65.決意の口づけ
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皇宮の上空を翔け抜けていると、こちらに気付いた人々が頭を下げているのが見えた。数多の神官、官吏、武官、女官たち。その中には、ちょうど外を歩いていたらしい佳良と永樹の姿もあった。
(佳良様、永樹さん)
佳良には今朝からたくさん心配をかけてしまった。茶会が終わったら詫びと礼を言うことを忘れないようにしようと、再度心に刻む。
眼下にそびえる塀を文字通り飛び越えると、敷き詰められた石畳の色が緋色から翠に変わる。地上を行き交う金髪碧眼の人々が、こちらに気付くと帝国式の礼を取って迎えてくれる。
「殿下!」
「殿下ー!」
大きな声が空気を揺らしながら真っ直ぐに届けられた。帝国人の若い男女が笑顔を浮かべ、こちらを誘導するように両腕を振っている。二人とも、揃いの紫水晶がついた髪紐で髪を結っていた。
(あの人たち……)
カイシスの接待を受けていた時、広間の隅にある柱の陰から心配気に覗いていた男女だ。柱に隠れるようにしており顔の一部しか見えなかったこと、あの時は明香自身も余裕が無かったことから気が付かなかったが――改めてよく見ると、二人は共に凄まじく整った容貌をしていた。驚いている間に、朗らかな声がかけられる。
「そのまま本殿奥の回廊までお進み下さい」
「殿下方が入れるよう開けてありますわ」
二人の誘導に従い、明香は高嶺と共に降下しながら分庁の本殿へ向かって翔けた。
◆◆◆
外に面した本殿の回廊は広々としており、巨大な鳳凰と麒麟がそろって降り立てるだけの面積があった。危なげなく着地した明香と高嶺は、そのまま天威を解除する。
(帝城は虫の一匹も通さない要塞だって聞いてたけど、以外に開放的だよね。分庁だからかな)
あるいは、先程誘導してくれた男女の言い方からすると、普段は閉ざしているが明香たちが来るためあえて開けてくれていたのかもしれない。着地の邪魔にならぬようにとの配慮か、近くに人の姿はない。
「すぐに迎えがくると思う」
言って周囲に軽く目を走らせた高嶺が、不意に小さくよろめいた。
「殿下?」
明香は慌てて駆け寄る。
「大丈夫だ、少し躓いた」
微笑む高嶺の顔は、よく見ると随分と青ざめていた。
「え――どうなさったんですか!?」
(うそ、いつからご不調だったの。さっきからずっと一緒にいたのに、全然気付かなかった。普通に話してらしたし……)
恐らく高嶺が意図的に隠していたのだ。妻でありながら、夫の変調に気付かなかった――気付けなかった。その事実が大きな衝撃となって胸を突く。
「実は少々天蜜が足りなくてな。四大高位神様の神使たちに対応したことで気力を消耗し、消費が早まったのだと思う。だがもう少しは保つゆえ、心配ない」
「ええ!?」
神使とはいえ、最高神たちの名代だ。ある意味では下手な高位神よりも気を遣う。
「追加の蜜を頼もうかとも考えたが、茶会でいただけばいいと思って楽観視していた」
「そんな状態なのに天威を使って大丈夫だったんですか?」
「ああ。天威の使用量と蜜の消耗量との間に関連性はない」
高嶺が蒼白な顔のままで言う。
「は、早く帝国の太子殿下の所に行きましょう!」
上擦った声で言いながら高嶺の袖を引き、だが、嫌な予感が頭をよぎる。
(すぐに蜜、もらえるよね。もし太子殿下方もお姉様方も事後処理とかで忙しかったら……)
先程の件に加え、広大な帝国では日々様々な事案が大量に発生する。緊急事態が重なってしまえば、帝族全員が一斉に忙しくなる可能性もあるのだ。
高嶺はもう少し保つと言っていた。その言葉に嘘はないだろう。もし限界が来てしまう可能性があるのであれば、それを回避するためにきちんと行動を起こしているはずだ。だが――
(もう少し保つっていうのは本当だとして。それは、渇いてるけどまだ少しは余裕があって大丈夫ってこと? それとも、もう余裕がなくてすっごく辛くて、でも何とか倒れないぎりぎりのところで苦しみながらどうにか耐えられるってこと?)
後者であったらどうしようと、不安が押し寄せる。そもそも、この分庁には橙日帝やラウ、ティルたちの天威が張られているため、高嶺の状況も視えているはず。
にも関わらず駆けつけてこないのは、高嶺にまだ余裕があるからか、何らかの急用が重複して全員手が離せず来ることができないのか。
(と、とにかく太子殿下方にお会いしないとどうにもならない。私にはどうすることも――いや、待って。確か義兄様が……)
その時、先程泰斗から教わったことが脳裏に閃いた。
「っ……」
そうだ――天蜜は譲渡できる。
(高嶺様――)
迷いは僅かもなかった。色を失くした夫の面に、そっと手を添える。触れた肌はひんやりと冷たかった。
「明香?」
訝し気な目を向けてくる高嶺の唇に、そっと自身のそれを重ねた。
(大丈夫、高嶺様は花梨様じゃない。私の天蜜を根こそぎ奪うなんてことしない。どうか蜜を受け取って)
明香と高嶺の体が発光した。紅の光と藍の光が、両者に共通する虹色の輝きを通じて混ざり合う。触れ合わせた唇を通じて、明香の中にあった天蜜が高嶺へと流れ込んでいった。目を見開いた高嶺が肩を掴んで押しやろうとするが、踏ん張って逆らい、ぎゅっと抱きしめた。
(私だってあなたの役に立ちたい。幸せも不幸も、喜びも悲しみも、笑顔も涙も、天蜜だって何だって、あなたとなら分け合える――)
「っ……――」
双眸を揺らした高嶺が、しばしの逡巡の後、ゆっくりと目を閉じた。そのまま明香をそっと抱きしめ返す。
(高嶺様)
明香も目を閉じた。
(今度からは、蜜が足りなかったり具合が悪い時はちゃんと言って下さい。私もあなたを支えますから。一緒に歩いて行きましょう。私、高嶺様みたいにさっさと歩けないかもしれないけど、頑張って付いて行きます。高嶺様だってきっと私に歩調を合わせて下さる)
抱き合う二人を、淡い虹色の膜が包み込む。
(だって私はあなたの妻なんですから。――私たちは夫婦なんです)
どれほどの時が過ぎただろうか。ほんの刹那のようにも、かなり長い時間にも感じられる抱擁の後、高嶺はゆっくりと腕をほどき、明香から身を離した。今度は逆らわず、明香もそれに倣う。愛する夫の顔色は先ほどより幾分かましになっていた。
(良かった。私の方も大丈夫。ちょっとだるいけど、動けないほどじゃない)
「あの、具合はどうですか?」
「ああ、だいぶ良くなった。そなたが蜜を分けてくれたから――ありがとう、助かった」
照れくさそうに言った高嶺が、不意に瞳を泳がせた。
「どうしたんですか? もしかしてまだ体調が……」
(今のは気休め程度。早くラウ様たちから蜜をいただかなきゃ)
明香が譲渡した天蜜の量などたかが知れている。精々、この場の数瞬をしのぐための応急処置でしかない。きちんと真帝族から一定量をもらわねば、渇きは満たされることがないのだ。
「ん? いや、大丈夫だ。そうではなくて――」
どこか上の空の様子で口ごもっていた高嶺だが、不意につるりと足を滑らせて勢いよく倒れ掛かってきた。
咄嗟のことで天威を発動させる間もない。素の腕力では支え切れず、明香は高嶺もろともすてーんとすっころんだ。
「きゃっ」
「あ、すまない……」
のしかかるような体制で共に倒れ込んだ高嶺が、慌てた様子で身を起こした。明香にも手を差し伸べて起こしてくれたが、何故か時折宙を見上げ、そわそわした顔をしている。
(やっぱり天蜜不足で調子が悪いの? でも、何か違うような……)
「……明香、怪我はないか」
視線に気付いた高嶺がはっと表情を改めて言った。
「はい」
明香は頷き、ふと高嶺の衣の胸元を見て首を傾げる。
(あれ?)
「高嶺様、それ……」
衣の袷から布地がはみ出していた。先程静殿で確認した神布と同じ模様だ。高嶺が瞬きし、布を引っ張り出す。
「ああ、この神布は茶会の間私が持っていることになったのだ。現在、遷都の完了に向けて旧宮の神官府の整理を行なっている。その関係で、ちょうど今日神布の保管場所が移動することになっていてな。夕刻には準備が整えられ、移す予定であった」
ゆえに、先程出してきた流れでこのまま高嶺が持っておくことになったそうだ。真皇族の手元にあれば、厳重かつ確実な管理な維持できるためである。
「茶会が終わる頃には新しい保管場所も整えられているゆえ、そちらに置きに行く」
「そうだったんですか」
納得した明香が頷いた時、こほんと小さな咳払いが響いた。
「殿下」
控えめな声と共に、少し離れた場所にある大きな彫刻の後ろから人影が現われた。誰か来た、と、明香は思考をぱっとそちらに切り替える。
(あ……)
姿を見せたのは、先程誘導してくれた紫水晶の髪飾りを付けた男女だった。外見的には高嶺とそれほど変わらない年齢に見えた。
(――この人たち、もしかして……)
鳥肌が立つような美しさを持つ二人を間近で眺めると、ある予感が閃く。高嶺の出方を待った方がいいかと一瞬悩むも、思い切って推測を口に出してみた。
「……失礼ながら、もしや帝子殿下方でしょうか? 縹暗帝子殿下と、茈陽帝女殿下では?」
告げた称号は、橙日帝の弟の御子たちのものだ。おそらく帝家の者だという確信はあった。目の前の二人の凄絶な美しさは、皇家と帝家独特の美貌なのだ。
果たして、年若い男女は明香に向けて気さくな笑みを浮かべた。
「はい、その通りです」
「紅日皇女殿下にはご機嫌麗しく」
(やっぱり――縹暗帝子ローアン殿下、それに茈陽帝女ソフィーヌ殿下だ! 次代の謙帝陛下だよね)
共に通常の天威師であり、代替わりしてラウとティルが即位すれば憚って謙皇帝になるとされている。高嶺にとっては父方の従弟妹になるはずだ。
「久しぶりだな」
高嶺が明るい声で呼びかけた。
(ていうかこの方たち、今来たの? 足音しなかったけど)
「ええ、お久しぶりです。……それで、あのぅ。お迎えに上がったのですが、もうよろしいでしょうか」
高嶺に微笑みかけた青年――ローアンが、次いで困ったような顔になって聞く。
「え?」
「いえその、私と兄がこちらに参りました時、殿下方がちょうど仲睦まじいご様子になられるところでしたので。お邪魔をしては悪いかと思い、しばし控えておりましたの」
ソフィーヌも遠慮がちにそっと述べた。その言葉を聞いた明香は硬直する。遠回しに『全部見ていました』と告げられたのだ――頭がぼんと破裂しそうになる。
(さっきからいたってこと!? うそ、全然気配を感じなかったよ! 熟練の隠密か何かなの!? く、口づけも見られた?)
一気に顔色を変えた様子を見てどう思ったのか、ローアンが慌てて手を振った。
「あ、大丈夫ですよ。僕たち以外は見ていませんし、もちろん誰にも言いませんから。橙日帝陛下と太子殿下方は天威で把握されているでしょうが、それはここが帝族の統べる帝城である以上仕方のないことです」
ソフィーヌも兄の言葉に追随した。
「私もそう思いますわ。……さあ、蜜をお渡しいたします」
帝子兄妹が手をかざすと、高嶺と明香を温かな光が取り巻いた。まるで体に羽が生えたように軽くなり、一気に気力が充実する。
(天蜜をくれたんだ)
もしかしたらこの二人は高嶺の蜜不足に気付いていたのかもしれない。ゆえに早く補給しようと駆け付けたが、明香と高嶺が惚気始めたので姿を現す機を逸してしまったのではないか。
「……」
何だかとても申し訳ないことをしてしまった気がして、明香はそっと目を逸らした。
「ありがとう。おかげで楽になった。ところで兄上方はどちらに?」
かなり顔色が戻った高嶺はけろりと笑って応じた。その瞳には焦りや険しさは欠片もなく、ローアンとソフィーヌへ抱く信頼だけが宿っていた。加えて、口調も雰囲気も常よりかなり軽い。
おそらくこの兄妹は、高嶺にとって『家族』に含まれる。味方だ――信用していいのだと、その態度だけで分かる。ローアンが柔らかな声音で問いに答えた。
「先程の事後処理でまだ広間にいらっしゃいますよ」
「そうか。では私たちもそちらに行こう」
高嶺がにこやかに言い、明香たちは場を移すことになった。
ありがとうございました。




