67.近付く時機
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「ふぅ……」
神官府の主殿内にある中庭まで赴いた松庵は、緑の大地に立って空を見上げ、小さく息を吐き出す。唇から漏れた細い煙が、うっすらと空気の中に溶けていった。
神官長や大神官の室から近いこの庭には、滅多に人が訪れない。密かに息抜きをしたい時には絶好の場所だった。
快晴の空を眺めていると、凛呼とした声が鼓膜を震わせた。
「雪が降るやもしれぬな」
この場にいる予定ではないはずの者の声に、驚いて振り向く。
「蒼月皇陛下」
視線の先には、白珠が静かに佇んでいた。肩には褐色の大きな鳥を乗せている。礼をするべきか逡巡した松庵を繊手の一振りで制し、そのまま優雅な所作で男物の衣の裾をさばくと、隣に並んで共に空を見上げる。
よく見れば、晴れ渡った空の端からは雲が忍び寄って来ていた。確かに、これは雪になるかもしれない。
「御身は新都の皇宮にいらっしゃるものと思っておりました。何かございましたか」
天威を使えば一瞬で遠距離を超えられるため、白珠がここにいること自体は不思議ではない。重要なのは、来た理由だ。公表されている予定では、白珠は今日この時間は国境にある新たな皇宮にいるはずなのだ。
「緊急の案件でも? 太子殿下方は茶会に行かれましたが……」
「例の儀の日取りが決まったため、随所への連絡も兼ねて急遽こちらに来た。――7日後だ。国境の新宮とこの旧宮の波長が近付いているゆえ、逆算できたのだ」
淡々と告げられた言葉に、松庵の背筋が伸びた。
「それはもしや」
「『始まりの神器』の移送を行う儀式の日取りだ。それさえ終われば遷都は完了する。太子たちにも橙日帝陛下から連絡が行くだろう。皇宮の官吏たちにもすぐに伝え、準備にかからせる」
「見通しが立ってようございました。本当にぎりぎりで何とか、というところでしょうか」
「ああ。だが油断はできぬ。下手を打てば『始まりの神器』は失われる。既に当初の見込みを遥かに超えた三千年弱が経過し、もはや消えかけの状態なのだ」
何としても移送を成功させなければならないと、白珠は呟く。
「7日後であれば――終の日でございますね。何とも運命的な……」
松庵が苦笑いを浮かべて言った。
皇国と帝国の両国において、1年は360日となっており、1の月から12の月までの12か月に分かれている。1か月は1の日から30の日までの30日間。月初から初・地・水・火・風・終の6種類の曜日を5巡ずつ繰り返して月末に至る。今日は風の日だ。
「ああ」
短く相槌を打ち、白珠は視線を下げると庭に咲く寒菊の花を眺めた。そしておもむろに言う。
「もう消し時だな」
「はい?」
「斎縁泰斗のことだ」
松庵から表情が抜け落ちた。
「今日は勝手に西の御子の様子を見に行き、皇女に見付けられると私の依頼を受けたとあらぬことを言ってごまかしていた。全く困ったことだ」
白珠は優し気な笑みを刷き、細く滑らかな指を白い菊に這わせている。
「釈明させようと斎縁邸に入宮命令を送ったが、疲労が強いようなので難しいかもしれぬとのらりくらり躱す返事を送ってきた。――私に創られた形代が、だぞ。随分な態度だと思わぬか。特に多く力を注いで創った、言わば私の分身だと言うのに」
「既に心を宿し、陛下の使役を逸脱しているのです。よくご存知でしょう」
「ああ。その件は私も了承したことゆえ、それで良い。重要なのは、皇女は既に在るべき場所に――皇宮に戻ったということだ」
「はい。藍闇太子殿下とも仲睦まじいご様子で、こちらも安堵しております」
「紅日皇女は藍闇太子の光であり太陽だ。そして皇女が戻った以上、指南役として設置した斎縁泰斗はもう用済みなのだ」
当然だと告げる白珠に、松庵は何かを堪えるような瞳で押し黙った。呻くように言う。
「……消し去らねば、なりませんか。何とか今後も存在させてあげることは」
「何だそれは。まさか絆されたのか」
揶揄うような声音に、松庵が無言で目を逸らした。白珠はころころと笑う。
「戯言を。斎縁泰斗は最初から使い切りとして用意したに過ぎない。与えられた役割を完遂した時点でその存在意義はなくなる。そなたも知っているだろう」
白魚のごとき腕が一振りされると、真っ白い花がぽとりと一輪落ちた。それを掌に乗せ、艶やかな美貌がふわりと揺れる。
「寒菊の見頃は遠からず終わる。己の咲く時期を終えた花は枯れるのを待つばかり。その前に摘み取ってやるのは恩情であろう」
「……根付いてさえいれば、来年また咲きましょう。再来年も、その次も。無理に摘んでしまうこともないかと」
やんわりと反駁する松庵に返されたのは、無温の哄笑だった。
「一時のみの存在に根などあるわけがなかろう。それにーーようやく終焉の鐘が鳴る時が来るのだ。もう一つの神託で示された時機を考慮しても、もう潮時であろう。後ほど遣いをやり、斎縁泰斗にこれを届けさせる。勅命だと言ってな。さすれば自ずと私の意向を悟るだろう」
「……」
皇国において、白菊は故人に供える死の花とされている。葬儀や墓前には白い菊をふんだんに飾るのが常であり、弔問や回忌法要の際に持参する定番の花にもなっていた。それを贈るということは、暗に死を命令しているのと同じだ。
「これで一件落着だ」
苦いものを飲んだように黙り込む松庵に、白珠はさっぱりとした顔で話題を変えた。
「ところで話は変わるが、今宵は息子と共に雪見でもしたい気分だ。急な公務が入らなければ、今宵は北の宮に行く」
「――北に、でございますか?」
「ああ。……たまには親子水入らずでゆっくり語り合いたい」
――珠歩と。
音になることなく発された続きは、唇の動きで十分に察することができた。
「……成る程。承知いたしましてございます」
庭に興味をなくし、再び空を見上げ始めた白珠に向けて、松庵は深く頭を下げた。
ありがとうございました。
第2章、完結です。
明日から引き続き第3章を投稿します。




