75.神官長のため息
ご覧いただきありがとうございます。
「それ、承認っと」
さらさらと署名を走らせた書類を卓に置き、仕上げに神官長の印をぽんと押す。
淡い緋色の衣を纏った年若の神官が、瑞々しい朱肉が輝く紙を両手で取り上げた。
「ありがとうございます」
屈託ない笑みを向けられた松庵は、うんうんと微笑んだ。
「さて、この後は太子殿下の宮から来客がある。その前に、気分転換も兼ねてこの辺りを一周してくるでな。何かあれば念話するように」
本当は、神官府の中を見回りたいのだ。先程、遷都の儀の日取りが発表されたことで、皆の心が浮ついている。ゆえに、様子見と必要によっては声かけなどを行う必要があった。
「はい」
扉を開け、一緒に廊下まで出た神官は、そのような内実を知らぬまま元気よく頷く。にっこり笑った顔はきらきらとしている。
「うーん、若いっていいのぅ」
このまま真っ直ぐに育っていくよう願いながら、ひらひら手を振って別れの挨拶をし、廊下を歩き出す。
時折すれ違う神官たちをさり気なく観察し、時に落ち着くような声かけをしながら進んでいると、曲がり角で黒い衣を纏った瘦せぎすの男と鉢合わせた。こちらを見るなり渋面を作る男にのんびりと笑いかける。
「これは宗基家のご当主様殿。神官府に何かご用でしょうか」
男――豪栄の顔が険しさを帯びる。
「何だその言い方は。わしがいたら悪いのか。わしとて霊威師――神官であるぞ」
「いえいえ、決してそのような意味では。ご当主殿は宗基家の家長としての責に邁進されるとのことで、余り神官府にお見えになられなかったものですから、ついこのような言い方をしてしまいました。大変失礼をば」
黄ばんだ歯をむき出して威嚇する豪栄をさらりと受け流し、松庵は殊勝に頭を下げる。
「ご当主殿が神官の職に従事して下さるのであれば、私としても嬉しい限りでございます。ただ、そのご衣装では些か目立ちますので――よろしければ神官衣をご用意いたしますが」
飄々と笑って言ってやると、豪栄は瞬時に顔を真っ赤にして怒鳴った。
「失敬な、これは宗基家の由緒正しい祭祀服だ!」
「はぁ」
臣下では最高峰の名門・宗基家に生まれながら、豪栄は辛うじて徴が発現する程度の弱い霊威しか持たなかった。他に後継者がいなかったために彼が当主となったが、神官としての出世は見込めない。
それでも、別の方面で秀でた能力があれば、あるいは人柄や性格に優れていれば、白珠はそれを評価して然るべき形で取り立てただろう。彼自身が自分の力で這い上がって行ったかもしれない。
だが現実は、神官府以外のどの部署にも就けず、神官としても下位のままだ。それで彼の器が分かるというものである。今はただ、宗基家の当主であることだけが彼が誇れる縁となっている。
「しかし、それは宗基家の中の話ですからなぁ」
松庵は豪栄の虚勢をばっさり切り捨てた。豪栄が神官の衣など着て来られるわけがない。高い御威を誇り、濃緋色の衣に身を包むのが当然であるはずの宗基家の者が――それも当主が、低位神官の証である薄緋色の法衣を纏うなど恥辱の極み。
とはいえ、神官の職務をこなすのであれば神官服を着なくてはならない。必然的に豪栄は神官の仕事を避けるようになっていった。宗基家当主としての仕事が忙しいということを盾にし、神官府には余り顔を出さないのはそのためだ。
明香が覚醒した際は急ぎ駆け付けたようだが、それは珍しいことだった。この男は恵奈を高嶺の妻にと推していたため、狙っていた場所をかっさらって行った日神の御子の顔を拝みに来たのだ。おそらく内心は腹わたが煮えくり返っていただろう。
「何だその言い方は! 宗基家は建国時より皇家にお仕えして来た名門中の名門であるぞ! 大体、目立つというが神官服を着用せずに仕事をしている神官たちもいるだろうが!」
松庵は一歩足を引き、口から泡を飛ばして怒鳴る豪栄から距離を取った。気圧されたわけではない。目の前の男の唾がかかるのが嫌だっただけだ。
「それは他部署を兼任している者達でございましょう。そのような場合には兼任先の装いをすることもありますからな」
豪栄も別の部署の高職に――何らかの公的地位に就いていれば、その格好をしてくることができたのだが。
「ご当主もせめて公職のご衣装をお召しになられれば――ああ、既に引退されたのでしたな。これはまた失礼をいたしました」
代々宗基家の当主が担当者に任ぜられてきた土地の管轄権と、お飾りの名誉職は幾つか持っていた豪栄だが、それも度重なる不祥事で剥奪され、全て子の恵奈に引き継がれている。
「なるほどなるほど、神官服かお家の衣か、どちらかしか選択肢が無かったのですな。ふむ……神官が神官府に行くわけですから、私であれば神官服一択ですが――ご当主殿はあえてお家の衣で神官府にいらっしゃったと」
下位神官の衣など恥ずかしくて着られないから、という真意にはあえて触れず、松庵はわざとらしく感嘆の面差しを浮かべた。
「いやはや、やはり尊き名家の方は私のような卑賤な者には及びも付かぬご深慮をお持ちですな」
「貴様っ……下賎な馬の骨が」
豪栄が歯ぎしりして唸る。ほぅ、と松庵は目を眇めた。御威が最重視されるこの国では、神官府で二番手の神官長は非常に高い地位にある。例え宗基家の当主であろうと、侮蔑的な言動は控えなくてはならない。
にも関わらず、簡単に挑発に乗って軽率な言葉を放ってしまうから、この男はどこの部署でも使ってもらえないのだ。
「今日は宗基家当主として皇宮に寄っただけだ! ついでに神官府にも顔を見せておこうと思うたからこの衣で来たのだ!」
「左様でございましたか」
神官としての務めを行わず、その他の職に就いてもいない豪栄が皇宮に何の用があるのやら。だが、もうこの男とのやり取りに嫌気が差していた松庵は突っ込まずにただ頷いた。
「特段神官府にご用があったわけではないのですな。では、この通りご挨拶はお受けいたしましたゆえ、どうぞお引き取りを。神官たちは皆忙しいのです」
「何だその言い草は! わしは大神官の父君にして奇跡の御子の尊父であるぞ。大神官はお主より上位であろう」
ついに自分の子どもまで盾にし始めた豪栄に、松庵は内心で閉口した。例え事実だとしても、自分で自分を尊父と言うだろうか。
「ええ、その通りでございますね。――それでは私はこれにて」
話を切り上げると、優雅に礼をする。
「待て」
だが、豪栄の方から呼び止められた。面倒だという本心が出ないよう、穏やかさを維持して再び顔を向ける。
「何か?」
「その、何だ……遷都の日取りが決まったとかで慌ただしくしておるようだが……首尾は順調なのか」
「はい、ご心配には及びません。業務の移行や引き継ぎは段取り済みですし、最後の儀式さえ終われば速やかに新たな皇宮に本拠を切り替えることができるでしょう」
そして都移りが済めば、盛大な祝宴が開かれる。
「だ、だが、初代陛下や歴代皇族方が遺された秘宝なども新宮に動かすのであろう。それは大変な作業ではないのか? わしとて遡れば皇家に繋がる者、何か力になることがあれば助力は惜しまぬが」
「ご案じなさいますな、皇家と帝家が恙なく遂行いたしますので。ご当主殿が懸念されることはございませぬ」
お前の出る幕はないと、ぴしゃりと言い放つ。
「いやしかし、宗基家の家長として」
「はい、あなた様は開国以来続く宗基家のご当主。最も皇家に近い特別な家の長なのです」
ぐすぐずと言い募る豪栄を遮り、松庵は正面からその目を見据えた。
「どうかそのことを御心に刻まれませ。ご自身のお立場を自覚され、このまま何もなさいませぬよう。さすれば我が国随一の家門を統べる者としての地位と栄誉は保たれましょう」
この男の言動と評判は、底辺に近い散々たるものだ。しかしそれでも、現時点では、国家転覆級や大量虐殺など取り返しが付かないほどの凶悪犯罪や重大過誤を犯したわけではない。
「権門に生まれたがゆえの幸福や権利、あるいは辛苦や困難は多々あることでしょう。ご当主殿にとって宗基家と当主の地位がどのようなものであるかは、ご自身のみが知ること」
高い地位に生まれたからと言って幸せだとは限らない。好きでそんな環境に生まれたわけではないと叫びたくなることもあるだろう。
「――ですが、例え幸福ではなかったとしても、平民には持てぬ特権や恩恵を受けていた面はあるはず。そのことを噛み締め、静かにお暮らしになられれば十分でございましょう。この忠言をお心に留め置き下さいませ。最後の一線だけは超えてはなりませぬ」
善行を積まぬ代わりに悪業も犯さぬよう、静かに内に篭っていればいい。そうすればいつか心を入れ替えた時、殻を破って再び歩き出すことができる。だが、取り戻しようがない過ちを犯し、完全な暗がりまで堕ちてしまえば、それすら叶わなくなるのだ。
「……貴様に何が分かる。御威が最も重視されるこの国で、天下に鳴り響く名家にたった一人の跡取りとして生まれながら、弱い霊威しか持たぬ惨めさが――聖威を持つ貴様などに分かるものか!」
豪栄が低く唸り、血を吐くように叫んだ。松庵は冷めた目で流し目をくれる。
彼の今の叫びは本物だろう。だが、心を寄せられない。この男の本性を知っている。歪み切った醜悪な心根を。
ゆえに、彼の悲哀が理屈では理解できても、感情として寄り添えない。
「ええ、分かりませんなぁ――ちっとも分かりませんとも」
「なっ……」
ぼそりと発した声は、自身が想像していたものよりも遥かに低かった。豪栄が気圧されたように身を硬くする。
「皆が皆、あなたのような方ではない。……心と体を悉くすり潰すような苦境に置かれても、決して挫けることなく歯を食いしばって歩き続けた者もいるのです。当事者の心の持ちようにより選び取る道は雲泥万里。あなたを見ているとそれを実感いたします」
突き刺さんばかりの鋭さと冷たさを宿した面差しを、ひたと豪栄に据える。
「どれほどご自身の不遇を嘆こうとも、今のあなたに寄り添おうと考える物好きなどいないでしょう」
彼には彼の葛藤や屈託があったのだろう。だが、それだけでは弁明できない数多の問題行為は、御威の強弱以前の話として、彼の心根が根本から汚れ切っている証だ。
「ご自身の言動を今一度見直されませ。そして己の心持ちと態度を改め、謝罪すべき者には血反吐を吐くまで謝罪し、端役の仕事であっても誠心誠意こなすのです。そうして必死に再起しようと奮戦する姿を見せ続けたならば、周囲の目もあるいは変わっていくやもしれませぬ」
人は変われるのだから。本人が変われば周囲も変わる。良い方にも悪い方にも。
「真の矜持とは何か、真の栄誉とは何か、己が真に向き合い見直すべきは何か、もう一度お考え下さいませ。お時間はたっぷりとお有りでしょうから」
そこまで言った瞬間、ちり、と胸の奥が焦げ付くような感覚と共に、現れた玄い光が喉に絡み、声を封じた。呆れを帯びた美声が脳裏に響く。
『はい、ここまで。あなたはやっぱり最後の最後で甘いのねぇ』
豪栄には視えていないだろう。これは大いなる神からの制止と警告だ。
――しまった、干渉しすぎた。
心の中で舌打ちした松庵は、無言で豪栄に一礼して場を立ち去った。言い逃げのような形になってしまったが、声が出せなくなった以上仕方がない。
背に絡み付くねっとりとした視線を意に介さず、廊下を進み次の角を曲がったところで、絡んでいた光は消失した。自由になると同時に、はぁと肩を落とした。
「さっさと切り上げれば良かったものを――」
自分はこの期に及んでもまだ、どこかであの男を見限り切れていないのかもしれない。もしかしたら最後の最後に気が付いて変われるのではないか、土壇場で思い直してくれるのではないかと。
まだ少ししか神官府を回れていないが、もう戻らなければならない。松庵はやれやれと嘆息し、神官長室の方角に向けて踵を返した。
ありがとうございました。




