73.結ばれる糸
ご覧いただきありがとうございます。
『帝子殿下ー! どうか私をあなたのお嫁さんにして下さいませぶひゃぅ!』
テアはラウに駆け寄りながら勢いよく告白したものの、最後にすっ転んで派手に顔面を地面に打ち付けた。何とか起き上がり、羞恥と緊張と興奮で真っ赤になった容貌で、すぅっと息を吸い込むと一息に言い切る。
『い、以前お見かけしてよりずっと、あなた様のことをお慕い申し上げておりましたの。想いを抑えられず、はしたなくもお伝えしに来てしまいました。庶子の身で高望みなどしておりませんわ。一番下の妾で構いません、私をあなたのお側に置いて下さいませ』
床にぶつけた弾みで、テアの鼻までが赤くなり、汚れが付いている。驚いたように目を見開いていたラウが、『これで拭くといい』と手巾を差し出して困ったように笑った。
『ありがとう。だが、私には既に婚約者がいる。君の想いに応えるのは難しい。……それに、私の側にいると危険が伴うこともある。自分の身は自分で守れるくらいの力を持っていなければ危ないだろう。君のような美しくか弱いレディであれば特に』
やんわりとした断りの返答に、しかし、テアはめげなかった。手巾ごとラウの手をがしりと掴み、目を潤ませて言い募る。
『では私、御威を持つ男の人にも負けないような強い女性になります。一粒くらいなら愛情をおこぼれしてやってもいいと思っていただけるような女性になってみせますわ。私、諦めません! 絶対に諦めませんから! 婚約者がなんぼのものだというんですの!』
そして手巾でチーンと鼻をかみ、『洗濯して今度お返しいたしますわ!』と赤い鼻のま告げ、唖然としているラウを置いて走り去って行った。
また、ずらりと列を成して続く他の欠片の中では、ラウやティル、それに高嶺までもがメイリーアンを説得し、話し合いを依頼している映像が度々映っていた。
しかし彼女はその度にラウ相手には逆上し、ティルと高嶺相手には媚びた態度で受け流し、まともに取り合おうとしなかった。
明香が何とも言えない気分で視線を逸らすと、別の欠片が目に入った。
その中では、テアが汗と泥にまみれながら、『負けませんわよ――あ、間違えましたわ。……負けるもんか! 帝子殿下に振り向いてもらうぞ!』と自分に檄を飛ばし、懸命に木剣を振って稽古を重ねている。
その隣の欠片では、庭を這う虫を見て悲鳴を押し殺し、『む、虫くらいへっちゃらなんだぞ……帝子殿下のお側に行けるならこれくらい……』と震え声で囁きながら、平気そうな顔を作ってこわごわとその側を通り抜けていた。
さらに横の欠片では、薄暗い城内をへっぴり腰で歩きつつ、『暗い所なんか怖くない怖くない、私は帝子殿下に相応しい強い女性になるのですわ……なるぞー!』と呟いていた。
そしてそんな彼女を、ラウとティル、高嶺が陰から見守っている。
そのうち、『危なっかしくて見ていられないから』と言い、ラウはテアの稽古を手伝うようになった。
もちろん婚約者を持つ身であるため、テアと二人きりになることはなく、過度に体を密着させることもしなかった。
節度を保った関わりを続けるうち、テアの淑やかな顔が力強いものに変わっていく。
その輝くような笑みを向けられるに従い、ラウの笑顔も次第に増えていく。
二人の距離が、静かにゆっくりと、しかし着実に縮まっていく。欠片が進むたび、その変化が少しずつ、だが確かに現れていった。
そして、先に進んだ欠片の中では、現在と変わらぬまでに大きくなったメイリーアンが自信に満ちた顔で叫んでいる。
『さぁ、今日こそは婚約を解消していただきますわよ! 改めて正式な書類を持って参りましたわ。もちろん我が大公家側で必要な印と署名は全てそろえております。いい加減に観念なさいませね』
これまでから通算すると、もうどれくらい繰り返されたやり取りだろうか。
勝ち誇った顔で言うメイリーアンから婚約解消のための書類一式を受け取ったラウが、無表情のまま黙って踵を返す。今までずっと浮かべていた穏やかな表情も哀しい笑みも、もう見られない。ただ、僅かな切なさとほろ苦さだけが、凪いだ眼差しの最奥に滲んでいる。
『確かに受け取った』
メイリーアンは一瞬きょとりとしたが、すぐに強気の表情に戻った。
『どうせまた処分なさるのでしょう。痩せ我慢は程々になさいませ。ああ、もうすぐあなたの妻になってしまうことを思うと、我が身の不運さに毎夜枕を濡らしておりますわ』
ラウは答えず、ちらと振り向いてメイリーアンを見やった後、最後に残った情を振り切るように前を向いて立ち去った。
その横に揺蕩う欠片では、三日月が浮かぶ夜の中、成長したテアが騎士服を着込み、明香が知る颯爽とした動作と凛とした表情で剣を掲げる姿が映っていた。頭上で高く結い上げた金髪が靡き、その全身は美しい虹色の輝きを帯びた紫に輝いている。
テアは掲げた剣を流麗な所作で回してラウの前に捧げ、夜の闇を恐れもせず、すぐ近くを通り過ぎる虫を歯牙にもかけず、膝を付いて叩頭し、朗々たる声で言う。
『ここに改めてお願い申し上げます。不肖の身ではございますが、どうか私をあなた様の妻の末席に加えていただきたく存じます』
揺らがぬ思慕の想いを真っ直ぐに受け止めたラウが無言で膝を折り、テアと目線を合わせた。ティルと高嶺とミア、それに白珠がその様子を見守っている。
『先ほど私の婚約者――いや、元婚約者が渡してきた婚約解消の書類に対する、帝家側の署名捺印が完了した。書類は受理され、婚約は正式に解消された。元婚約者はまだその事実を知らないだろうが――私は今の時点で、既にお相手無しの状態だ。私の心は既に彼女にはない』
『殿下』
テアが小さく息を呑んで顔を上げた。星明りをまぶした夜空に優しい月光が煌めいている。月と星が織りなす瞬きに照らされながら、ラウは胸に利き手を当て、万感の思慕と敬意を込めた礼を取った。
『レディ・サテアーネ。私のような取るに足らぬ男のためにここまでしてくれたそなたを、ただひとえに愛しく恋しく思う。そなたに愛を乞うのは私の方だ。伏して願う――どうか私の妻になってくれないか。今後はそなたを唯一の正妃とし、そなたのみを妻として愛し抜こう』
迷いのない澄んだ声で宣誓したラウは、しかし、つとその端麗な容貌に影を落とした。
『だが、どれだけ想いを捧げても、私がかつてはそなた以外の女性を愛していた事実は残る。また、不甲斐ないゆえにすぐに割り切ることができないかもしれない。今ならばこのような私に見切りを付け、全てを白紙に戻すこともできる。そのことを承知した上で、それでもどうか、私と添うことを検討してもらえないだろうか』
『答えなど最初から決まっております』
真摯に投げられた問いと懇願に、テアは些かの間も開けずにきっぱりと断言した。
『一時でも婚約者であられた方をそう簡単に忘れ去るような冷徹漢など願い下げ。簡単に割り切れぬのは、情のある者として当然です。殿下のご心痛を癒すことは、途中からその御心に割り込んだ私の役目。ゆえに、どうぞ何もお気になさらず。どーんと構えて私に微笑みかけて下されば十分にございます!』
最後はにっかりと白い歯を見せて笑っての、堂々たる宣言だった。
ラウがテアの両手を取る。
『ありがとう。本当にありがとう――許してくれるならば、そなたのことをテアと呼ばせてもらいたい。そなたも、よければ私のことはラウと呼んで欲しい』
テアがほんのりと頬を染める。さっと視線を下に降ろし、内緒話でもするかのように打ち明けた。
『……実は、私はずっと、殿下のことを心の中ではラウ様とお呼びしておりました。これからは堂々と口に出していいのであれば嬉しいです。私のことも、もちろんテアとお呼びいただければ天にも昇る心地でございます』
『ああ、そうだったのか。では私も、これからはそなたに負けないくらいたくさんテアと呼びかけよう』
微笑んだラウが、ゆっくりとテアを抱き寄せた。満天の星に包まれながら、二人は互いの熱を分け合うようにしかと抱擁する。そして、空を見上げて乞うた。
『天におわす至高の神々――我が尊き祖神方よ。どうか我が願いをお聞き届け下さい。なにとぞ、私と妻が共に在ることをお許し下さいませ』
心からの祈りに満ちた声に応えるように、閃光を炸裂させた天が輝き――ラウとテアの胸元に虹色の光が灯り、そこから伸びた一本の線が絡み合い結び付く。決して解けることのない、神の糸だった。
『――どういうことですの!? 婚約を解消なさったですって!?』
次の欠片で、蒼白な顔をしたメイリーアンが唇を震わせている。
ラウが静かに言った。
『そなたの方から繰り返し申し出ていたことだろう。婚約解消はもう正式に成立している。既に私とそなたは他人だ』
『そんな……有り得ませんわ。霊威師の分際でこの私を捨てることなどできるはずがございませんもの。分かっておりましてよ!」
引き攣った笑いを受かべ、頑なに認めようとしない元婚約者に、ラウは小さく嘆息する。唇を開こうとした時、隣に立つティルが冷ややかな眼差しで口を挟んだ。
『兄上は言わなくていい。俺から話すよ』
『最後のけじめでもあるゆえ、私が自分で……』
『いいから。ここは俺に任せて。お願いだから。――あのねメイリーアン嬢。婚約解消は本当のことだよ。いくら否定しても事実は変わらない』
容赦なく断言したティルは、くしゃりと前髪をかいた。明るい金色の癖っ毛が軽く跳ねる。
『俺たちは待っていた。君が考えを改めてくれるのを。自分の言動を省みて、少しずつでも変わってくれることを期待していた。せめて、変わろうという意思を僅かでも芽生えさせてくれるかもと希望を抱き続けた』
怒りと悲しさ、悔しさとやるせなさが入り混じった表情で、ティルは一息置いてから続ける。
『だって、君は兄上の婚約者で、俺たちの家族になる人だったんだから』
だからこそ、ラウもティルも高嶺も、ぎりぎりまでメイリーアンを完全には見限らなかった。どれだけテアの方が魅力的で好ましいと思っても、それでも一縷の望みだけは限界までメイリーアンに維持し続けた。
しかし、その全ては徒労に終わったのだ。
ありがとうございました。




