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92.朱い月は夢を見る

ご覧いただきありがとうございます。

 


 ◆◆◆



 気が付くと、真っ暗な空間の中に鏡があった。


(ううん、違う)


 だが、すぐに間違いに気付く。目の前に自分と同じ顔が見えたので鏡があると思ったが、眼前に立っているのは自分そっくりの彼女だ。


『あら日香(にちか)、また来たの?』


 こちらを見て僅かに微笑む様は、同じ容貌でありながら自分よりも大人びて見える。よく見れば、そっくりと言っても顔付きや雰囲気などに差異はあるようだった。装いも自分とは異なり、龍柄に朱地の衣を纏っている。

 目の前の彼女の方が淑やかで賢そうに見えることが、若干悔しい。


(……でも、高嶺様は私の顔は愛嬌があって可愛いって言って下さったもの)


 先日、講義の後で共に茶を飲んだ時、不意にそんなことを言われたのだ。二人で水入らずの空間だったからか、うっかり気が抜けた明香は菓子をもぐもぐと頬張ってしまった。

 すると高嶺が笑いながら、茶杯に描かれていたりすを指しておそろいだと呟いたのだ。恥ずかしくて真っ赤になると、そなたの顔は可愛らしい、愛嬌があってとても好きだとも言ってくれた。


(どうよ、高嶺様はあなたより私の方がお好みなんだから!)


 心の中で勝手に勝利宣言を告げる。そして改めて相手を見返すと、口が勝手に動き、ぽろりと言葉が零れ出た。


『ねえ、起きるんじゃなかったの? これ以上寝坊はできないって言ってたじゃない』


 それは、自分の心の奥から自然と漏れ出した言葉であった。目の前の彼女が苦笑する。


『もちろん、もう起きるわよ。だから今は夢を見ていたの』

『夢?』

『そう。夢って目が覚める前に見ることが多いのよ』

『……どんな夢を見ていたの?』

『今までの色々な思い出を』


 彼女が人差し指で暗闇の一点を指し示すと、先端に朱色の光が灯った。軽く指を回すと、光は大きな丸い円に変じて輝く。

 そして、その円の中に様々な光景が断片的に映り込んだ。



 ほかほかと湯気の上がる食事を運びながら、育ての父母が優しく笑う。


月香(げっか)、日香。今夜はあなたたちが大好きな咲茸の炊き込みご飯よ』

『二人ともいっぱい食べるんだぞ。父さんが山でたくさん採ってきたからな!』



 仲良く二つ並んだ卓の前で、初等教育の先生が教鞭を取っている。


『いいですか、お嬢様方。どのような時も相手を思いやり、周りの声に耳を傾けることを忘れてはいけません。その上で自分の考えをしっかりと持つのです』



 ほの朱く染まった十六夜月を背負い、白珠が凛とした眼差しを据えている。


『そなたの方が早く覚醒したか。新たな真皇族の誕生を心から歓迎する。()()()()()()――私と同じく月神の神格を持つ者よ。……だが力が安定せぬようだな。双子の場合は両方が覚醒するまで御威が不安定になる場合もあると聞く。日香の覚醒がまだであるゆえ、そなたの公表は時期を見て行う』



 次々と映っては消えていく映像が切り替わり、円の中をひらりと蒼い外套が翻った。


『――様……』


 目の前の彼女が目を細め、聞き取れないほど小さな声で誰かの名を呼びながら、食い入るようにその光景を見た。


(……誰?)


 円に映り込んだ影は、虚空を浮遊する無数のどす黒い鬼火と戯れるようにして舞っていた。場所は開けた更地のような所で、周囲は草木が生えている。近くで篝火が焚かれ、脇にはさらさらと小川が流れていた。


 夜と自然の双方の中に溶け込んだ蒼衣の人物からは、蛍の燐光のような輝きが虹色の光と共に放たれている。腰から下げた龍の佩玉がしゃらしゃらと音を立て、持ち主の動きに合わせて小刻みに揺れていた。

 外套の頭巾を目深に被っているため、容貌は見えない。


(あの佩玉……陛下の代理者の証だ。って、この人まさか蒼の使徒様!? 黒い火は――悪霊?)


 通常のただ人は、死した後は輪廻の輪に乗って転生する。場合によってはすぐに転生せす、一時的に天国や地獄に行くこともあるが、何らかの形で次に進むのだ。


 だが稀に、現世への未練や怨讐といった負の念が強すぎて悪霊となり、いつまでも立ち止まって現世をさ迷い続ける魂が発生する。

 代々の皇帝たちが賢策を行い、国の治安が改善されるに従ってそのような魂は減って行ったが、それでも個々人の事情や境遇によっては現在でも悪霊と化してしまう者は出る。


(強い正の意思で例外的に留まる守護霊と違って、悪い念に縛られた悪霊は魂が澱んでいくんだよね)


 そして最後には、穢れを好む邪神や魔神といった負の悪神(あくじん)に目を付けられ、天に吸い上げられてしまう。ただ負の神の嗜好を満たすための生き餌として。地上への介入を控える神々も、それについては容認している。


(悪神様のお腹の中は神罰牢に繋がってる。だから食べられた魂は、強制的に神罰牢行きになっちゃう)


 悪神にも種類や序列があり、どの階層の神罰牢に繋がっているかは個体差があるという。

 だが、仮に一番軽い神罰牢であったとしても、人間用の最下層の地獄より遥かに辛く苦しい所なのだから十分に最悪だろう。


(魂の色が完全に濁った黒になるともう後戻りできなくなって、後は悪神様に見付かって食われるのを待つばかりなんだっけ)


 悪霊化した魂は救われる道を閉ざされ、遅かれ早かれ悪神の餌食となる。なお、有色の気を持つ高位神は魂までその色に染まるため、黒系統の神威を持つ神は魂も黒い。だが、それは悪霊の黒とは全く意味が異なるものだ。


(この魂は完全にへどろ色になっちゃってる)


 (ひるがえ)って、蒼の使徒と思わしき人物の周囲に蠢く無数の鬼火は、腐ったへどろのような黒色をしていた。

 これは間違いなく悪霊だ。それも、もう手遅れの段階の。


 そして、だからこそ有り得ないことが起きている光景に、目が釘付けになる。


(でも――真っ黒なはずなのに、浄化されてる。もう間に合わないはずなのに)


 蒼の使徒が軽やかに舞い踊るたびに虹色の煌めきが走り、黄色味を帯びた白光が瞬く。


 風が吹き、草花がさざめき、水がせせらぎ、大地が揺れ、火の粉が爆ぜる。それらは互いに重なり調和し織り成され、一つの調べとして奏でられた。


 自然がもたらす天然の楽の音に合わせ、燐光の輝きを羽衣のように纏った蒼の使徒が、夜の(しじま)の中を壮麗に舞う。


 虹色の星くずと黄白の光が瞬くたび、鬼火と完全に一体化していたどぶのような穢れが自然に剥がれ落ち、塵も残さず宙に溶け消えていく。


 (てん)色の(みそぎ)を受けて漂白された魂がきらきらとした輝きを取り戻し、燐光と同じ色に染め上げられて共に踊る。


(……ああ――)


 それは余りにも美しすぎる景色であった。

 見開いた双眸からしとどに涙が溢れ出す。雄大な自然の絶景を前にした時よりも、果てなき宙に満ちる銀の川を見上げた時よりも、なお強く深い感銘。


 幽玄の美の極致と言えるものがそこにあった。


 いつしか黒い鬼火は消え去り、淡く美しい蛍火と化した無垢な魂だけが蒼き御使いと共に戯れていた。


 蒼の使徒が優雅に繊手を回転させる。

 閃いた軌跡に沿って描かれた黇色の輪が、浄化された魂を引き込んで廻り出した。星が瞬くような鱗粉を零す輪は虹の輝きと共にくるくると巡り、内に抱かれた魂たちは導かれるようにその流れの奥に消えていった。


(転生、した――)


 おおよそ信じられない光景に、感嘆の吐息すら出ない。もはや進むことも戻ることもできず、神の地獄に招かれるまで哀しく(まど)い続けるはずであった数多の魂は、一つ残らず救われたのだ。


 まさに奇跡、ただ圧巻の一言であった。


『……』


 一方、魂を導き終わった輪は輝く砂となって砕け始め、蒼き御使いはぱたりと動きを止めた。

 姿勢を正し、次の世に進んで行った魂たちに敬意を表するように目礼する。


 その直後、ざぁと輪が崩れた。風が光の砂粒を舞い上げ、大気に散らす。虹と黇の煌めきが虚空に満ち、星影が地上に落ちて来たような幻想的な風景の中で、蒼の使途はすっと右手を掲げた。

 その手に淡い輝きが灯ったかと思うと、手のひらに乗る程の光球が出現した。球から光が放たれると、辺りの大気中や川の中から虫や魚などが浮き上がり、球の中に吸い込まれていく。蒼の使途は球を手の平に浮かべたまま、周囲にそびえ立つ木々の一本に近付いた。


『これらの命は、今まで通りの環境でなければ生きられません。取り急ぎ時間停止の球の中に保管しましたので、後ほど適切な場所に移します』


 上を見上げて発した声を聞いた途端、言いようのない衝撃が走る。


(え、何で……この声――)


 蒼の使途の言葉に応えるように、がさりと木の葉が動いた。


(他にも誰かいるの?)


 つられて上を見ると、木の上に人影が見えた。ひと際太い枝に腰掛け、幹にもたれるようにして蒼の使途を見下ろしている。一体誰だろうかと思うものの、暗い夜闇にまぎれ、その容貌は分からない。


『魂を清めると同時に、辺り一帯の空気や水も浄化いたしました。この近くには幾つか村がございますゆえ、清らかな自然があれば住民の生活や暮らしに好影響を及ぼすでしょうから』

『そうか。それは良いことをしたな』


 蒼の使途の言葉に応えた声は、男性のものであった。身震いするほどに美しく澄んだ、優しい声だ。

 だが、どこかで聞いたことがある。どこだったかと考えていると、蒼の使途は僅かに視線を下げた。


『けれど、汚れた空気や濁った水の中でしか生息できぬ生物もおります』


 淡々と紡がれる()()()()()()()が、僅かに哀切を帯びた。掌に乗せた球をちらりと見遣り、神妙な声音で呟く。


『自然が綺麗になれば人は暮らしやすくなり、非常に多くの動植物が救われます。しかしその陰で、綺麗ではない場所でしか生きていけない少数の命が追いやられていくことを忘れてはならないと思います。生きるために適した環境は、それぞれの生態によって異なるのですから』


 ふふ、と木の上の人影が笑う。どこまでも慈愛に満ちた声だった。


『いいぞ。その心を持ち続けろ。大のために切り捨てられる小があり、その小は消えゆく中で必死に悲鳴を上げている。君主なればその声を聞き漏らしてはならぬ』

『綸言、肝に銘じます』


 木の上の影に向けて深く頭を下げた蒼の使途が、ふとこちらを見る。そして、何かに絡めとられたかのように動きを止めた。


『…………』


 数瞬の沈黙の後――こちらを凝視していた彼は、やがて静かに己の顔を覆う頭巾を降ろす。衣の内側から、はらりと漆黒の長髪がこぼれ出た。


ありがとうございました。

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