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58.ごめんなさい

ご覧いただきありがとうございます。

「確認した。――これは保管してあった神布で間違いない。……本物だ」


 高嶺の唇から紡がれた言葉がすぐには飲み込めず、明香は脳内で言われたことを反芻した。何やら()()()()があった気がしないでもないが、それを疑問に思う前に、台詞の内容が頭に染み込んで行く。


「……ほん、もの?」


(ってことは――)


「すり替えなど行われていない。つまり、あれはただの夢だったということだ」

「え? あ、はい……え?」


 本来であれば胸をなで下ろす展開にも関わらず、すんなりと納得できない。


(いや、でも、これただの布なんじゃ……。けど高嶺様が間違えるわけないし)


 明香の戸惑いを感じたか、松庵が安心させるような微笑みを浮かべた。


「これは神器ですが、神威の気配を中和するという特殊な効能を持つものです。その特性ゆえ、波動を感じ取るにはちょっとしたこつが必要なのです。皇女殿下も、今後天威の扱いに精通されれば容易く見通せるようになられるかと」

「そうなのですか!?」


 目を瞠ると、高嶺が首肯して口を挟む。


「包んだ神器の気配を和らげても、布自体が威圧を放って周囲を刺激しては意味がない。ゆえにこの布に関しては、普通の方法では気配を感じ取ることができないようになっている」

「……何だぁ……」


 つまり、()()はただの夢――この10日余りの懸念は取り越し苦労だったということだ。一気に力が抜けて崩れ落ちそうになった明香を、高嶺が支えてくれる。膝が笑って上手く立てない明香は、ぎゅっとその腕にしがみついた。


「よく分かりませぬが、一件落着ということでよろしいでしょうかな」


 ひたすら成り行きのままに付き合ってくれた松庵が首を傾げた。


「はい、ごめんなさい。高……太子殿下、義兄様、ごめんなさい。ごめんなさい」


 今まで重しのように心の奥にかかっていた不安が消えた安堵で、半ば放心状態になりながら明香は繰り返した。

 この場にいる皆に時間と手間を取らせてしまった。

 泰斗の顔が不自然に強張っていたのも、考えてみれば当然だ。いきなり不穏なことを言われ、訳の分からない夢の話が出てきてどんどん物騒な流れになっていくのだから、表情も硬くなるだろう。

 今まで能面のように表情を変えなかった泰斗が、すっと口を開く。


「いいよ、明香」


 臣下としてではなく、義兄としての眼差しと声だった。


「怒ってない。全然怒ってないから。君は何も悪くない」


 きっぱりと言い放たれた言葉が、柔らかな羽毛のように明香の心を掬い上げる。一方の高嶺は、ふわりと微笑んだ。


「それほど一生懸命に謝ってくれてありがとう。けれど気にしなくていいんだ」

「皇女殿下は色々と抱え込んでおられたのですなぁ。いくら事前の教育を受けていても、市井から皇家に入ることは想像を絶する変化のはず。表向きは申し分のない皇女の姿を見せていても、やはりご内面はいっぱいいっぱいだったのでしょう」


 松庵は感じ入ったように呟いている。


「落ち着くまで茶会を遅らせてもらうか? 何なら日を改めていただいても」

「いいえ、大丈夫です」


 高嶺の提案に、明香は急いで首を横に振った。


「そうか。では私は報告の続きがあるゆえ、もう少し神官長と話をする。その間、そなたは斎縁当主といればいい。家族と話せばきっと気持ちも落ち着く」


 思いがけない言葉がかけられる。皇女になった以上、もう泰斗と二人きりでゆっくり話す時間など取れないと思っていたのに。望外の展開に嬉しさが込み上げてきた時、永樹の顔が脳裏をよぎった。


「あっ……永樹さんにも謝らないと。私、急に飛び出してきてしまったので。永樹さんのことは怒らないで下さい。声をかけてくれたのに、私が聞かずに無理やり転移したんです」


 命令があったとはいえ、皇女を一人で行かせたことは良くないと叱責されるかもしれない。慌てて言い募ると、高嶺は苦笑した。


「天威で視ていた限り、最低限の言葉はかけていたから大丈夫だろう。皇宮の外に行くのではなく、あくまで神官府の敷地内に限定した移動だったしな。それに、永樹はそなたの護衛官ではなく私付きの文官だ」


 明香の護衛を任務として命じられたわけではなく、成り行きで共にいただけなので職務放棄にも該当しないのだと言う。


「永樹には私から念話しておこう。そもそも、皇族は強い力を持つため、護衛の必要性が少ない。ゆえにこたびのそなたのように、一言言い置いて単独で動くこともある。永樹も多少は驚いたかもしれないが、基本的には慣れているので問題ない」


 松庵も高嶺に同意する。


「そうですね、太子殿下からお伝えいただくのがよろしいでしょう。ところで皇女殿下、こちらで話すのもなんですから場所を変えられては」


 そう言ってちらりと向けた視線の先には、花梨が寝ている場所がある。


「あ……」


 泰斗の件に集中していたとはいえ、花梨のことは明香もずっと気になっていた。場所を移したために遠のきはしたが、うめき声と苦し気な気配は今も微かに伝わってくる。


「…………」


 佳良を左遷し泰斗や栄生たちを傷付けたあの理不尽さには今も怒りを覚えるが、ここまで弱り切った様子を見てしまうと、胸の奥がぎゅっと軋んだ。


「あの、花梨様――ではなくて、西の御子は……」

「天蜜が足りないのだろう」


 高嶺が憂慮を秘めた声で返す。


(え? 松庵様……は聖威師で神官長だからともかく、義兄様の前で言っちゃっていいの? 皇家の弱点なのに)


 天蜜のことは皇家の秘事だと聞いていた。

 明香の困惑を察したらしい泰斗が口を開く。


「僕は皇家の秘伝の一部を教えていただいている。斎縁家で明香の食事にこっそり蜜を混ぜていたのは僕だから」


 高嶺も安心させるように言う。


「斎縁当主は信用が置ける者だ。皇宮のこと、皇族の事、御威のこと……何でも話して構わない」


(あ、そうだったの)


「帝家の方々は西の御子様に天蜜を下さらないのですか?」

「通常分はきちんと下さっている。だが、西の御子は今、追い詰められ精神が消耗している。心に余裕がなくなれば天蜜の消費は早まり、必要量も多くなる。蒼月皇陛下が帝家に追加の蜜を打診なさったそうだが、そちらは却下されたようだ。……自らの行いが招いた結果だ」


 明香の問いに、高嶺は平坦な声音で告げる。その双眸の奥には、自業自得だと冷徹に割り切る為政者の判断と、それでも見捨て切れずに花梨を案じる感情の双方が混在していた。


「何とか……してあげられないのですか?」


 花梨が刑を受け始めるのはこれからだ。天蜜不足の苦痛は皇家の体質に由来する生理的なものであり、罰ですらない。ラウとティル、テアとミアの顔がぽわんと浮かぶ。優しく温かな態度で明香を導いてくれた彼らは、花梨に対しては豹変するのだろうか。


(でも、既定分の天蜜をちゃんと下さってるなら何も言えないし……)


 それ以上の自己管理と精神管理は花梨自身が行うべきだ。どうしても間に合わなければ追加の天蜜を頼むことになるが、それを受諾するかは帝家の任意である。


「畏れ多くも日神の御子を詐称し、皇家を謀った者です。殿下方がお気にかける必はございません」


 松庵がやんわりと、しかしきっぱりと言い放った。泰斗は目線を下げたまま表情を変えない。薄暗い静殿で、その顔色は常よりもさらに白く見えた。


(花梨様)


 重苦しい心を抱える明香の気を逸らすように、松庵が軽く手を叩いた。


「さ、藍闇太子殿下。この後は茶会とお聞きしております。帝家の方々をお待たせしてはなりません。報告を済ませてしまいましょう。皇女殿下も、どうぞ斎縁当主とお話を。神官府の貴賓室が空いておりますので、そちらに行かれてはいかがですか。こちらの話が終わりましたら念話させていただきます」

「分かりました」


 明香が頷くと、気を遣ってくれたのか、高嶺と松庵はそろって先に姿を消した。

 微妙に居心地の悪い沈黙が落ちる。


「あの……義兄様」

「何、明香」


 意を決して口を開くと、泰斗が真っ直ぐにこちらを見た。皇族に対して取るような伏し目がちの態度は取らない。


「前みたいに話してくれるの?」

「今回だけは仕方ないね。さっきからそうしちゃってるし、太子殿下だって君が家族と話すことを望まれている。なら、皇族と臣下じゃなくて義兄妹として話をするしかない」


 肩をすくめて言うと、抑揚のない声で続けた。


「苦しかった?」

「え?」

「夢を視たんだよね。大事な布がすり替えられる夢。で、その中に僕も出ていた。そうだよね」


(うっ……そりゃあの流れだったらそれくらい予想できるよね)


 目を泳がせた明香に、泰斗は小さく息を吐き出した。


「10日以上もずっと苦しんで、悩んで、心配してたの? 皇宮に慣れるので精いっぱいだったろうに、僕のせいで」


 悔いるように言葉を紡ぎながら、視線を落とす。ごめん、と、その唇が小さく動いた。何故義兄の方が謝るのかと、明香は急いで言い募る。


「ううん、私が勝手に勘違いして一人で悶々としてただけだから! 義兄様が謝ることないの」


(私の思い過ごしだったんだし。北の御子様の彫刻の製作年を間違えたのだって、きっとうっかり勘違いしただけだよね)


「いや、違うんだ。僕が……」


 低く呟いて黙り込んだ泰斗を不思議に思いつつ、明香は一歩近づいた。


「ね、義兄様。義兄様からは本当に色々なことを教わってきたよね。その全部が、私をものすごく助けてくれてるの。栄生さんたちから教えてもらったことも」

「そうだろうね。僕も栄生たちもそれを見越して指導をしたから」


 あっさりと頷いた泰斗に、深呼吸してさらに聞く。


「それは陛下に頼まれたこと? 私が皇女かもって、知ってた?」

ありがとうございました。

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