57.もう抑えられない
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つかの間沈黙が落ちる。
見つめ合ったまま動かない明香と泰斗の周囲を縫うように、花梨のくぐもった苦鳴が流れていく。
(花梨様、苦しそう)
だが、今は目の前の泰斗の方が優先だった。
少しの硬直の後、先に動いたのは泰斗だった。一切の無駄がない動作で胸に両手を当てて跪拝する。
「大変失礼をいたしました。畏れ多くも皇女殿下の御前にてご無礼を仕りましたことを心よりお詫び申し上げます。また、卑賎の身でありながら殿下の御姿を拝見する栄誉を賜りましたこと、恐悦至極にございます。殿下におかれましてはご機嫌麗しく――」
「やめて」
想像以上に冷たい声が飛び出した。
「顔を上げて。義兄様がどうしてこんな場所にいるの」
「皇女殿下に申し上げます。西の御子に関わる備品の作製を命じられましたので、許可を得て参りました次第にございます」
ここに来たのはきちんとした理由があったようだ。白珠が掌握している皇宮でおかしな動きをすれば即座に露見するため、当然と言えば当然ではある。しかし、逆に言えば理由さえあれば堂々と動けるのだ。
「どうしてそんなに他人行儀にするの? 私たちは今も義兄妹だよね。私の身分がどうなろうと、私が斎縁家の養女で義兄様の義妹になった過去は消されてないはず」
言いながらこっそりと気配を探ると、予想通りこの場には白珠と高嶺の天威が満ちているのが感じられた。
(高嶺様が視て下さってる)
想定していたこととはいえ安堵していると、跪拝を解いた泰斗は眉一つ動かさずに滔々と言葉を紡いだ。
「お仰る通りでございます。しかしながら、皇女殿下はもはや私とは身分が違います。上に立つ者の在り方、振る舞い、節度――全てお伝えさせていただいたはず。殿下におかれましては、なにとぞご自身のお立場をお考え下さいませ」
泰斗が全面的に正しい。身を焼くような緊張と焦燥の中で、しかし、明香は素直に認めた。例え身内であろうと、明香には今の立場というものがある。義兄相手でも態度を崩すことはできない。
そう分かっていながらも、義兄の顔を見てしまえば抑えられない本音が溢れ出た。
「もう、前みたいには話せないの?」
「義兄であるからといって領分を失すれば、私が不敬罪で捕まってしまいます」
不意打ちを喰らい、明香の心臓が飛び跳ねた。
今の言葉は、泰斗なりにこの状況下で精一杯冗談めかしたつもりだったのかもしれない。だが、まさに皇家に対する叛意ありとの可能性を考えている明香にとっては、槍のように胸を抉る凶器であった。
(義兄様が、敵になるかもしれない……)
こうして間近で向き合った途端に慕わしさが湧き上がる。その親情の中で、残酷なことを考えなくてはならない。視界がぼやけ、目から熱いものが滲み出た。
泰斗が微かに驚きを浮かべて瞬きする。
「どうなさいました」
「そうだね、義兄様。私、義兄様を不敬罪で捕まえないといけないかもしれない」
「え?」
泰斗が聞き返した時、藍色の光が弾けた。現れた高嶺が明香の体を支える。何故か松庵も一緒だった。
「め……皇女! どうした、何故泣く」
やはりこちらの様子を視ており、急に泣き出した明香が気になって来てくれたらしい。はっとした泰斗が再び礼を取ろうとするが、手の一振りで制する。松庵が戸惑いがちに言った。
「どうなされたのですか、皇女殿下?」
明香も思わず聞き返す。
「あなたこそ、何故こちらに?」
「私は藍闇太子殿下から森の神に関するご報告を受けておりました。その最中、皇女殿下のご様子が急におかしくなったと太子殿下が仰られまして。気になったもので、転移で共に来てしまったのですが……」
どうやら成り行きで付いてきてしまったらしい。申し訳なさに苛まれつつ、明香は口を開いた。
「そうでしたか。心配をかけてしまってごめんなさい。……太子殿下。急で本当に申し訳ありませんが、お話ししたいことがあります」
これからラウとティルとの茶会が控えているため、報告が終わればすぐに帝国分庁に戻らねばならないことを考えると、非常識な申し出だ。高嶺には時と場を改めて相談した方がいいに決まっている。
だが――義兄の顔を見ると感情が荒れ狂う。
もう抑えられない。これ以上先延ばしにすることはできない。
心がそう告げていた。
一方、いきなりの言葉を受けた高嶺は一瞬沈黙した。明香、泰斗、松庵、花梨に目を走らせ、訝しげに言う。
「今、この場でか?」
「はい」
「――分かった」
唐突な願いにも顔色一つ変えずに即応してくれたことに感謝しつつ、明香は高嶺の袖を引いて少し離れた場所に移動した。まだ泰斗が謀反人と確定したわけではない。あれはただの夢だった可能性も十分にあるし、そうであってくれと願っている。
だからこそ、松庵もいる場でいきなり騒ぎ立てるわけにはいかない。
「神官長、斎縁当主と共にいて下さい。私たちが戻るまでどこにも行かないで、二人でいて下さい」
振り向いて言うと、松庵と泰斗は無言で一礼した。二人から死角になる位置に落ち着くと、明香は高嶺を見上げて口ごもった。
「あの……」
だが、それを目線で止めた高嶺が、天威を展開させると周囲を囲うように薄く覆った。
「言いにくいことなのだろう。私の力で結界を張った。これでそなたが話すことは私にしか聞こえない。この中にいれば、例え陛下であってもそなたの声を聞くことはできないから安心しろ」
「え――いいのですか? そんなことをして怒られてしまいませんか?」
「私は蒼月皇陛下より相応の権限を委任されているゆえ、今回に関してはその範疇で収まる。ゆえに気兼ねなく話して欲しい」
戸惑う明香に向って、高嶺が優しい口調で言う。こちらの不安も焦りも全てを呑み込んで昇華してしまうような、大きな静けさを湛えた双眸をしていた。
「それで、どうしたのだ明香」
「高嶺様……」
再び、明香の目から涙が溢れた。
あの夢を見てから今まで、ずっと我慢してきた涙だった。皇女としての生活に慣れようと必死な裏で、明るい思考を維持する陰で、ずっとずっと膨らませ続けてきた義兄への困惑と焦燥。
それが一気に噴き出してくる。
「実は……私、夢を見たのです。その夢の中で、私の義兄は――斎縁泰斗は、花梨様の証拠品をすり替えていました」
しゃくり上げながら話し始めた明香の言葉に、高嶺が切れ長の目を見開いた。嗚咽を漏らしながら、明香は夢のことを一つずつ話していった。
虚構の夢か現実の遠視か、無実か有罪か、杞憂か正鵠か――その狭間で惑って動けなくなり、相談しなくてはと思いながらも一歩を踏み出せずにいたことも。
「申し訳ありません。何もかもいきなりで……もっと早くお話ししていれば」
「話してくれて礼を言う。もう大丈夫だ」
頰を流れる滴を指で拭ってくれながら、高嶺が微笑んだ。
「今の時点で断言はできないが、おそらく夢ではないかと思う。花梨が所持していた神器を包んでいた神布は、厳重に保管して皇宮の内部に安置されている。大神官であろうとも私の目を盗んで持ち出すことは難しい」
「本当ですか」
「ああ。万一すり替えられていたとしても、斎縁当主は公正に取り調べることを約束しよう。過度な尋問や規定以上の酷刑にはしない」
(高嶺、様)
泰斗は現時点では反乱を起こしていない。仮に神布のすり替えが本当であっても、それだけでは酷刑には処されない。懸念事項としては、不穏分子を摘むために規定以上の罰が課されることだったが、高嶺はその憂いを取り払ってくれた。
(良かった……)
濡れた眼差しで見上げる明香に頷き、高嶺は結界を解くと泰斗と松庵がいる方向に目を向けた。待機している泰斗は、格子を隔てた先で苦しむ花梨をじっと見ている。松庵はその近くで佇んでいた。心なしか冷ややかな目をしているような気がする。
「二人ともこちらへ」
高嶺が声をかけると、泰斗と松庵はすぐに反応し、花梨のいる場所から離れてこちらにやってきた。
「神官長」
高嶺が声をかけた。
「藍闇太子殿下。お話はお済みで……」
「神布を持って参れ」
いきなり告げられた言葉に、松庵が瞬きした。
「はい?」
「西の御子が持ち出した神器を包んであったものだ。証拠品として保管してあるだろう」
その瞬間、泰斗の顔色が変わったように見え、明香はぎくりとした。だが、ほんの一瞬だったため、見間違いかもしれない。
松庵が高嶺の真意を探ろうとするかのように返す。
「ご命令とあらば、もちろん。……ただ、大変畏れながら、理由をお聞きしても?」
「皇女が夢を見て不安がっているため、安心させてやりたいのだ。何でも、あの神布が偽物にすり替えられてしまった夢を見たようでな。思わぬ内容に困惑していたところ、義兄たる斎縁当主がこちらに来ていることを知り、身内の前で情緒が乱れてしまったらしい」
泰斗と恵奈が共謀していたという内容は出さず、高嶺は簡潔に説明する。
「何と、そのようなことが……」
今のざっくりとした概略でどこまで納得したのかはともかく、大まかな事情は掴めたらしい松庵が頷いた。
「神布は私とそなたも含めた神格持ちが管理しているゆえ、持ち出すことは不可能だ。だが、皇女を安心させるために今この場で確認しようと思う」
「…………」
泰斗は無言だ。だが、その表情は明らかに硬い。はっきりと分かるほどの変化だ。
(義兄様――?)
「承知いたしました。すぐに持って参ります」
礼をして松庵がかき消えた。
「明香、心配せずとも大丈夫だ。本物の神布が確かに保管されていることを確認できれば、それで解決する」
高嶺が安心させるように微笑むが、明香はとても笑う気にはなれない。
(義兄様、どうしてそんなに強張ってるの?)
滅多に本音を見せない泰斗の感情が、今は揺れているのを感じる。はらはらとしていると、松庵が薄紫の包みを手に戻ってきた。
「お待たせいたしました。保管場所の結界と、布を入れていた箱に張ってあった結界、双方共に異常はございませんでした」
言いつつ、丁寧な仕草で包みを開く。中には、帝国の意匠の布が綺麗に畳まれて入っていた。
高嶺がそれを取り上げ、手をかざして注視する。その双眸が、虹を宿した藍色に輝いた。天威を発動させて視認しているのだ。
それを見ながら、明香は顔を曇らせていた。
(この布……神威を感じない。天威も聖威も霊威すらない。ただの布じゃない?)
この布も神器なのだと聞いているが、これは――普通の布だ。花梨が処断された時にもこれを見たが、あの時とは違い、今の明香はそれなりに天威を使いこなせるようになっており気配も分かる。
むくむくと増していく嫌な予感に、心臓が早鐘を打つ。そろりと泰斗を窺うと、彼は青白い顔をして唇を引き結んでいた。
永遠にも思えた時間は、実際にはほんの数瞬だっただろう。
布を見つめていた高嶺が静かに顔を上げる。
藍色に染まった眼が、虹色の瞬きを灯しながら明香を真っ直ぐに見据えた。
ありがとうございました。




