97.狂った悪魔
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(あの瞬間、目の前が真っ暗になりました)
白珠は震えながら、必死で嫌だと首を振ったが、聞き入れてもらえるわけがない。悪魔はぐるりと部屋を見回し、一人悦に浸って喋り始めた。
『お前にも一応説明しておいてやろう。お前を抱く前に、この部屋の時間の流れをさらに早める。お前が俺の子を孕んで産むまでの十月十日が、外界での半日になるようにな。子を生ませた後は、お前の体を、捕らえた日の状態に巻き戻す。そして記憶を消し、皇宮に戻してやろう。外ではたった半日しか経っていないのだから誰にも気付かれん』
ここから出られる時には全てを忘れさせてやるのだから感謝しろと、最悪な主張を言い立てて笑っていた。
『いい考えだろう。その後も同じことを定期的に繰り返せばいいのだ。記憶のないお前は何度でも父を信じて付いていくだろう。子はどこかの娼館の女どもに生ませたことにすればいい。俺は優秀な子を何匹も手に入れられる』
『そ……そんなの、めちゃくちゃです!』
体の奥から込み上げる嫌悪と恐れで息も絶え絶えになりながら、白珠は決死の声を上げた。
(あの悪魔の望み通りになってしまえば、私の被害だけでは済まない)
何しろ、生まされた子どもや皇家、引いては帝家までが巻き込まれてしまうのだ。特に、生まれる子は皇家の血を引く子なのだから、天蜜が必要になる。この悪辣な男に生命線を握られ、怯えながら生きていくのかと思うと、胸が張り裂けそうだった。
何とか思い留まらせようと、思いつくままに抑止になりそうな台詞を叫ぶ。
『そのようにしたとしても、生まれた子は私の子。皇家の血筋になります。顔立ちや魅了の力で遅からず素性が露見してしまうでしょう。それに皇家の者であれば帝家に対がいます。魂が繋がっている対には、正しい血を悟られるでしょう』
かといって、複数の子を表に出さず隠し続けることは現実的ではない。せっかく優秀な子たちを得ても、公表できないならば本末転倒だ。
仮に上手く隠しおおせたとしても、己の対を探す帝家の者たちが、皇家や宗基家に降りた七代目までの血筋を全員回っても探し人に巡り合えなければ、不審に思って皇帝に相談するだろう。
(今思い出しても、あの時の私は本当に観察眼も思考力も足りていなかった。……あの男にまだ理論的な会話が通じると思っていたのだから)
涙目で正論を訴える白珠に、ショアーコンは赤い目を向けたまま薄気味悪い笑みを貼り付けていた。
『大体、生まれた子が天威師であったらどうなさるのですか。天威師ならばあなたより格上です。御威を使っても真相は隠し切れません。実母の……私の件も含めて全てを見通されるでしょう。そうすれば、その子は必ずあなたに反旗を翻します』
切々と話すうち、真正面から否定して反論するのではなく、もっと相手を言いくるめて懐柔するような言い方するべきだったかと思ったが――今更言い直すことはできないと腹をくくって続ける。
『それに、覚醒後の天威師は真帝族の創る天蜜でなければ渇きを癒せません。神器を用いたとしてもあなたの創る蜜では駄目なのです。子どもが覚醒して真相を把握すれば、蜜が足りなくなる前にあなたを倒して脱出し、帝家に助けを求めるでしょう。他にも――』
湧き水のようにあふれる饒舌な言葉は、不意にショアーコンが発した濁った嗤い声に止められた。息を潜めて相手を見遣る白珠に、彼は虚ろな目を這わせる。
『そんなものどうにかなるだろう。我がノルギアス家は、皇家と血を共有する帝家の縁戚なのだ。ゆえに、八代目以降であっても奇跡的に皇家の特性を持つ者や天威師が生まれた。その説明で全員納得させる』
『いいえ。直近の天威師から五代隔てれば以降の子孫は天威師にならず、七代目からは皇家と帝家の特性も無くなる。これは至高神様方が定められた絶対の約定であり、決して覆ることはない。その掟は大公家にも伝えられているはずです――』
言いかけた白珠は、ふと悪魔の目を見て言葉を切った。こちらを見ていながらも焦点があっていない、熱に浮かされたような赤黒い瞳。
『いいや、納得するとも。全員納得するに決まっている。いいか、お前は私に抱かれ、私の子を孕むのだ。これから幾度も、何匹もな。これは決定事項だ』
僅かに呂律が回っていない唇からは、細い唾液が垂れていた。
(既に一定期間神器を使い、己には有する資格がない帝家の力を強引に身に宿し続けていたあの悪魔は、その反動で正気を失っていた)
冷静な状態であれば、私の子を秘密裏に生ませるなど到底無理だということくらい分かっていただろう。
だが、既に正常な思考回路が破綻していたため、白珠と子どもの両方が欲しいという本心に忠実に従ったのだ。
(そもそも、禁術に分類される時間操作の力を堂々と使い、室内の時の流れを歪めている時点で正気ではなかった。露見すればそれだけで処分対象になりかねない行為を平然と行っているのだから)
そうなれば、論理的な考えに基づいた説得など通じるはずがない。そのことに気付き、二の句が告げなくなった白珠はただ黙り込むしかなかった。
(そのまま悪夢の時間は続いた。地獄の中で唯一幸いだったことは、あの男が美しいものを好んでいたこと。長期間監禁することで私や室内が汚れることを嫌い、神器の力で私の生理現象を抑えた)
それだけは本当に運が良かったと、心から思う。赤い悪魔が、自分の前でそれらを垂れ流させようとする変態であれば、個人の尊厳という面で悲惨な事態になっていたはずだ。
(そして、一月で帝家の守護が切れると踏んだ彼の見立ては正しかった)
赤い悪魔に苛まれる地獄の日々は着々と経過し、ついにその日が訪れた。
突如として白珠の体内から淡い光が放たれ、幾度か明滅してからふわりと消えた。悪魔が歓喜の表情を浮かべる。
『おお、ようやく体内の加護が切れたか! お前を捕らえてからちょうど30日だ。ようやっとだ、この日をどれだけ待ちわびたことか!』
(あの時は人生で三番目に絶望した瞬間でした)
誰か助けてと、心の中で懸命に母や叔父を呼んだ。だが、この部屋では丸々一月が経過していても、外界の時間はまだ10を数える時しか経っていない。
そのような短時間では誰も異変に気付くはずがない。
『今から時間の流れをさらに早める。これより、ここでの十月十日は外界での半日となる。早く帰りたければさっさと餓鬼を孕んで産むことだな。俺の可愛い宝玉』
宝玉は帝家の特性であり、本来この男には持てないものだ。にも関わらず、その単語を幾度も口走る以上、もはやショアーコンは完全に擬似の力に飲み込まれ、常軌を逸した精神状態になっている。無理に活性化した帝家の血が、身の内で暴走したのかもしれない。
宝玉どころか完全に性欲処理の道具を見る目付きで白珠を眺め、赤い悪魔が舌舐めずりをした。それは絶望以外の何ものでもなかった。
(いっそ殺して下さいと……そう懇願したほどだった)
『お前には今から、俺の子種を与えてやろう』
『出来の良い有能な子を一匹でも多く産むが良い』
欲望を滴らせるぎらついた瞳で喚き立てながら、赤い悪魔は白珠をねじ伏せ、衣を剥ぎ取った。四肢に嵌められた悪趣味な枷の鎖がじゃらりと鳴る。
『皇家は帝家の所有物。お前はこれから、ただ俺の奴隷としてのみ生きるのだ。一生な』
完全に正気を失ったか、あるいは己の中で暴走する血に呑まれたがゆえか――ついに自分を帝家の一員に数え始めたショアーコンが淫虐に嗤う。そして、泣き崩れる白珠の裸身を撫で回し、己の欲で貫かんと腰を鷲掴みにして持ち上げた。
(――あの笑みは永遠に忘れない。忘れられない)
自分を売った実の父。
無慈悲に嬲り上げたノルギアス先々代大公ショアーコン。
仲介者である宗基家先代当主。
白珠の心は三人の男の裏切りによって切り裂かれたのだ。
◆◆◆
悪夢の追憶は、現実ではほんの一呼吸ほどのことだった。すぐに意識を切り替え、白珠は目の前でみっともなく喚き散らす男を見遣る。
裏切り者の一人である宗基家先代当主――の、息子である男を。
「いいか、あれはあなたの自業自得だ! 魅了の力を持つ皇家の御子ならば、己の父親の心くらいしっかりと繋ぎ止めておけば良かったのだ! ふん、結局は金の方を取られてあっさり見捨てられるとは、何ともまあ哀れなことだ」
褐色の鳥がばさりと翼をはためかせ、白珠の肩から浮き上がった。じっと案じるような眼差しを向けて来るので、大丈夫だと目線で返す。
同時に、外でざわついている気配が強まった。豪栄は気付いていないようだが、少し前から殿舎の外がにわかに騒がしくなっていた。
(あの子たちも賑やかにしているようですね)
強力な神威が暴発し、無秩序に揺らぎながら満ちている影響で、この区域はあちこちで小さな時空のねじれが発生している。
もしかしたらこの殿舎内では一瞬しか経っていなくとも、外ではもう少し長い間隔が経過しているかもしれない。世界の時間は止まっているが、天威師たちの時に関しては停止せずに動き続けているのだから。
そんなことを考えつつ、白珠は顔色一つ変えずに豪栄を眺めた。
「どうやら意見の相違があるようだ。私は父上の御心は繋ぎ止めているつもりだが」
「はっ、売られたくせに何を言う」
「ん? あぁ、認識にも相違があるようだな。私の父は帝国の先帝陛下のみ」
あの男に裏切られ、深く傷付いていた白珠を慈しみ、代わりに愛情を与えてくれたのは養父となった先帝だ。
「そなたが言っている父とやらが母上の男妾を指しているのであれば、あやつは既に皇家と絶縁された者。私とは無関係だ」
「負け惜しみを言うな! どう足掻いてもあなたがあの男妾の種から生まれた事実は変わらん!」
「それが何だ。種はただの種。親愛なる我が父ではない」
どこまでも平然と、涼やかに言う白珠が気に入らないのか、豪栄は目を血走らせて歯ぎしりした。
「黙れ! お前など……夫以外の男に肌を曝した売女が! ふしだらな女め! お前の子らとて、本当は橙日帝との子ではないのでは……」
褐色の鳥が剣呑に嘴を鳴らした。同時に、殿舎の中に蒼い塊が走り込んでくると、一直線に白珠の横をすり抜けていった。おや、と思った直後、怒号が響く。
「黙るのはあなたでしょう!」
ばちんと大音量が弾け、豪栄の体が捻れるように渦を巻いて吹き飛んだ。
「この大馬鹿野郎!」
――蒼外套を纏った明香が、豪栄の頰に強烈な平手をかましていた。
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