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46.ノルギアス大公家とモンザート侯爵

ご覧いただきありがとうございます。

 外に比べるといささか薄暗い建物内部に、帝国の衣装に身を包んだ金髪の男性が笑顔で立っている。その目と唇は弧を描いた三日月の形に配置されているが、細く開いた眼窩には底なし沼のような闇が広がっていた。


「お待ちしておりましたぞ」


 糸を引く粘液のようにねっとりとした声が、台本を読むかのような平坦さで歓迎の言葉を紡ぐ。


「――!」


 明香の背に悪寒が這い上がった。これは嫌悪だ。あの宗基家当主・豪栄に感じたものと同じ忌避感。

 壮絶ともいえるほどに強い倦厭(けんえん)の感が、滂沱(ぼうだ)のごとく沸き上がる。

 反射的に目を背けて足を引こうとした瞬間、義兄と高嶺の顔が脳裏に浮かんだ。


『嫌な者を前にした時には、己を律していっとう美しく笑うようにしなさい』

『忌避する相手にこそ見苦しい姿を見せぬように。いかなる時でも堂々と、高潔であれ』


 二人の講義で教わったことだ。どれだけ慈愛に満ちた者でも、本当に苦手な者や嫌な相手に出会うことはある。そのような時でも、自分という一本の芯を保っていれば、相手にも自分の嫌悪感にも呑まれることはないのだと言い聞かされた。


「――あら、どちら様でございますの?」


 寸でのところで踏み止まり、明香は唇を綻ばせた。少女の可憐さと女性の嫣然さ、そして皇女の高貴さを全て混ぜ合わせた微笑を乗せて口を開く。


(私は紅日皇女。日神様の御子。盛り盛りだろうが何だろうがそれが事実)


 例え思いもよらぬことであったとしても、自分はこの国を統べる真皇族の一員となった。


(だから、無様な姿は見せられない)


 男性とアーネリアは、つかの間圧倒されたように明香を凝視した。


「っ……これは失礼を」


 一足先に平静を取り戻したのは、男性の方だった。片足を引いて胸に手を当てる帝国式の礼を取り、恭しく礼をしてから跪く。


「私めはモンザート侯爵家当主、カイシス・モンザートと申します。ノルギアス大公家の先代当主の相談役を務めておりました。紅の皇女殿下におけれましては以後お見知り置きを」


(――え!)


 喉から溢れそうになった驚きを飲み下し、明香は目の前の男を眺めた。モンザートよりも、その後に告げられた家名の方がよほど重要だった。


(ノルギアスって、あの? 宗基家の帝国版みたいなとこでしょ? ずっと帝家に仕え続けてきて、帝家の庶子が降る名門で、先代のご息女は帝家と婚約関連で色々あって、しかも……花梨様に神器を盗まれた、まさにその家じゃない)


 高嶺は帝国の高位貴族とだけ言っていたが、神器を貸与された家門などそうそうあるはずがない。その中で半年前に宴を開催した家、同時期の花梨の外出記録に記された行き先、等の情報と組み合わせれば、容易に絞り込める。少なくとも皇宮で働く者たちは、暗黙の了解でノルギアス家だと分かっているはずだ。

 ノルギアスの名が出た途端、何故かアーネリアがびくんと肩を震わせている。

 泰斗から叩き込まれた自制術で動揺を押し隠した明香は、扇をはらりと広げて優雅にかざし、口元を隠した。


「まぁ、そうでしたの。こちらこそよろしく、侯爵閣下」


 庶子を賜ることで帝家と縁続きになったノルギアス家には、皇国の一位貴族に相当する大公の地位が与えられている。その大公家から直接分かれた家は公爵家となり、こちらは皇国に当てはめれば従一位貴族に該当する。従って、純粋な臣下という意味では侯爵家が最上位だ。モンザート家は侯爵の中でも序列は高い方である。


(帝国の貴族名鑑はばっちり叩き込まれたからね、義兄様に)


 一瞬目を見張ったカイシスだが、すぐに唇を吊り上げる。


「こうして皇女殿下にお目見えできますとは光栄の至り。いえ、太子妃殿下とお呼びした方がよろしいでしょうかな」

「どちらでも構いませんわ」


 穏和に、しかし最低限の台詞のみで、明香は答える。笑みの形にこね上げた表皮を貼り付けているようなカイシスの顔は、見ているだけで醜悪であった。外見的には整った顔立ちをしているのだが、醸し出す空気がとにかく不愉快だ。


(気持ち悪い。言っちゃ悪いけど……)


 汚物とへどろを溜め込んだ腐海のごとく濁った碧眼を見ると、足元から寒気が這い上がってくる。宗基豪栄と相対した時も気分が悪くなったが、あの時の明香は極度に疲労していたおかげで感覚が多少麻痺していた。だが、今は気力も思考も充実しているので、不快感をそのままびんびんと感じてしまう。


「さあ殿下、茶会の部屋までご案内いたしますのでどうぞ中へ」


(まさかこの人も一緒に茶話会に参加するんじゃないよね。迎えと案内に出ただけだよね)


 ねっちりとした笑みを深めて中へ招くカイシスに内心で閉口しつつ、離れの中に入る。侯爵を使い走りにできる者など帝族くらいだが、テアとミアがこの男を遣わすとは思えない。自ら皇女の出迎え役を買って出たのだろうか。


(というか、お姉様方ならご自分で出てきそうなのに)


 やはり分庁内では猫を被っているのだろうかと考えた時、自分の脇で立ち尽くすアーネリアが青ざめていることに気が付いた。唇まで白くなっており、先ほどよりもずっと恐怖しているのが見て取れる。


「……?」


 何かがおかしい、と思った時。


「そうだ――殿下にあまり歩いていただくのも申し訳ありませんので、転移で移動してしまいましょう」


 唐突にカイシスが告げ、周囲の空間がぐわんと湾曲する。次の瞬間、明香たちは広間にいた。

 広々とした部屋の真ん中には、大きな布――帝国ではテーブルクロスと呼ばれている――が敷かれた長卓があり、上は吹き抜けになっている。

 日の光が燦々と差し込む広間は明るく、官吏と思われる帝国人がちらほらと行き交っていた。


(……いやちょっと待って、ここどこ? 何この部屋? こんな開けた場所で茶話会やるの? あれ、お姉様は?)


 軽く混乱している明香を、カイシスが長卓の上座にいざなう。


「さ、こちらへどうぞ。帝女殿下方は急用で少し遅れられるそうで、しばしこちらでお待ちいただきたいとのことです」

「まあ、何事かあったのでしょうか……早く来られるとよろしいのですが」


(遅れるって……かなり早く迎えがきたのに? あ、迎えをやってから急件が入っちゃったとか?)


 だが、困惑気味の明香を意に介さぬ様子のカイシスは、帝国語で信じられない言葉を続けた。


「皆の者、この方は皇国の紅日皇女だ! 日神の加護を受けた全き天威師で、皇国の希望であらせられる! 非常にご優秀だと評判だ! 本日は光栄なことに、我が帝国の分庁にご足労下さった!」


 高らかに言い切られた言葉が、一瞬飲み込めなかった。が、すぐに脳が理解していくに従い、呆気に取られて目の前の男を眺める。


(ちょっと、何言ってるの……何なのこの人。こんな予定じゃなかったよね)


 今日は身内だけでこぢんまりと行う内輪の茶会だったはずだ。それをこのような場所で、このような大声で言いふらしては、注目の的になってしまうではないか。

 案の定、周囲にざわめきが走った。何対もの碧い視線が向けられる。皇国、皇女と呟くざわめきが広がり、たちまち人が集まって来た。


(何なの、そんなに自慢したいの?)


 さすがに明香を害するつもりはないだろう。このような人目のあるところで危害を加えることはできない。そもそも、皇女かつ太子妃である者に下手なことをすれば外交問題になる。

 案内役のアーネリアならば何か知っているだろうかと視線を巡らせるが、一緒に転移したらしい彼女は、隅の方で俯いて壁と同化してしまっている。彼女に念話を繋いでみても、答えてくれないような気がした。

 ならば高嶺に念話して今の状況を伝え、どうするか指示を仰ぐべきだろうか。だがーー


(……だめだ、やっぱり念話できない。侯爵は転移を使ってたから、いけるかと思ったけど)


 四大高位神の神使が降りているのはあくまで皇宮ーー皇国だ。分庁は皇宮の中にあるものの帝国の一部という扱いであり、ある意味では皇国から切り離された領域であるため、御威が使えるのだろう。しかし、正真正銘皇宮にいる高嶺に対する念話は弾かれてしまい、まだ不通の状態だ。

 帝国にいるであろうテアとミアに念話すれば通じるかもしれないが、彼女たちは急件に対応している最中のはずだから、邪魔になるようなことはしたくない。


(ここは帝城なんだから。橙日帝陛下はこの状況をご存知だよね。帝国の太子殿下だって……。なら、きっとすぐ誰か来てくれるはず)


 そう自分を励ました時、次席に座ったカイシスが、遠巻きにこちらを窺っている帝国の官吏たちに声をかけた。


「何をしている、早く皇女殿下にメニューを」

「はっ!」


 一人が即座に動き、入り口付近の棚から金貼りの冊子を取り出して近づいてくる。明香が改めて周囲に目を走らせると、様子を見守る者たちはだいぶ増えていた。広間の隅にある柱の陰からそっと顔を出し、心配気にこちらを見ている者たちもいる。


「――どうぞ、皇女殿下」


 見やすいように表紙を開いた状態で捧げられた冊子は、分厚い品書きだった。前菜の名前がずらりと並んでいる。


(……うっわぁ、最悪!)


 明香は胸の奥で呻いた。帝国では、客人を招いた時に料理を振る舞う慣習がある。早朝だろうが深夜だろうが食事前後だろうが関係なく、とにかく飲食物をご馳走することが礼儀なのだ。


(断ったら相手の面子を潰すから無礼になるんだよね)


 皇国の者である明香が帝国の様式に合わせることはないとはいえ、ここは帝城である以上そのしきたりを尊重することも必要だ。


(前菜から食後の甘味まで一通りは頼まないといけないんだっけ。どれも一口食べればいいらしいけど)


 何とか理由を付けて断りたいが、過度に固辞するのも抵抗があった。


(しょうがない……)


 仕方なく品書きを眺めると、前菜から順に、幾種類も用意されている料理を注文していく。内容や味が偏らないように考えながら、前菜、吸い物、野菜料理、魚料理、肉料理、口直し、甘味、飲み物など一通りを頼み、味付けや焼き加減なども好みに応じて答えると、カイシスが何故か棒を飲んだような顔になった。


「……皇女殿下は帝国語が堪能でいらっしゃる。帝国の料理にもお詳しいようで」


 品書きは帝国語で、皇国語のふりがなはなかった。注文のやり取りも帝国語だ。だが、義兄に骨の髄まで鍛えられた身なので、何の問題もなかった。


(たしな)む程度ですわ」


 さらりと答えている内に、卓上には食器類が並べられ、前菜が運ばれてきた。

ありがとうございました。

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