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89.お天気ちゃん

ご覧いただきありがとうございます。

 ぴしりと音を立て、明香の時が止まる。


(……へ……?)


()()()()()?」


 呆然と繰り返すと、謙帝たちは迷いなく頷いた。


「うん、そうだよ」

「神器ではないわね」


 そのままアドルフが神布を小さくたたみ、はい、と明香に返してくれる。


「今度、時間がある時に真皇族のどなたかに視てもらえばいいよ。そうしたら普通の布だと分かる」


 反射的に受け取った明香は、呆然と手の中の布を見た。


「そんなはずは……」


(何で……そんなはずない、だって高嶺様がちゃんと確認したのに)


 だが、謙帝兄妹にうそを言っている様子はない。些かの揺らぎも見せず、真っ直ぐにこちらに眼差しを据えている。明香が咄嗟に次の言葉を発せずにいると、音もなく扉が押し開けられた。


「父上、叔母上。お戻りですか」

「気配を感じたので参りました。お務めご苦労様にございました」


 入室してきたのはローアンとソフィーヌだった。


(帝子殿下、帝女殿下!)


「ただいま。思ったより日がかかってしまったよ」

「まさか10日以上かかるとは思わなかったわ」


 謙帝たちが慈愛に満ちた眼差しをローアンとソフィーヌに向けた。


「そうだ、遷都の儀の日取りが決まったんだって? こちらに戻った途端、兄上から急ぎの連絡が来たよ」

「はい。ラウお従兄様方が緊急の会議に入られました」

「きっと私たちも呼ばれるわね。戻ったところだから身支度を整え直さなくては」


 アドルフとローアン、クルーセラが言葉を交わす中、ソフィーヌが明香に話しかけて来た。


「皇女殿下もこちらにお越しになられていたのですね。本日の茶会は楽しめましたか?」

「はい」


 神布のことで頭がいっぱいの明香だが、何とか意識をソフィーヌに切り替えて頷く。茶会は明るい話題ばかりではなかったものの、義兄たちと親睦を深めることができ、充実した時間だった。


「へぇ、皇女は茶会だったの?」


 会話を聞きつけたアドルフが反応する。ローアンとクルーセラが勢い込んで話し始めた。


「そうです。聞いて下さいよ、今日は大変だったんですよ」

「ラウお従兄様方が分庁に皇女殿下を招いて茶会をなさったのですわ。けれど、その前に森の狼神が暴れかけて皇女殿下が大活躍されましたの」


 帝家の皆が話している間に、明香は手の中の神布をそっと懐に押し込んだ。


(とりあえずしまっとこう……後でまた聞けるかな)


 そこでローアンがさらりと言う。


「それから、メイリーアン嬢は相変わらず暴走気味でした」


『へぇ』『まぁ』とにこやかに相槌を打ちながら聞いていたアドルフとクルーセラが、メイリーアンの名前が出た途端に気配を一変させた。極寒の地で凍り付く氷柱のような鋭利さだ。


「あの娘はまた何かやったのかい」

「本当に問題製造機だわ、あの子」


 吐き捨てるような口調は、今まで明香や帝子たちに向けていたものとはまるで違う。


(メイリーアンさん、帝家全員から嫌われちゃってるんじゃ……)


 ラウへの度重なる暴言に加え、テアとミアの両親を助けなかったことが痛かったのだろうか。そう考えた時、胸中に重い痛みが走った。


『僕は彼女を許さない』


 底の無い悲哀と絶望を湛えて言い切った泰斗。


『私だって許さない。どうしても許せない』


 魂を絞り上げるような悲憤を迸らせて詰っていた、明香とそっくりな彼女。


『だが、最も許せないことは……』


 明確な嫌悪を宿した瞳で何かを言いかけ、明香を見つめて途中で止めた高嶺。


(まだある)


 細い糸がぴんと張ったように、明香の直感が告げた。


(メイリーアンさんは、まだ他にも何かしてる。帝家と皇家が許せないって思うようなことを)


 いつかどこかで見た光景がちらついた。がれきの中、血みどろになった彼女を抱きかかえて泣き叫ぶ泰斗。


『もういなくなってしまったあの子には、未来はないのに』

『あの子が大きくなっていく姿を見たかった……』


 嗚咽を含んだ呟きが蘇り、明香はぞっとした。「別の何か」は、もしかすると相当にとんでもないことなのではないだろうか。嫌な感覚が全身を走り抜けた時――思考を遮るように、ごぉんと鐘が鳴り響いた。


「あら、もうこんな時間なのね」


 話が中断され、クルーセラが窓の外を見た。アドルフが明香に微笑を向ける。


「そろそろ終業しなさいという合図だよ。日勤の者は17の時から18の時の間に仕事を終えるからね」


 分庁勤務は通いの者が多いため、御威を持たない者は転移の霊具で帝国に戻るのだという。


「皇女殿下もそろそろお帰りになりませんと」

「私と兄が門まで送ります」


 ローアンとクルーセラが微笑みかけてきた。


(神布のこと、もっと陛下方に聞きたいんだけど……)


 内心で思った明香はちらりと謙帝たちを見るが、二人は慌ただしく衣を捌いて立ち上がっていた。


「うん、そうしてあげて。さて、遷都の日が決まったのだから私たちもすぐに準備にかからなくては。もちろん、狼神の話とかメイリーアン嬢の話とかも、後でちゃんと聞くからね」

「すぐにお兄様から呼び出しがかかると思うわ。着替えておきましょう」


 忙しない空気を纏って段取りを考え始めた様子を見て、神布の話を蒸し返すことを断念する。


(……今は聞く時間なさそう)


 小さくため息を吐いた時、アドルフとクルーセラが明香を見た。そして、何でもないような調子で言う。


「ああそうだ。――ねえ、私的な場ではさ、私たちのこと名前で呼んでよ」

「私たちの方もあなたを名前呼びしたいわ」


(えぇ!?)


 恐れ多い申し出に慄くと、ローアンとソフィーヌまでが目を輝かせて同調してきた。


「そうですよ、ぜひそうしましょう」

「とってもいいご提案ですわ」


(ぐ……これは断れない感じ……)


 期待に満ちた四対の碧に見据えられ、明香は引き攣る口元を懸命に引き上げて微笑んだ。


「……見に余る栄誉にございます。アドルフ陛下、クルーセラ陛下。ローアン殿下、ソフィーヌ殿下」


 だが、その言葉を聞いた四人は何故か一斉に不満気な顔になった。


「違うわ、そちらの名前ではないのよ」


 クルーセラが少し寂しそうに言う。


「あなたは私たちの家族で宝玉なのだから」

「え、宝玉?」


 明香は思わず繰り返す。聞き間違いだと思った。自分がいつ、彼らの宝玉になったというのか。

 だが、アドルフまでがうん、と首肯して微笑んだ。穏和な眼差しを細めて言う。


「そうだよ、()()()()()()


 ――言われた言葉の意味が、瞬時には理解できなかった。


(おてんきちゃん……?)


 かけられた声を脳裏で反芻する。同時に、幼い頃から見慣れて来た姿が胸中を駆け巡った。



『こんにちは、お天気ちゃんたち。温かいココアを用意するからね』


 血気盛んな帝国人とは思えないほど温厚で優しいリィおじさん。


『あら、来てくれたのね。見て見て、お肉が食べたかったから、ちょっくら熊を狩って来たのよ』


 勝ち気で腕っ節が強いけれどとても親切なサァおばさん。


『今日は熊鍋だよ。少し食べて行きなよ。あ、肉おすそ分けするね』


 いつも落ち着いていて、にこやかな微笑を絶やさないフー君。


『ねえねえ、この前教えた帝国語の挨拶、覚えてる?』


 大人しくて泣き虫で、しかし怒らせるととても怖いというエリちゃん。



「お……」


 ぽろりと言葉が零れ出る。


「おじさん、たち? リィおじさん、サァおばさん、フー君、エリちゃん……?」


 明香に帝国の言葉や文化、教養など様々なことを教えてくれた、近所の親切な帝国人一家。明香がいるといつも晴れるからと言って、お天気ちゃんと呼んでいた。ふっとアドルフたちが微笑んだ。


「そうそう、その名で呼んでおくれ」


 ほっそりとした体に金の長髪が纏い付き、ふわりと揺れる。青白い月光を溶かしたような碧眼が仄かな輝きを放っていた。その奥に光る暖かさは、確かにあのリィおじさんと同じものだ。


「え……何で、どういう――」

「君は幼い頃から皇家と帝家の保護下にあった。私と妹も夫婦に扮して君の側にいたんだよ。未だ眠れる日月を導くために」

「天威で容姿を変えていたから、こうして会っても分からなかったでしょう」


 謙帝兄妹がくすりと笑う。


(……側に、って……つまりリィおじさんがアドルフ陛下で、サァおばさんがクルーセラ陛下で、フー君がローアン殿下で、エリちゃんがソフィーヌ殿下?)


 一つ一つ整理した瞬間、全身に衝撃が走る。

 帝室簿に登録され、公開もされているアドルフたちの正式名。そこから導き出されるおじさんたちの名の由来。驚愕を込めて目を剥くと、その考えを読んだかのようにローアンが言う。


「あなた方は将来、きっと僕たちの家族になるという予感がありました。ですから、初めから()()()()()をお伝えしていたのです。そういう方面に関する帝家の勘はかなり当たるのですよ」

「あ……」


 明香は目を白黒させたまま、順繰りにアドルフたちを見回す。


「本当に……おじさんたち?」

「うん、そうだよ。チューリップの形のショコラサブレが大好きで、うちにある帝国のドレスとルビーのイヤリングに興味津々で、一緒にピクニックに行った時はストロベリージャムとホイップクリームのサンドイッチを一番に頬張っていたお天気ちゃん」


 さらさらと紡がれる内容は、おじさんたちとの思い出ばかりだ。真帝族であれば外からそれらを知る方法もあるだろうが、ここまで自然に話せるのは、アドルフがリィおじさん本人だからなのだろう。


『久しぶりね』

『君のことはよく知っている』


 この部屋に入った時に言われた言葉と穏やかな瞳が、その真意を明らかにして脳裏を巡る。確かにあの一家は、何かと仕事や用事が忙しいと言って不在であることが多かった。明香を見守りながら、並行して帝族の活動も行なっていたとすれば当然だ。


「さて、明香に名前も呼んでもらえたし、そろそろ行くよ」

「明香を頼んだわね」


 アドルフとクルーセラがそろって軽く手を振った。


「はい、お気を付けて」

「お任せ下さい」


 ローアンとソフィーヌが会釈したので、混乱が抜けない明香も急いで目礼する。アドルフがくるりと明香に碧眼を向けた。


「遷都の儀でまた会える。始まりの女神の再来よ。君が進む道が悔いなきものになるよう、我ら帝家も力を貸そう」


 始まりの女神とは、皇国を開いた初代緋日皇の別称だ。


「お、おじさ……」


 未だ動揺が収まらぬまま、明香は声を上げようとするが、それより早く謙帝たちの姿はかき消えてしまった。

ありがとうございました。

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