腕一つでか、弱味噌?」
ジークベルトの黒曜石のような硬い眼差しが、ニコラスを強く射抜く。
「ガーランド家にいれば、守護者たるクラム家の手でまだ護れる。だがこんな南の辺境で、まともな支援も受けずに一人淋しく不安に暮らせというのか」
「一人などでは……」
「真実、身内ではないだろう。あいつの心を開いたジェラルドもいない。いるのは頼りのない義理の弟だけ」
ニコラスは下唇を噛むのを隠すように、カップを口に寄せた。
「ですが……義姉さんはここでの暮らしを……」
ジークベルトは蔑むような笑みを浮かべる。
「あいつに憎からぬ情でもあるのか? ジェラルドと同類の少女嗜好だな」
「なっ!? 違いますし、兄まで愚弄する気か貴様は!」
ニコラスはカップをソーサーへ叩き付けるように置き、立ち上がった。
「義姉さんは幼く見えるが、気の優しい尊敬たり得る女性だ。だからこそ兄も彼女を迎え入れた。お前の言うような下卑た感情など持ち合わす訳がないだろう!」
「……なるほど。見下げ果てた清廉潔白さだな」
呆れたため息を落とすジークベルトは、ニコラスの紅茶の入ったカップにグラスの酒を注ぎ入れた。
「ならば俺を認めさせろ。メアリを護るに値する、守護者を超える男だと俺に知らしめろ」
「……蛮族はどちらだと言いたいな。だが、お前の高慢な態度は鼻持ちならないッ!」
ニコラスはカップを持ち上げ、中身を一気に飲み干した。
「――……」
間もなく、その目がぐるぐると回ってその場に卒倒してしまったのだった。
*
「痛い……頭痛い……うぅ……響く……」
真昼の最中、寝台のシーツに深く埋もれながら、ニコラスは小さくそう呟き続ける。
青年の額の汗を拭っていたメアリは眉を下げて小さくため息をつくと、手ぬぐいと金盥を抱えて寝室を後にする。扉を締めると、その近くに控えるジークベルトをじろりと睨み上げた。
「――あたしの義弟を、不慣れな酒の席に誘うのはやめてくれる?」
ジークベルトは飄々と肩をすくめる。
「悪かった。威勢が良いところはお前と近しいな。そういう意味では似た者同士か」
「結構なことじゃない。分かったでしょ、あたしとニコラスを引き離そうったって無駄なのよ」
「……現実を見ろ。ジェラルドという後ろ盾を失った今、メッサーナ家におけるお前は異分子に他ならない」
苦々しい表情のメアリは、ツンと顔を背けて歩き出す。その後ろをジークベルトが付き添った。
「あの弱味噌もメッサーナの跡取りとして、いずれは正式な伴侶を迎えるだろう。それでもずっと、お前に肩入れするとでも?」
中庭の水場まで移動して、メアリは黙々と水を汲み直す。淡々とした低い声音が途切れず降り注ぐ。
「ガーランド家に戻れば、お前の居場所はある。エマにはお前が必要だ。北へ引き返せ、今ならお互い傷は浅い」
水を張った金盥に、真昼の陽気がきらきらと眩しく反射している。その中で手ぬぐいを洗い直し、きっちりと絞る。
不意に、吹雪の中で冷たい水を汲んだ記憶が掠める。白い息を吐きながら、ポットを抱えて雪道を歩いて家路へと進む。暖炉で沸かして紅茶を淹れて、深々と降る侘しい雪景色をずっと見守りながら口付ける。凍えて固まるような空気がただ広がるだけの、がらんどうの神殿の中から、たった一人きりで。
「……あそこは皆全てが、只々冷たくて、寒いだけだったわ」
メアリは一人、再びニコラスの寝室へ顔を出した。ニコラスは起き上がれるようになったらしく、ベッドの上で上半身をもたげている。
「良かった、ニコラス。痛みは治まった?」
「……はい、なんとか、かろうじて」
メアリがホッとして顔を覗き込もうとしたが、ニコラスは目を伏せて、項垂れた身体を更に丸めてしまった。
「……情けないことこの上ありませんよ。あなたを守るどころか、醜態ばかり晒して嫌になる」
「別にいいじゃない、そんなこと。あたしは守られたいなんて思ってないわ」
「なら、あなたがここで暮らす意味とは? 守られる役割すら必要ないというのなら、何の意味があってここに留まり続けるというのです」
「あなたが大切だからって言ってるじゃない」
メアリはニコラスの肩に手を添えた。顔を上げたニコラスに、切なくひたむきな眼差しを送る。
「家族が……あなたがいるから。……ここは、とても温かいから……」
そう言って、目の前の広い懐にそっと飛び込んだ。瞬間、ニコラスの頭が警鐘を鳴らす。抱えた身体の柔らかさ、ほのかに漂う甘い香りが、先日の夜に詰め寄られた記憶を呼び覚ます。酩酊で赤らむ目尻と蕩けた瞳、桃色の艶めかしい唇が――。
「……ッ!」
ニコラスははね付けるように、メアリの両腕を掴んで押しやった。いきなりの拒絶に、メアリは呆然と目を瞬かせる。
「……ニコラス?」
羞恥とやましさで赤らんだ顔を俯けて隠し、ニコラスは苦々しい声を振り絞った。
「……そんな振る舞いを気安くなさってはいけません。あなたは聖女で、守られるべき女性です。私のような脆弱な男の手など借りずに、あなたを必ず守り通せる者を頼るべきです」
「何でそんなこと……。ジークのことなら気にしなくていいのよ。あいつがただ強過ぎるだけで」
「彼は関係ありません。……私が、私が駄目なのです」
「駄目……? あなたは駄目じゃないわ。私の大事な義弟は、強くて優しくて、十分頼もしいわ」
「いいえ、あなたを大事には出来ない」
「どうして……? ニコラスは、あたしが大事じゃないの……?」
少女の悲しげに歪んでいく表情を、ニコラスはとうとう見られなかった。
「……少なくとも、あなたと同じ気持ちを抱いてはいないのです」
「……ッ」
メアリはニコラスの腕から抜け出すと、寝室を飛び出していった。衝動だけで閉じられた扉と遠くなる足音を聞きながら、一人残されたニコラスは拳を力なくシーツに振り下ろす。呻くような声が漏れた。
「……私は、最低だ」
少女と男の乗る馬車が、メッサーナ家から離れていく。後ろ窓から覗く二人の後ろ姿を、多くの使用人たちが屋敷の窓辺から悲しそうに窺っていた。
「ああ……行ってしまわれたか……」
「ジェラルド様に続き、メアリ様まで……」
「この屋敷も寂しくなるわね」
道の果てへと遠くなっていく馬車を、ニコラスも食堂の窓際から見やっていたが、すぐに視線をテーブルの食事へ向けた。手に取ったパンをちぎろうとするが、なかなか上手くいかない。
「なあ! このパン硬いんだが」
続き部屋の厨房に大きく呼びかけると、コックがしかめ面でぎろりと睨む。
「いつもは、メアリ様がわざわざご準備くださった焼きたてのものをご提供しておりました。あの味に慣れ親しんでおられたようで、申し訳ありませんね」
「そ、そうか……」
他の食事はふんわりと湯気の立つ、温かくて良い匂いがする。だが、全く手を付ける気にならなかった。手に持った食器を力なく置いて、沈黙の食堂内をぼんやり見渡す。
「……義姉さんがいないだけで、ここはこんなに静かだったんだな」
気の進まない食事を何とか済ませると、ニコラスはトボトボとした足取りでリビングに入った。暖炉の上に飾ってあるのは、兄のジェラルドの写真だ。メアリとニコラスが他愛のない喧嘩をすれば、少女は告げ口してやると言いながら、嬉しそうに良く話しかけていた。同じように写真立てを手に取って、穏やかに微笑む兄に語りかける。
「兄さん……これで良かったのでしょうか。義姉さんに良からぬ気持ちを抱く私には、彼女を守る資格はないのです。いつか、必ず傷付けてしまう。それでも結局は、悲しませてしまって……。本当は、私はどうすべきだったのでしょう」
ふとニコラスは、写真立ての隙間から薄い紙がはみ出しているのに気付いた。裏を向けて、留め具を外す。中からは一枚の手紙が出てきた。何度も読み返したものなのか、紙の端は少し皺になっている。
「これは……兄さんの手紙……?」
*
それは、一人ぼっちの少女と青年の交わした密かな約束だったのだ。
寝台に横たわるのは、今にも天に召されてしまいそうな儚げな笑みを浮かべるジェラルド。その傍らに控えるのは、彼を恨むように睨みつけるメアリ。
「ひどい人ね。こうなることが分かってたような顔して」
「さすがに、そこまでは……。でなければ、……君を不用意に……攫ったりしなかったさ」
息も絶え絶えに告げた後、途端にむせる。
「ジェラルド、あまり喋っては」
「いや……これだけは……伝えないと」
そう言って、懐から一枚の手紙を取り出してメアリに渡した。中身を開き、目を通していくメアリは、徐々に目元を泣きそうに、けれど必死に涙を堪えて何度も頷いてみせる。
ジェラルドは青白い顔に、春の穏やかな陽だまりのような笑みを浮かべる。最後まで、そんな柔らかな微笑みで見送らせようとする。
「……約束しようか、メアリ」
「ええ、約束しましょう。――あたしの、あたしたちの愛について」