48.メイリーアン・ノルギアス
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「皇女から離れろ。今すぐその席を立て、無礼者」
「皇女に気安く触ろうとするんじゃないよ」
闇を裂く雷光のような鋭さを秘めた声と、ふわふわの砂糖菓子のような甘さを含んだ声、二つが明香とカイシスの間に割って入った。
その瞬間、ぐるんと視界が回転し、気が付くと膝下に冷たい床の硬さを感じた。
(――ん?)
自分は脊髄反射で席を立ち、跪拝したのだ――それを理解するまで、数秒の時間を要した。はっと顔を上げると、ライハルトとカイシスも膝を付いている。帝国の官吏たちも同様だ。この場にいる全員が地に頭をこすりつけ、新たに現れた者たちに平伏していた。
(陛下や高嶺様の時と同じ……)
ただただ圧倒的な気だ。何もせずとも、その存在だけで自ずと相手を従わせてしまう。明香はそろりと目を動かし、声をかけてきた人物たちを見た。
緩やかな長い金髪に、晴れ渡った空のような瞳を持つ青年。
少しはねた短い金髪に、紺碧の海のような瞳を持つ青年。
帝国の衣を纏った二人の男性が、片方は無表情で、もう片方は薄い笑みを浮かべて立っている。
(太子、殿下……だよね。帝国の……)
誰に説明されずとも直感で理解できる。この二人は間違いなく真帝族――おそらく帝国の太子たちだ。それぞれ黈日神と紺月神の神格を持つ全き天威師で、高嶺の兄、明香の再従兄妹。心臓がとくっと小さな音を立てた。
(これ……共鳴?)
帝国の太子兄弟のうち、長男は日神の加護を受けている。
「ラウ様――」
壁際で額づいたアーネリアが呟く。彼女の声は、静まり返った広間で思いのほか大きく響いた。
(え、ラウ?)
明香は思わず目を見開く。
ラウというのは帝国の黈日太子の名の一部だ。だが、その名で呼べる者は限られているはず。
短髪の青年の瞳に、火の粉が散ったような赤い輝きが閃く。そして、ちらとアーネリアを見遣り、笑顔を崩さぬまま口を開いた。
「兄上の――黈日太子殿下のその御名を軽々しく口にするな、レディ・メイリーアン。あなたにはもうその資格はないだろう」
「も、申し訳ございません……」
アーネリアが身を縮めて謝罪する。
刹那だけ赤みを帯びた短髪の青年の瞳は、すぐに元の碧に戻った。脇にいる長髪の青年は表情を動かさない。だが、空と同じ色をした双眸の奥に、哀しさを帯びた痛みが瞬いているように感じた。
一方、やり取りを見守っていた明香は、驚愕と混乱で無意識に言葉をこぼす。
「メ、メイリーアンって、まさかあの……あなたアーネリア殿ではないのですか?」
(まさかメイリーアン・ノルギアス!? ノルギアス家の先代当主のご息女で、帝国の太子殿下に婚約解消されたっていう?)
帝国きっての名家の令嬢が太子の婚約者となり、しかし度が過ぎた素行の悪さに婚約を取り消され、寵を得ていた神からも見捨てられた――現在から半年と少し前に起こったその一件は、皇国でも語り草となっている。その名家というのがノルギアス家であり、令嬢の名がメイリーアンなのだ。
短髪の青年と明香の言葉を聞いた周囲の人々も、一斉に彼女の方に目を向け、幾人かがはっと驚きを浮かべている。もしかすると、容貌の認識を阻害するような霊具でも仕込んでいたのが、天威師の言霊で解除されたのかもしれない。
(確か私より2つ年下で、15歳になってすぐ婚約解消されたんだよね)
ただ、婚約を取り消されたといっても、一方的に理不尽な破棄や剥奪をされたわけではない。正規の手続きを経た上で正当に成された解消であり、帝家とノルギアス家の双方が合意したことだ。
懸命に情報を思い出していると、不意に疑問が湧き上がった。
(あれ、何か変じゃない? そもそも皇宮の様子は陛下と高嶺様が天威で視ていらっしゃるから……本来よりずっと早い時間に、アーネリアさんじゃなくてメイリーアンさんが皇女宮に行って私を連れ出す様子もご覧になってたはず。その時点でおかしいって思って、佳良様とかに念話で連絡して下さりそうなのに)
帝国太子の婚約者であったメイリーアンの顔は、白珠も高嶺もよく知っているはずなのでなおさらだ。容姿を認識できないようにしていたとしても、天威師には通用しないだろう。だが、その答えはすぐに弾き出された。
(あ、違う。今日は皇宮内の天威がないんだ! 神使たちが柑橘を採りに来られてたから)
だからメイリーアンの動向を察知できなかったのだ。一人納得していると、青年――太子たちがつと足を踏み出し、明香の前に進み出る。胸に手を当て、ため息が出るほどに美しい礼をして膝を付くと、完璧な皇国語で話しかけてきた。
「お初にお目にかかる、紅日皇女。今日は来てくれてありがとう」
「直接お会いしてみたいとずっと思っていたから、嬉しいな」
(ひょえー……)
あまりに洗練された所作に思考が停止する。明香がぼうっとしているうちに、二人はさっと立ち上がった。長髪の方――黈日太子が差し伸べてくれた手を取ると、ふわりと体が引き上げられる。再び共鳴が起こり、胸の奥が飛び跳ねた。メイリーアンが来てからずっとじくじくと続いていた胸の痛みが、すっと和らいでましになっていく。
「――!」
柔らかな眼差しを向けてくる太子たちと視線が絡み合い、明香は我に返った。慌てて帝国語で返答する。
「こちらこそよろしくお願い申し上げます、黈日太子殿下、紺月太子殿下。この場にてご挨拶させていただきます。蒼月皇陛下より皇女と太子妃の称号を賜りました明香と申します。有する神格は紅日でございます」
(しまった、これ跪拝してる時に言えば良かった)
挨拶しながら気が付くが、時すでに遅しだ。思わず肩を竦めるが、太子たちに気にした様子はない。優しい雰囲気を纏って眦を下げ、皇国語で再び口火を切る。
「ご丁寧に痛み入る。私は黈日の神格を持ち、橙日帝陛下より太子位を頂戴しているラウという」
「同じく、橙日帝陛下から太子の座をいただくティルだよ。紺月の神格を持っている」
カイシスとメイリーアンが顔色を変えた。官吏たちもだ。
ライハルトは表情を崩さない。この広間にいる者たちの身分や立場であれば、帝国語と並び世界の公用語となっている皇国語は高水準で習得している。ゆえに、太子たちの発言を正確に理解することができた。
広間の人々が一気にざわめく中、明香は礼儀も忘れて太子たちを凝視する。
(今、何て……何でその名前を)
太子たちは全ての名を名乗らなかったが、それは問題ない。今の明香は非公式かつ私的に分庁を訪れた身だ。公務での正式な対面ではないと示す意味で、あえて一部しか名乗らないということは有り得る。だが、その一部が問題だった。
――ラウとティル。
それは確かに帝国太子の名だが、ごく一握りのものしかそう呼ぶことを許されないはずなのだ。
明香が困惑の声を上げるより先に、太子たちが続けた。
「明香、そなたは私の義妹。ゆえに私を呼ぶときは、どうかラウと」
「そうそう、俺たちは家族なんだから。ティルと呼んでほしいな」
「――光栄でございます。……ラウ様、ティル様」
実際に呼んだら憤激されないだろうかと心配しつつ、そっとその名を舌に乗せてみると、太子たち改めラウとティルは満足気に微笑んだ。
ラウの無表情がふっと綻び、作り物のようだったティルの笑みには生きた者の温かさが宿る。年相応にも見える、まだ年若い青年たちの笑顔だった。
(確かラウ様は20歳、ティル様は19歳だったはず)
上からラウ、北の御子、ティル、高嶺の四兄弟であったと記憶している。心から嬉しいと思っていることが伝わってくる二人の笑顔につられて、明香も自然に笑顔を浮かべていた。
それを見たラウとティルがますます喜びに満ちた顔になり、明香の緊張がするりと解れていった時。
広間の外からズドドドドカツカツカツという足音が響いてきた。
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